第5部

ー八月十一日午前九時 首相官邸危機管理センター宿泊室

「神威?」

誰かの声。耳の中に響く。優しい声。

だけど、今はそんな状況じゃない。頼む。起こさないでくれ。全て、夢であったくれ。ここ一週間、願わくば、12年前から全て、夢であってくれ-

耳の中に鋼鉄のドアを叩く音が響き出した。

「神威!起きろ!」

反射的に顔を上げる。ここは宿泊室の中だ。もう一度、廊下を見渡す。

「神威!?」

「何がありました?」

俺はドアによって尋ねる。

「事態が変わった。用意しろ。」

「了解」

俺はデスクに戻って拳銃を取ろうと振り向いた。

ふと、橘と目が合う。起きていたのか。

目線を外して。拳銃を手に取る。ホルスターごとベルトに通す。

「行くの?」

彼女が尋ねる。

「ああ」

「無理してない」

「大丈夫」

俺は足早にこの部屋を去りたかった。私情を挟みたくない。その一心でドアに足を向けた。

「ねえ」

「何?」

振り返りざまに尋ねる。

「頑張ってね」

彼女は少し心配そうな顔で言った。

頑張らなきゃいけないのは橘の方だろうに。

彼女が一歩近づく。だけど、俺はその場で硬直した。化け物が近づくように感じた。いや。そう見えた。血塗られた手。背後からは炎が迫ってくる。

近づくことに勢いを増す。視界が霞む。その右手にがきらりと光る。

これ以上近づかないでくれ。

これは彼女だ、橘だ。そう言い聞かせる。だけど、目の前にいるのはそれじゃない。

右手のナイフが自分の首元を狙う。拳銃のグリップに手がいく。

違う。撃つべきはこいつじゃない。

音が入らない。視野が狭まる。トンネルビジョンだ。自分でも分かる。

彼女の手が腕に触れる。

暖かい、優しい感覚が手に伝わる。どこか安心できる。なぜかはわからない。

音が戻る。呼吸がうるさい。肩で息をする。

「心配だから」

彼女がうつむきがちに言った。だがもう俺は耐えきれなかった。俺は無理にでも彼女を突き放し、ドアを開けて、外に出、ドアを自重で閉じた。

空を仰ぐ。鉄の扉を通して汗の冷たさが身に沁みる。

足が震える。力を抜けば立っていられなくなりそうだ。

「大丈夫か?」

呼び出しにきた内山一佐が尋ねた。

「ええ、問題ありません」

俺はそう答えた。


通路を出て、本部に入る。U字テーブルの周りには誰もおらず、皆中央に集まっている。

仮設の電光テーブルの周囲に部署関係なく関係者が散らばっている。

「続けてくれ」

俺が集団の中に加わると。気にするなと言わんばかりに内山一佐が指示した。

「今朝八時、米インド太平洋軍司令官、ジョンポラムス海軍大将が横田に到着しました。現在、総理官邸に向かっているとのことです。」

話し始めたのは外務省の人間だ。外務省内には国際情報統括官組織が外交情報の収集にあたっている。

「外務省に問い合わせたところ、米国国務省からは通達がなかったそうです」

つまり、米軍のみで処理したいことがあるのだろう。

「防衛省の方に何か連絡は?」

「地方協力局の知り合いに聞いたところ『在日米軍は事後の処理に協力する準備がある』とのことだ。実際、横田に追従してきた部隊の中に海軍のSEALsとFBIのHRTの混成部隊がいる。」

つまりは、もし日本政府が橘香織を引き渡したとしても米軍がそれを救出、もしくは隔離する用意があるということだ。

「もう一つ、中国大使館から連絡が入った。橘香織の身柄引き渡しを求めてきている。」

馬鹿な。国際法上、他国の人間の身柄を拘束するには犯罪人引き渡し条約か国際刑事警察機構を通した国際手配の2種類がある。だが日本政府は中国とは犯罪人引き渡し条約を締結しておらず、橘香織は国際手配されているわけでもない。つまり、中国は強引にでも橘香織の身柄を確保したいわけだ。

その大元にいるのはロシアだ。経済成長を続ける中国にとってロシアは大きなマーケットとなっている。実際2022年のウクライナ侵攻ではロシアを支持し弾薬のマーケットとなっている。ロシアが敗退を続け国際社会での発言力が多少低下しても経済市場であることに変わりはない。ここで中国がロシアが欲しがっているものを与えることで、中国はロシアに恩を売ったことになり、ますますロシアは中国に依存する。中国の企みはこういうことだろう。

ロシア、アメリカ、中国、そして日本。この四カ国が睨みを利かせ始めた。その渦中にいるのは橘だ。昨日見つけた一点の穴。それさえ埋まれば、ピースがはまるはずだ。

「内山一佐」

俺は隣にいた一佐に舌打ちをする。

「鴻上と角山を引き連れて捜査活動に出ます」

「対象は?」

「橘についてです」

「昨日のことか?」

知っているのか。

「気にするな。あいつは頭がキレるが口は悪い」

「彼の言い過ぎだと?」

「ああ」

「でも俺は彼の言っている通りだと思います。自分はミスをしました。それもあってはならない。」

「わかった。行ってこい。」

俺はその場から離れる。自衛隊エリアを見ると東山、鴻上、角山の3人が退屈そうに座っている。

ことの顛末は知っているはずだ。

俺は合図を送って、二人をついて行かせる。角山はどこか満足げだ。鴻上はいつも通りの精悍な目をしているが、どこか、期待に満ちているのが俺にはわかった。

期待通りになってくれればいいが、どうなるかはわからない。それも含めて期待に満ちているのだろう。


ー八月十一日午後零時三十分 東京都千代田区富士見2丁目 東京逓信病院付近

少し鼻につくタバコの匂い。

俺は車の中でヘッドセットを耳にかけた。後部座席右側には鴻上が外を眺めていた。

車は南を向いて止まっており、その先には在日本朝鮮人総聯合会本部、通称、朝鮮総連がある。

朝鮮総連は北朝鮮を支持する在日朝鮮人の団体で、法人格を持たない「権利能力なき社団」に分類される。実質としては日本と国交のない北朝鮮の大使館的役割を担っている。

が、実質としては国内における北朝鮮の対日有害活動の拠点といってもいい。過去には韓国大統領、朴正煕の妻文世光の暗殺に関与したとされる。現在でも公安調査庁の調査対象であり、周辺を警視庁の機動隊が警備している。

実際、俺の目線の先にではバリケードが張られ、制服警官が警備に当たっていた。

俺は助手席の双眼鏡を手に取り、覗く。

制服警官のさらに奥で、一人の白髪の男性が道を横切る。間違いない、ターゲットの李鐘元だ。

李鐘元、在日朝鮮人の息子で1972年生まれ、大阪市鶴橋出身。大阪大学経済学部を卒業後、大学教員として大阪大学に就職。その後、各大学を転々としながら、現在は朝鮮総連の横にある法都大学教授となっている。

この男を怪しむ理由は二つある。

一つは最近の動向だ。

元々、李鐘元は大学生の頃から大阪府警警備部の監査対象になっていた。何度も朝鮮総連関係施設に出入りする人物だったからだ。ただ、6月ごろに出入りが激しくなり、7月に入ってから行動を控えるようになった。

それだけではない。最近になって警視庁公安部の尾行作業が全て『切れている』のだ。

例えば駅のホームを端から端まで歩き、尾行を発見する『流し作業』や列車の出発直前の飛び降り、飛び乗り、街中での『確認作業』と呼ばれる尾行対策、これらを徹底するようになっていた。

もう一つは不自然な行動だ。

実は李鐘元は橘の出場した学生コンクール「全日本学生研究コンペティション」の選考委員の一人だった。そして、李鐘元は橘のテーマ「合成ウルトラマリンの生成について」に対し、評価を下している。しかし、李鐘元の専門は経済学であり、橘のテーマである化学とはもはや関係がない。しかも、評価についてのコメントがほとんどないのだ。

この二つの理由から、李鐘元は故意に橘をあの場所に誘い出させた可能性が高い。もっと言えば退院直後の襲撃に関しても関与していた可能性が高い。

俺はヘッドセットのボタンを押した。

「ウィザードキラーよりワルドー、対象が建物内に侵入した」

「ワルドー、了解」

相手は角山だ。

角山は今、別の場所から朝鮮総連を監視している。

しばらくして助手席の端末から通知音がなる。ログインすると音声が流れ始める。

角山の機材からだ。角山は別の車両からレーザーマイクを使って盗聴を行っている。

レーザーマイクは部屋のガラスにレーザーを当て、反射の仕方からガラスの振動を解析し、部屋の音を拾う装置だ。

ノイズ混じりの音声が少しずつ明瞭になる。

俺は翻訳ソフトを開いて音声と接続させる。

ドアの閉まる音と同時に会話が流れ始める。

《뻐꾸기는 어땠어?(カッコウはどうなった?)》

《잃어버린……(見失いました……)》

《왜? 이것은 장군님의 특별 명령이다!(なぜだ?これは将軍様の特別命令だぞ!)》

《……》

《쓰레기、매국 녀석인가?(貴様、売国奴か!?)》

《그러나, 나는 스파이가 아니며, 어디까지나 토대인입니다. 그보다 뻐꾸기는 누구입니까? 저런, 경호가 붙어 있다니 듣고 있지 않습니다!(し、しかし、私はスパイではありません、あくまでも土台人です。それより、カッコウは何者なんですか?あんなの、警護がついてるなんて聞いていません!)》

《무엇! ? 경호가 뭐야! 그런 것은 아무래도 좋다! 반드시 신품을 확보하라! 그렇지 않으면 너의 가족을 죽여라!(何!?警護がなんだ!そんなことはどうでもいい!必ず身柄を確保しろ!さもなくばお前の家族を殺してやる!)》

《그만큼은…(それだけは……)》

《그것이 싫다면 뻐꾸기를 찾아라! 좋아!(それが嫌なら、カッコウを探し出せ!いいな!)》

会話は直後のドアを閉じる音で途切れていた。

カッコウはおそらく橘ことで間違いなだろう。橘の警護はおそらく俺のことだ。つまり、李鐘元は退院直後の襲撃に関しても関与していたのは明らかだ。

ただ一つ懸念がある。ロシアの関与だ。

李鐘元の会話相手の発言から一連の事件が『将軍様の特別命令』によるもの、つまり北朝鮮政府によるものであることが確定される。しかし、それだとロシア系テロリストとの関連がわからない。最も現実的な予想としては外交上の圧力で北朝鮮が動いている可能性が挙げられるが確かじゃない。

「ワルドーよりウィザードキラー、対象が外に出るぞ」

「了解」

こればかりは張本人に話を聞くしかない。

双眼鏡を覗くと、李鐘元はもうすでに外に出ていた。周りを見回している。ふとこちらに目線がいった。こちらを見つめる。

-まさか

その直後、反対方向に走り出した。

-しまった!づかれた!

セレクトレバーをパーキングからドライブに入れ、アクセルを踏み込む。

「ワルドー、対象にづかれた!回り込め!」

「了!」

バリケードのせいで速度が出ない。

李は路地裏に入る。その先は駐車場だ。李の車は把握している。日本で最も一般的な車だ。

駐車場はその先の富士見坂につながっている。

俺は路地を横目に通過、富士見坂とのT字路で左折し、駐車場を塞ぎにかかる。

が、相手の方が一足早かった。すでに駐車場を出て、左折し、西に車を向かわせている。

「鴻上、狙えるか?」

「ああ」

低い声のままそういうと、後方右側のドアを開け、身を乗り出し、グロックを構える。

相手の後輪が滑り出し、車が腹を見せる。白煙が上がり、一瞬速度が落ちる。

それを逃さず、鴻上が引き金を引く。

相手の後輪が弾け飛び、続いて火花が散る。相手は右折して路地裏に入ったが、どうせ、速度は出ない。

こちらも、カウンターを当ててドリフトし、路地裏に入る。その遠心力で鴻上を車内に戻す。

相手の車体をもう一度視界にとらえる。アクセルを踏んでもう一度加速する。

相手の足は落ちているはずだが、それでも速い。その先はT字路だ。曲がり切れずクラッシュする可能性がある。

相手がT字路に差し掛かる次の瞬間、黒いバンが行く手を阻む。角山だ。ドリフトで切り抜けようとした相手は横っ腹からバンに衝突する。

俺は急ブレーキをかけ車を止める。李はまだ息があるらしい。ドアを開けて出ようとする。

だが逃げ場はない。

ドアを開けて、スーツジャケットの内側からグロックを引き抜く。もう片方の手で鴻上に指示を送る。車は鴻上に任せ、相手の車に接近する。

内部を確認し、半開きのドアをこじ開ける。

エアバッグのしぼみ切らない車内から李の体を引き摺り出す。

バンの後ろに周り、拳銃をしまって、バッグドアを開ける。

この車は元々警務隊の護送車だ。後方にはロングシートが備えられている。

穏便な手段で済ませたかったが逃げるようなら仕方がない。

俺は李をバンの中に投げ入れ、乗り込み、バックドアを閉めた。

「出してくれ!」

「了解」

角山の合図で、バンが動き出す。

俺は、李の顔を睨みつけた。

「わ、私じゃない! 私は何も知らない! 」

「何も知らない? 何をだ!? 何を知らないんだ! 何がお前じゃないんだ! 」

李は早速ボロを出した。俺は拳銃のホルスターに手をかけるそぶりを見せる。

「私はただ脅されただけだ! 脅されて業者を手配したんだ! 」

「業者!? 何の業者だ!? 」

「それは言えない! 言えば私は・・・! 」

白髪を備えたその顔が焦りに染まる。

「どうせ、武器の密輸人だろ! どこの業者だ! 言ってみろ! 」

「違う!密輸業者じゃない!私が手配したのは폭풍・・・! 」

しまったと言わんばかりに李が口をつぐむ。今この男はポグプン、朝鮮語で「暴風」と口にした。北朝鮮の工作活動において暴風と呼称されるのはただ一つ、「暴風軍団」こと第十一軍団だ。

「今、暴風軍団と言ったな」

低く抑えた声で問い詰める。男の発汗量が目に見えて上がり、腕の筋肉の張り上がりが見える。

図星だ。

「なぜ、第十一軍団が国内にいる!? 目的はなんだ!?  」

「し、知らない! 私はただ、ある女子をさらってこいとだけ・・・」

「誰に指示された!? 」

「将軍様だ! 間違いない!嘘じゃない!」

埒が明かない。直接的な言い方をするしかいない。

「他に誰かいなかったか!? 西洋人風の・・・」

「いた! 金髪の目の青い男が!そ の男が将軍様の命令を伝えたんだ! 」

ビンゴだ。

「その男の名前はなんという!?」

「知らない!本当だ!その男は名乗らなかったんだ!」

「じゃあ、なぜ、それが本国から命令とわかった!?」

俺は拳銃の銃口を突きつけた。

「なぜだ……?なぜ、将軍様の命令とわかった?」

男の顔が歪み始める。

「なぜ私は彼を信じた?」

「今更の命乞いか?」

様子がおかしい。相手の表情が焦りから猜疑へと変わる。

「違う!私はただわからないのだ。なぜ、私は彼に従った?なぜだ?教えてくれ……」

男が座席から浮いた。揺れる車内、おぼつかない足でこちらに寄ってくる。

「そもそも、君たちは何者だ?私はなぜ追われている?」

俺はその不気味さにその場から動けなくなっていた。

「知るか……!」

「なぜだ?なぜ、お前たちはここにいる?」

くるな。心の中でそう思ってしまう。だが目線はあったままだ。いや、離すことができない。

「なぜ、私はお前の顔に見覚えがあるんだ?まさか……」

「離れろ」

背中に冷や汗が走ったその時、ハンドルを握っていた東山がつぶやいた。

すぐさま、李の悲鳴と共に、彼の体が反り上がり、崩れ落ちた、

運転席を見ると、車を停車させた角山がテーザーガンを李に放っていた。

緊張から解き放たれ、体がその場に座り込む。息も戻っていく。空を仰ぐ。

なんだったんだ、今のは。

視野狭窄がなくなり、息が落ち着いてきた。

「ワルドー、対象は歌舞伎町にでも捨てておけ。ウィザードキラーより、各員、所定の位置にて合流、状況を確認する」

ヘッドセットに手を伸ばしそう告げた。

口では平静を装っても、心臓は跳ねるように動いていた。


ー八月十一日午後四時頃 東京都港区海岸一丁目10-20 立体駐車場3階

「はい……はい……了解しました。」

そう言って、俺はスマホを耳元から離した

「やはりだ。警察庁に確認したところ、現場で押収された銃器の指紋が韓国籍の在留カードの指紋と一致した。おそらく彼らは北朝鮮の工作員だろう。」

俺は、運転席の背もたれにもたれかけながら、ヘッドセット越しに情報を伝えた。

「李の発言の裏付けが取れたとして、考えよう。彼らが暴風軍団、もとい、第十一軍団であったとして、ロシア系テロリストとの関わりは?」

第十一軍団は元々、軽歩兵教導指導局と呼ばれ、かつて、青瓦台襲撃事件などを行った特殊部隊だ。

「おそらく、ロシア系の本隊はどこかに隠れている。目的は別の作戦のための兵力温存。」

答えたのは隣に停車した車にのっている鴻上だった。

「作戦の規模と目的は?」

「規模は大規模。目的は不明」

目的が不明なのは、俺も同意だった。わざわざ、本隊単独でも遂行可能な作戦を第十一軍団に外注するということは、それだけ兵力損耗の激しい戦闘を行う予定があるということだ。

「目的が都内の混乱だとしたら?」

背中越しに意見を発したのは、運転席に座る角山だった。

「それだと、橘というピースがはまらない」

「橘の奪取のための都内の混乱は?」

「明らかに非効率だ」

ただ、どこまで言葉を重ねようと今の情報を見るに橘はどう関与しているのかが説明できない。

だけど、自分の中であある一つの可能性が捨てきれなかった。

「攻撃の主体が二つあるのはどうだ?」

「二つ?」

最初に尋ねたのは鴻上だった。

「ああ、橘の奪取を目的とする主体と、我が国に対する攻撃を目的とする主体が、ロシア国内に存在する」

「だとすれば、説明はつくが、あまりに突飛だろう」

この説なら、第十一軍団への外注も説明がつく。だが、あまりに突飛すぎる。なぜなら、もしこの仮説が成り立つなら、ロシアは主権国家としての機能を失ってることになる。

マックスヴェーバーはその著作「職業としての政治」の中で主権国家について「暴力の独占を国家が保持すること」と説いた。つまり、あらゆる暴力は最終的に国家による独占に結びつく。逆にこれができず、暴力を行使する主体が二つあるという国家は主権国家とは言えないのだ。

「神威、その仮説でも、ぶつかる壁がある。橘香織という人物の価値だ。」

尋ねてきたのは角山だ。

「その結論はもうすぐ出る頃だろう」

俺はスーツの袖から腕時計を覗きながら答えた。

ちょうどその時だった。スマホのバイブが内ポケットから伝わった。

タイミングよく、結論が出そうだ。


ー八月十一日午後五時 警視庁本部庁舎 刑事部鑑識課

首から入庁者カードをぶら下げて、俺は窓際の廊下を進んだ。

さっきまで傾き替えだった西日は、もう赤く染まり始めている。

「よお、坊主」

狭い部屋から俺を出迎えたのは、鑑識課の嘉村だ。

白髪のオールバックで眼光は鋭い。六十を超える鑑識のベテランだ。俺と嘉村が最初にあったのは、二年前、警務隊の鑑識作業の教官として防衛省に出向していた時のことだ。その時から俺は鑑識の使用として慕ってきた。

「お久しぶりです、嘉村巡査」

「全く、面倒な仕事を押し付けやがって。これが鑑定書だ。」

整理もされていない倉庫のような小部屋に入ると、嘉村が差し出したのは依頼していた鑑識の鑑定書が渡された。

「説明をお願いしても?」

「よし! まかせろ! まず、これが坊主の依頼した鑑定試料だ」

テーブルの上に差し出されたのは橘香織の出生届だ。出生届の保存期間は27年間で、届出から一ヶ月は当該市町村の市役所または町村役場で保管され、それ以降は法務局で保管される。今回、総務省に橘香織の出生地である京都の京都地方法務局から実物を取り寄せてもらった。

「これにALSライトを照射する」

ALSライトは科学捜査に使われる特殊な光学ライトだ。嘉村が取り出したのは紫外線ライトだった。

ゴーグルをかけて、出生届を覗き込むと、青白く、指紋が浮かび上がる。

「もちろん、指紋がベタベタについているわけだ。」

「では紫外線の波長を変えてみればどうでしょう?」

「さすがは俺の弟子だ。今回は17年以上前の指紋のみを抽出する。」

嘉村がライトのヘッドリングを回すと、目に見えて指紋の数が減る。それでも指紋は大量に残っている。

「これらのデータを種別ごとに分けて、データーベースにかけた。その結果がその鑑定書だ」

鑑定書に目を落とす。

警察庁の指紋デーアベース、法務省の在留者データベース、その他様々なデータベースに指紋の照合をかけている。

そして一致した人物が二名いた。

一人目、辰巳宗弥。

男性、1998年、国家公務員総合職試験に合格、同年4月1日付で警察庁刑事局捜査第一課に配属、2000年、同庁警備局公安課に異動、2008年、同局警備企画課への移動ののち、2020年、警備局外事情報部外事課に落ち着いている。つまりは根っからの公安警察官だ。

二人目、南雲霞。

女性、1997年、警視庁入庁、刑事部捜査一課に配属、2001年、同庁公安部公安機動捜査隊に異動、2006年、国家公務員試験合格に伴い、警察庁警備局警備企画課に異動。最後は辰巳宗弥と同じく、外事情報部外事課に落ち着いている。

「この二人について所在は?」

「さあね。なんせ公安マターに足突っ込むほどこっちも命知らずじゃねえ。それと、もう一つ、気になる情報が入ってる」

「なんです?」

「一つ上の階がやけに騒がしい。」

頭の中で入る時に確認したフロア案内を思い出す。

この一つ上の階は警視庁公安部の外事三課だ。

「なるほど。」

嘉村の顔がこちらに向かって微笑む。

その時、ふとスマホのバイブが鳴った。

「ウィザードキラー、戻れ。NSCが始まる」

内山から届いたメッセージはそれだけだった。

「すみません、急用でもう行かないと。協力、ありがとうございます。」

「おうよ!」

これでほぼ全てのピースが揃った。あとはそれをはめるだけだ。


ー八月十一日午後八時 首相官邸危機管理センター

官邸に戻って、真っ先に目にしたのは内山一佐だった。

通りすがりに資料をとりに下がります、と、一声添えてから地下に潜った。

あいにく、資料、もとい問い詰めたい張本人はどこにもいなかった。

しばらく探し回った挙句、仕方なく。部屋を出ようとした時、その男は帰ってきた。

警察庁警備局長、櫻田健一。

贅肉の多い体つきと、後退した髪が随分醜く見えた。

俺はその男の腕を掴んでそのまま、本部横のガラス張りの会議室に連れ込んだ。

「この事態の中、一体何をしていた?」

後ろ手で扉の鍵を閉めながら問うた。

「……」

相手も諜報に長く携わってきた人間だ。そう簡単に漏らすことはないはずだ。

「……質問を変えよう。辰巳宗弥と南雲霞の所在は?」

相手の目の家路が変わる。

「お前、どこでそれを……」

「質問に答えろ」

「……両者ともに所在不明だ……」

「従事中の任務は?」

「っ……!それは……」

「答えろ!」

「……ウクライナ、ヘルソン州南部での諜報活動……」

やはりか。

「目的は?」

「……ロシア軍の活動の監視だ。二人とも外務省に出向し、在外公館警備対策官として在ウクライナ日本大使館に派遣されていた、」

在外公館警備対策官はその名の通り、在外公館の警備に関する事務を所掌する。もちろん、在外公館の防諜も職務の一つだ、

「それが、36時間前から連絡が取れなくなっている。」

なぜこの件が内閣の内でも公表されないかは明確だ。もし、この件を警察の外に出せば、外事情報部の越権行為が明らかになる。軍事諜報は自衛隊の専門分野だ。

「なぜ、ロシア軍の行動監視を警察が行なっている?」

「それは……」

ふと、ノックの音がする。

「神威? まだか?」

内山一佐だ。もう時間切れらしい。

「今行きます」

そう言って俺はその部屋を出た。

俺はあえて内山一佐より、先に歩いた。

俺は心の中でほくそ笑んだ。全てのピースがはまった。最後の仕上げはもうすぐだろう。


ー八月十一日午後八時三十分 首相官邸閣議室

俺が閣議室に入ると、ちょうど国家安全保障会議が始まるところだった。

出席者は異例の全国務大臣だ。

「全閣僚をこの場に呼び出したのは他でもない。先日の地滑りの事案とそれの背後関係についてだ。」

その総理の言葉ののち、続いて市橋から再々度の説明が続く。

「しかし、……この事案、罪状としては何にあたるのかね?」

農林水産大臣の清川が口を開いた。

「僭越ながら、発言をよろしいでしょうか」

内閣法制局長官の三谷があたりを一瞥して続けた。

「今回の事案を、相手側が日本国民とその財産を人質とした人質事件と見るのが一般的かと思います。しかし『人質による強要行為等の処罰に関する法律』に照らし合わせますと、これに該当するケースがありません。また、その他のケースとして刑法81条等の外患罪の適用も考えられますが、この場合の外国とは外国政府を意味し、今回のケースはその点が不明であるため適用できません。また同じく刑法に定められる内乱罪においても-」

「わかった。結論として、罪状は何にあたる?」

三谷の説明を遮って坂田法務大臣が結論を急かす。

「現時点で確定できるのは脅迫罪くらいかと」

「馬鹿な!これだけのことを起こしているんだぞ!」

「現時点で極超音速弾道弾に関して、どの政府、機関、組織からも声明が出ていません。そのことからも、現時点の段階で確定できるのは脅迫罪ぐらいかと」

議場が鬱憤やる方ないとの空気が漂う。もちろん、自分もその気持ちだった。具体的な事態が公式に起こっているわけでもない。自衛隊の出動はおろか、警察権の行使も、警備判事の適用でしか動かせないのだ。

「一度事実を確認したい。着弾した弾頭は極超音速弾道弾で間違いないのか? 」

「は、弾道弾かどうかは定かではありませんが、極超音速兵器であることは間違い無いかと。」

香川の問いに市橋が返した。

「その兵器の生産国は?」

「おそらく、種々の状況証拠からしてロシア製である可能性が高いかと」

「なのに、なぜ!相手の主体が特定できないというんだ!」

落ち着いた口調だった香川が、議場の静寂をその怒号でかき消した。

書類が宙をまった。

「申し上げた通りです。状況証拠からの推定です。明確な証拠などありません」

「そのような状況など、お前たちは何年も前から指摘していたじゃないか!」

香川の主張に市橋が口をつぐんだ。

実際、香川の主張は正しかった。2014年のクリミア侵攻後、ハイブリッド戦術は自衛隊内部でも研究され、その可能性は何度も指摘されてきた。台湾有事の可能性が高まった2020年から2022年にかけてはその存在を防衛省の内部部局、防衛研究所の名の下でメディアで大々的に報道された。さらにその対策として、自衛隊は「多次元統合防衛力」と銘打ち、非軍事領域の部隊新設や、31中期防に基づいた即応機動連隊の整備を進めた。

だが、その点で自衛隊は遅れをとっていたのもの事実だ。理由は明確だった。しかし、俺を含めた自衛隊関係者はその理由を口にしたがらない。特にこの場で口にするのは憚られた。その原因の根本は香川が前内閣まで大臣を務めた財務省、さらには香川の出自である財務官僚によるところが大きい。財務省が予算を出し渋った結果、少しはマシになった自衛隊の整備も完全なものとはならなかった。

もちろん、このことをこの場で言う事もできるはずだ。だが、内閣人事局の設置後、大臣に対する上申は「大臣、あなたは無能です」と言うに等しい結果になった。

「なのにどうして、対策ができなかったんだ! 職務怠慢じゃないのか!?」

「……しかし、その予算を十分に朝なかったのはどこの官僚かと……」

「何!? 貴様っ……!」

「私は、先にも申し上げた通り!」

市川の声が部屋に響く。

「私は我が国の為にこの身を捧げてきました! もちろん至らぬところもあったでしょうが、しかし、それを邪魔してきたのがどこの誰のなのか、はっきり申し上げたい! 間違いなく財務省だ! 装備品に対する予算も、訳のわからない指標をもとに新装備不要論を唱え、却下した!

その責任が今に回ってこちら側に非があると!? 馬鹿げたことをおっしゃられる、どちらに非があるかなど明らかです! 」

顔を真っ赤にしたい市川が肩で息をする。

大演説の末に、香川を睨みつけた。だがここは演説をする場でも国会答弁の場でもない。

だが、喧嘩にも似た、全く意味のない議論を止めるものなど誰もいなかった。

「じゃあ、私は何をすればいい! そんなことを今更言おうと、建設的ではないだろ! ただの子どもの戯言だ!」

「では私に、十分な装備と訓練もされていない若者が散っていくのを傍観せよと? 戯言をおっしゃるのも大概にしていただきたい!」

「やめんか!」

停めたのは幸谷総理だった。

「今そんなことを話していても意味のないことは明らかだ! 三谷法制局長、確認したい、この事案は法律では規定されない事態であることは明らかか?」

「ええ、間違い無いかと」

「では、この事案を超法規的措置で好転させることは可能か?」

議場がざわつく。

「総理、私はお勧めしません。まずこの件に案して、ロシアが関わっている可能性があります。この点について、たとえば、自衛隊の出動等の軍事に近い領域で動けば、ロシア以外にも中国に動揺が広がる可能性があります。さらに警察力の行使に際してもロシアを刺激する可能性があります。これらのことを考えると超法規的措置はお勧めできません。」

「そうか……」

総理が明らかに落胆した表情を示した。全員がその表情に目線を向けていた。

「恐れながら総理」

総理の背後から声をかけたのは松尾二佐だった。

「ん?」

「総理のお考えを明確にすべきかと」

そういうと、総理は顔を上げて円卓を見回した。そこにいる全てを一瞥した後、今度は肘をつき、頭を抱え、もう一度テーブルの天板を見つめた。

「実はな……今朝、米インド太平洋軍司令官との面会があった。その時、『もし橘の身柄を引き渡したとしても、それを救出する用意がある』と告げられた。」

流石だ。松尾二佐が総理から言質を取った。これで会議がもう一度動き出す。

「総理、もし米軍が動いた場合、最悪戦争になる可能性があります。日本もその戦争に加担したとして報復を受ける可能性がありますが……」

「その点についても『もし戦争になったとしても、日本に対しては安保条約に基づいた相互防衛義務を果たす。』と言っていた。」

議場にいる全員が疑問を呈し始めた。

なぜそこまでして米国がこの件に興味を示す?

自分の中ではこのことに対して答えは出ていた。だが最後の仕上げがまだであるだけに切り出すことはできない。

「このことを踏まえた上で、さまざまな可能性について検討したい。」

総理はあえて伏せているが、要は橘香織の身柄を引き渡すことも踏まえて今後の対応を検討したい、ということだ。

そこから会議は二つに割れた。

米軍までもが彼女の身を保障するのだから渡しても問題はないという意見と、いやいやそれでも交渉に乗った以上テロリストに屈したのも同じだという意見だ。

「まさかとは思いますが総理、総理はクアラルンプールやダッカ日航機の再現をしようなどとはお思いではないですよね?」

尋ねたのは笹川総務大臣だ。

クアラルンプール事件。日本赤軍がマレーシアのアメリカ大使館とスウェーデン大使館を占拠した事件だ。当時、日本政府はテロリストに屈し超法規的措置で勾留中の7人のテロリストを釈放した。

その二年後、同じく、日本赤軍により日航機がバングラディッシュのダッカでハイジャックされた際には「人命は地球よりも重い」という言葉とともにまたもテロリストに屈したのだ。

結果としてこの二件で日本はテロリストを16名世に送り出したのだ。

「私とて、再現しようとなど思わない。だが……」

その後の言葉は続かなかった。

「人命は地球よりも重い」。その言葉は今まで弱腰な日本政府を批判する言葉だった。だがどこまで批判の意思を込めようと、その言葉が真理を示していることは誰も否定することはできない。

「私は、奪還作戦が完璧なら、賛成します。」

口火を切ったのは江口外務大臣だった。

「だがね、江口くん、物事に完璧など存在しないよ。私はあくまでも反対するね」

安藤財務大臣は反対派だった。

その後も各大臣が自身の見解を述べる形になった。

総務、国交、農林水産、防衛、経済産業、……。

安全保障を専門とする大臣から、縁もないような大臣まで一人も知識がないまま、だが、各人の中で正解を見つけながら一人ずつ事件を述べていく。

互い違いに賛成と反対が重なっていく。

俺は、ずっとこの会議にある一つの特徴を見出していた。それはデジタルに近い議論なっているということだ。

この世の中には取りうる方策などいくらでもあるはずだ。だが、この会議では常に1か0の議論がなされている。だが、それはこの会議の性質ではない。与えられた課題そのもが1か0しかないのだ。「橘香織の身柄を明け渡す」か「大量破壊兵器により無辜の人々を犠牲にする」か。まるで思考実験だ。だが、それでもいつかは答えを出さねばならない。

「総理、官房長官として進言します。反対です。世の中には完璧などありません。それに18才になったばかりの少女を危険に晒すなど、私にはできません」

鳥栖官房長官の意見を最後に全ての大臣の意見が出揃った。確か鳥栖官房長官にはちょうど俺や橘と同じ歳の娘がいたはずだ。苦渋の意見表明だろう。

16人全ての大臣が決断をしたのだ。1か0の世界で自分の答えをだした。

だが最後の一人はそうではなかった。

「総理」

総理の隣、秋津副総理が声を掛ける。頭を抱えたままの総理は、まだ決断などで気はしなかった。普通の国務大臣とは何十倍も違う重圧が普段からかかっている。それに加え、大臣たちの意見が完全に二分された今、最後の決断は総理大臣にかかっていた。

「すまない」

そういうと総理は顔を上げた。

「私には決断できない。誰だってそうだと思うが、18歳の少女一人と何千人という国民のいのとを比べようがない。ここにいる全員がそれに対する答えを出した。そのことを私は尊敬する。素晴らしいと思う。こんな閣僚たちに支えられてきたことを光栄に思う。だが私には決断できない。だからせめて、本人の意思を聞きたい。彼女は反対するかもしれない。だが私は彼女の善意にも期待したい。決して、他人を全く顧みない人間でないと信じたい。総理として無責任ですまないが、これが私の答えだ。」

振り絞った声で、幸谷は幸谷の答えを出した。総理としては失格に近い答えだが、それでも、人として。幸谷としての答えを出した。

だが、いくら総理として失格でも、誰もそれに反対するものはいなかった。それは、1か0の世界にもう一つの答えを作ったからだ。

「申し訳ないが、誰か彼女の所在を知る者がいないか?」

ふと俺の腰を誰かが叩いた。内山一佐だった。

こわばった体が自然と立ち上がらせた。自分の目線が少し高くなる。

呆気に取られていると、今度はその場の全員の視線がジウンに向いていることに気づいた。

「情報作戦群本部管理中隊隷下、i分遣隊所属、神威幸四郎です。」

そう自らの口から出ていく。

総理も、こんな形で俺を登場させたくなどなかっただろう。

「君が橘香織本人の所在を知っていると?」

尋ねたのは鳥栖官房長官だった。

「ええ」

「では、この場に橘香織本人を連れ出すことはできるか?」

「は、ただいま」


ー八月十一日午後二十時三十分 首相官邸危機管理センター宿泊室

閣議室を飛び出した俺はエレベーターを伝って、地階の危機管理センターに入って行った。

まだ多くの人間が寝る間を惜しんで情報収集に勤しんでいる。

それを横目に、俺は自衛隊デスクによった。

「神威? お前、閣議は?」

俺の顔を見た東山が声をかけた。

「所用で抜け出している」

それだけ告げて、デスクの上の書類を右手に取った。そのまま、宿泊室に向かう俺を東山が呆然と見ていた。

そのまま、宿泊室に入る。場所は覚えていた。一番手前側のドアを開ける。

勢いよく開けたせいか、下段のベッドにいた橘は飛び起きていた。

「橘、起きて準備をしろ。それと、先に確認しておくことがある」

俺はデスクの上にその紙を置いた。

その紙が全をつなぐピースとなる。最後の仕上げはもうすぐだった。


ー八月十一日午後二十一時 首相官邸閣議室

俺が扉を開けると、中にいた全員の視線がこちらに集まった。

一息吸い込んだのちに、俺は足を踏み出した。

立場は俺に腕を掴まれたまま、不安に面持ちで、ただ閣議室の場へと連れ出されていった。

モニターと円卓の間、総理から見て正面に橘の席が用意されていた。

橘をその席に座らせ、俺はその右後ろに立った。

「君が、橘香織かな」

「はい……」

緊張のせいか声が震えている。

「あの……!私はっ-」

「総理、先にお伝えすべきことがあります」

俺はあえて彼女の言葉を遮った。今ここで自責の念や、命乞いをさせられても困る。いや、自分がそうはさせない。

「何かね?」

総理は驚いたような顔をして尋ねた。こんなことは式辞になんてないのだ。

「この事案に関する背後関係についてです」

「聞かせてもらおう」

「は、まず橘香織という人物についてです。調査の結果から、出生に関して不明な点がありました。彼女の出生届には、父親が橘康生、母親が橘京子とあります。しかし、この二人は戸籍上には存在しません。」

視線が笹川総務大臣に向く。非難がましい視線だ。笹川が「私じゃないぞ」と肩をすくめる。

「もちろん、出生届の提出にはさまざまな本人確認のため提出すべき証明書や物品があります。

これらを偽装するためには容易なことではありませんし、総務省上で扱いに不備があったわけではありません。ただ偽装するのは困難と言いましたが、ある場合には困難などではないことなどご存じの方ならわかるはずです。」

俺は木村国家公安委員長を睨んだ。だが木村はこちらに視線を返すことなどなく、目を逸らした。

なぜ目を逸らす? こうなった原因の一つはお前だ。

他のその場にいる人間には「何を言ってるんだ、こいつは?」と白い目で見られる。

俺は一度目を瞑った。

責任の回避と無関心だけは立派な連中だ。こんな奴らの視線など無視するのが一番だ。

「さて、私はこれらの解決のため、橘香織の出生届原本を入手し、ある信頼できる人物を通して指紋鑑定に通しました。結果として、二名の警察官がヒット、一人は辰巳宗弥、警察庁警備局外事情報部外事課所属の男性、もう一人は南雲霞、同じく、警備局外事情報部外事課所属の女性警察官です。もうお分かりでしょう。この二名が橘香織の両親です。これは顔写真を先ほどここにいる本人に確認しました。」

閣議室にざわめきが走る。

それもそうだ。現職の警察官が、職務中に何の断りもなく、子供を設けたのだ。それだけじゃない。それも支給された偽名、身分証を使っていたことになる。

だがそんなことはどうでもいい。

こうなっても未だ情報を明らかにしようとしなかったお前たちが悪い。彼女にはこんなことを聞かせられるのも酷だろうが、仕方がない。犠牲になってもらった。

「そして、この二名は現在消息がつかめてません。ただ、現在任務中であり、その任務の目的はウクライナ、ヘルソン州南部でのロシア軍の活動監視であると。おそらくですが、この二名は現在ロシア当局の手を逃れるために、逃亡中で連絡が取れないものと思われます。その人質として、橘香織に身柄を欲している。自分はこのように推測しています。では、この詳細な内容についてご説明できますか?木村国家公安委員長?」

俺はあえて、話をこいつに振った。

今度は奴が睨み直す番だった。だがお前が招いた事態だ。お前に説明責任があるはずだ。

俺は侮蔑の意味合いを込めて睨み返した。

「……2年前、米国大使館、外務省経由で防衛省と国家公安委員会に連絡があった。ロシア軍の武器輸出に関して、監視任務に協力してほしいと言う申し立てだった。防衛省は自衛官の派遣に慎重な立場からこの申し立てを断った。そのためこの申し立てを警察庁が引き受けたんだ。」

「その任についたのがこの二名だった?」

「……ああ」

これで全てのピースがはまったことになる。閣議室内のざわめきはまだ終わらないが自分の中では一段落がついていた。ほとんどの事象に納得のいく説明ができる。

だがまだ一つの事象について説明ができない。

「一ついいかな?」

そう言って挙手したのは江口外務大臣だった。口髭を蓄えた顔がこちらを向く。

「君の推察はとても興味深く、私としてはその意見に多くの部分で同意する。だが、一つ疑問が残る。それはロシア当局がなぜ彼らを追っているか、だ。その事について君はどう考えている。」

この男は答えがわかっているはずだ。元々外交官だった男だ。狡猾な手を使う。

「……状況証拠からの推察になりますが、それでも?」

「それでいい」

「おそらくですが、彼らはロシア軍に関する何らかの情報を得ているものと思われます。具体的な情報は不明ですが、各国の動きからしておそらくそれが妥当かと。中国が圧力をかけるのもロシアに恩を売るためでしょう。アメリカは一度身柄が渡った上で救出し、ロシア軍の横暴を証言させ、外交カードにするつもりでしょう。」

説明できない最後の事象、彼らが掴んだロシア軍に関する何らかの情報、それさえわかって仕舞えば次の取るべき行動がわかる。だが、あともう少しで手が届かない。

最後に、もう一つ、問わねばならないことがある。

「さて総理、先ほどの総理の答えは、人間として素晴らしい回答でした。ですが、総理の答えとしては満点ではありません。自分は今一度総理に問います。それでも-」

俺は、橘の座る席の背もたれに手を置いた。橘が俺を見る・

「それでも総理は、一人の国民を、政治の道具としてお使いになられますか?」

これが俺の答えだ。誰一人として、政治のゲームのコマにはさせない。俺はそれを許さない。過去、自らの起こした戦争で、ナショナリティという政治手段のもとで数百万人を散らした国の国民として、そして、その国を守る職務のために、俺はそれを許すことなどできない。

議場は静寂に包まれた。

総理にはもう一度、厳しい決断をしてもらう。だが、もう逃れる道はない。総理は俺たち自衛官とは違う。厳しい訓練を経たわけでも、服務の宣誓をしたわけでもない。だが、それでも、自衛隊最高監督権者だ。時として我々よりも険しいものを背負わねばならない。

「私は-」

「総理、すみません。高野法務大臣、どうされました?」

今度は全員の視線が高野法務大臣に向く。視線の先では高野が官僚から耳打ちを受けていた。

「いえ、法務省のことですので……」

そう言いいながらも、眉間にはシワがよっている。

嫌な予感がする。俺はポケットから片耳用ヘッドセットを取り出した。

「構わん。緊急の要件なのだろう」

視線が高野大臣に釘付けになっている間に、俺はヘッドセットのボタンを二度押した。これで東山につながるはずだ。

「……先ほどから小菅の東京拘置所との連絡がつかないとのことです。」

やはりか。議場がまたも騒然となる。

「神威?」

何回かのコールののち、東山の声が耳に入る。

「小菅の拘置所から連絡が取れないらしい」

「こっちはさっっきからその件で持ちっきりだよ。今そっちの端末に情報を送る。」

「わかった。」

俺はスーツジャケットの内ポケットからタブレットを取り出した。ホームボタンを押しログインする。

今ここで全員に情報を共有する必要がある。そう考えると、司会席の演台に足が進んだ。

戸惑いを隠せない鳥栖官房長官を突き放し、演台のPCにタブレットを接続する。

モニターの電源を入れる。

東山と共有されたタブレットの画面が映し出されている。画面の大部分は監視カメラの白黒画像だ。右上のワイプに位置が示されている。

《神威? 聞こえる? 》

「ああ、全員に聞こえてる」

今度はスピーカーから東山の声が聞こえる。全員の視線がモニターに移った。

《いい? これが、東京都葛飾区小菅一丁目36、東京拘置所の南側にあるコンビニの防犯カメラ映像。これを、今から三十分前、午後二十一時三十分に設定する》

東山が、上側のスライドバーを操作し時間を遡る。

すると、ライフルを持った男が現れた。

人数は2個小隊規模、装備はPALSシステムの防弾ベストにFASTヘルメット、米軍特殊部隊並みだ。訓練された部隊行動、並みの兵士じゃない。

《この画像のこのライフルに着眼する。》

そう言って、東山がペン機能でライフルを赤丸で囲った。

《このライフルはハンドガード部にピカティニーレールが装備されているが、ガスシリンダーがハンドガード部から露出している。さらに、セレクトレバーもAKライフルの特有のもの。これらから、このライフルはロシア軍制式ライフルであるAK-12とみて間違いない。つまり、この集団はロロシア軍の支援を受けた武装集団であることは間違いない。》

「とのことです。総理。どうなさいますか?」

「わかった。まず、国家安全保障会議の所定の議員と高野大臣は残り、そのほかの大臣に関しては通常の職務に戻っていただきたい。次に、松尾二佐にはこの件に関わる情報収集の任務を付与する。最後に、神威君には引き続き、この件を含めた当該組織の背後関係を洗ってくれ」

「「は!」」

俺と松尾二佐の返答が重なった。

総理の指示と共に、国家安全保障会議は立て直しが始まっていた。

閣議室を飛び出た俺は、すぐに危機管理センターに向かった。

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