屋根裏部屋の律子ちゃん

ささがせ

屋根裏部屋の律子ちゃん

 僕の家系はそれなりに由緒正しい家系で、その街じゃ中心地と言える繁華街の古い裏通りに家を持っていた。

 繁華街の喧騒から離れ、昔ながらの細い路地を通れば、古い祠が唐突に出迎えてくれる。そんな場所に平屋の屋敷が建っている。

 お祭りや年末になれば、近所はもちろん、東京に住んでる親戚もやってきて、狭い屋敷はギュウギュウだ。そして、お酒を飲んで、笑って食べての大宴会になる。

 僕も父さんと母さんに手を引かれて、よくここに来ていた。お酒を飲んでるおじさん達はお酒臭いしタバコ臭くて嫌だったけど、来れば必ずお寿司とメロンを食べさせて貰えるから。


「おばさん! 私の浴衣どこ?」


 それは、神社の夏祭りの夜だった。

 赤い夕日が窓から入ってくる。祭りの山車が街を巡る掛け声が聞こえてくる時間。

 親戚一同の集まる宴会部屋に聞き慣れない声がした。

 振り向く僕と目が合ったのは、全然知らないお姉さんだった。


「あれ、かっちゃん? わあ、大きくなったねぇ」


 目が合ったお姉さんは、僕に笑顔を向けて手を振った。

 本当に、誰だろう…?


「ほら、克哉。ご挨拶して」


 母さんに促され、僕はおずおずと挨拶する。


「あはは、久し振りだから覚えてないかな? 私、律子だよ」


 “律子ちゃん”は、地蔵のように並んで酔ったおじさん達の間をスルスルと抜けて、僕のところまでやってきた。


「ねぇ、かっちゃん。大人ばっかりで退屈でしょ? 上でマンガ見ない?」

「え! マンガ!?」


 マンガは大好きだ。けど、あまりお母さんが読ませてくれない。

 しかし“律子ちゃん”の誘いを断るのは悪いと思った母さんは「そうね、いってらっしゃい、克哉」と僕に許可をくれた。チャンスだ。


「行こ、かっちゃん」


 僕は“律子ちゃん”に促されて部屋を出る。途中で酔ったおじさんを蹴っちゃったけど、やんちゃな小僧だと笑われるだけで済んだ。


「こっちこっち」

「どこ…?」


 部屋を出て廊下を進むと“律子ちゃん”は足を止めた。廊下の壁に絵が掛かってるだけの場所だ。


「ふふ、見ててね―」


 “律子ちゃん”が悪戯そうに笑うと、絵の裏に手を入れる。すると、ザァッと壁が開いた。まるで隠し扉だ。


「へへ、かっこいいでしょ」


 照れ笑いする“律子ちゃん”は、隠し扉の先へ体を滑り込ませる。

 扉の先は暗く、恐ろしく急な木造の階段が上へと伸びている。

 あれ、と僕は思った。この家に二階なんてあったっけ?


「ほら、いこ!」


 戸惑う僕に“律子ちゃん”は言う。

 僕はゆっくりと、暗くて怖い階段を登り始めた。

 日の差さない階段は冷たく暗い。冷気が暗闇の向こうから吹いてくるみたいで、“律子ちゃん”の白い足裏が、闇の中に浮かんでるように見えた。

 いくらか登ったところで、僕は振り返る。

 廊下の明かりが、やけに遠く見える。あの明かりの下には宴会場があって、おじさん達がガハハ!と笑ってるはずだけど、やけにその声が遠い。


「ぼ、ぼく、やっぱり…」


 急に怖くなって、僕は声を漏らす。

 視線を戻すと、“律子ちゃん”の姿はない。


「え、え…あ…」


 やっぱり“律子ちゃん”なんて居なかったかもしれない。だって、さっき初めて会ったんだ。

 久し振りだなんて、きっと嘘なんだ。

 僕は急いで階段を降りようとした。


「どうしたの?」

 

 声が天から降りてくる。

 “律子ちゃん”が鼻がくっつきそうなくらい近くで首を傾げてる。

 階段の終わりは、すぐそこだった。

 僕を覗き込む“律子ちゃん”からは、シャンプーの香りと、ほんのりと湯上がりの肌が放つ熱を感じた。


「う、うん…。だいじょうぶ」


 僕は、残りの階段を駆け上がった。

 階段を登った先には、天井の低い廊下があって、その先に、光の筋が線を作っている。


「じゃーん、ここが私の部屋だよ。屋根裏部屋なんだ。 お洒落でしょ?」


 光の筋は、部屋から漏れる蛍光灯の明かりだった。

 “律子ちゃん”の屋根裏部屋は、まるでオモチャ箱だった。

 マンガに、人形に、綺麗なビー玉。格好いい男の人が表紙に写った雑誌。脱ぎ捨てられた服なんかが広がってる。

 僕がオモチャをこんなに広げたら、母さんに間違いなく怒られるだろう。少しだけ羨ましかった。


「こっちこっち、ここに座って!」

「あ、うん…」


 “律子ちゃん”に手を引っ張られ、僕は窓辺のベッドの上へと招かれる。窓の向こうは、もう真っ暗で、神社の提灯の明かりがよく見えた。

 ベッドの縁に腰かけると、甘い香りを感じる。秘密基地のように見えても、ここは“律子ちゃん”の部屋だ。女の子の部屋に入るなんて、初めてだった。


「かっちゃんはどんなマンガが好き?」


 ベッドの縁に腰掛ける僕の隣に“律子ちゃん”が座った。


「え、えっと…」


 主人公が仲間達と強敵と戦うマンガが好き。そう答える前に、身体を伸ばした“律子ちゃん”が、本棚からマンガを取ってくれる。


「こういうのは?」


 表紙に女の子が描いてあるマンガだ。どんなマンガかは分からないけど、宇宙人や妖怪とは戦ったりはしそうもない。


「見ないよ。これは女の子用だもん」

「えー!? 面白いよー?」

「い、いいよ…別のマンガにしよ…」


 女の子が表紙のマンガを読んだと友達に知られれば、学校で誂われてしまうだろう。それは避けたかった。


「じゃあ、一緒に読んであげる!」

「え!?」


 だけど、“律子ちゃん”は僕の背中に回り、僕を両腿の間に収めた。そして、“律子ちゃん”の顔が僕の肩に乗る。背中に柔らかい感触と、彼女が帯びる熱が伝わる。

 僕は一瞬にして動けなくなった。身体が芯から固まってしまったみたいだ。

そして、“律子ちゃん”の両手がマンガを開いて目の前にやってきた。白い綺麗な手だった。


「これはね、この人に、こっちの子が恋をするマンガなんだー」


 ”律子ちゃん”がページを捲り、登場人物の顔を指で示す。予想通り女の子の向けのマンガのようだ。絵のタッチというか、描き味というか、そういうのが男の子向けではない。

 マンガを読ませてくれると聞いてここまで来たけれど、僕はなんだか凄く騙された気分だった。けれど“律子ちゃん”に背中に貼り付かれてしまっているので、もう逃げられない。

彼女の吐息が耳に当たって、くすぐったい。

彼女のトクトクという鼓動が、僕の背中に微かに伝わってくる。


「こっちの子はね、大好きな人を振り向かせようとするんだけど、いつもちょっとだけ上手く行かないんだ」

「そ、そうなんだ…大変だね…」

「私はねー、この子を応援してるんだけど、ライバルとか、他に格好いい男の子が出てきたりして、もう大変なんだよー」

「うん…そっか…」

「ここからどうなるのかなぁ」

「ど、どうなるんだろうね…」

「かっちゃん、私の話、ちゃんと聞いてる?」

「き、聞いてるよ」


聞いているが、生返事を返すので精一杯だ。“律子ちゃん”の香りと、伝わる熱と、汗ばんだ柔らかさで、ドキドキしっぱなしだった。自分の身体が燃えるように熱い。


「ホントにぃ?」

「ほ、ホントだよ!」


“律子ちゃん”が僕を覗き込んでくる。

 綺麗な瞳だった。吸い込まれそうなくらいに。

 しばらく、”律子ちゃん”と視線が絡んだ、僕ははっとして、慌てて視線を外す。

 マンガに視線を落とすしか無い。


「ははーん、かっちゃん、恥ずかしいのかな?」

「そんなことない…」


 恥ずかしいに決まってる。


「可愛いなぁ」

「そ、そんなことないから…」


 可愛いなんて、両親以外の誰にも言われたことない。


「からかわないでよ」

「からかってないよ」


 このままでは、身体が熱くなりすぎて爆発するか、ドロドロに溶けてしまうような気がして、僕は立ち上がろうとした。

 だけど、立ち上がりかけた僕の身体を、”律子ちゃん”の腕がぎゅっと抱きしめる。そしてそのまま、ベッドに横倒しにされた。


「わ…!?」

「へへー、捕まえた!」

「も、もう、やめてよ…!」


 身じろぎしようとするが、”律子ちゃん”の両手はとても強く、引き剥がそうとしてもびくともしない。

 藻掻く僕の頬に、”律子ちゃん”の頬が重なった。

 思わず、喉が鳴った。

 何故か、このまま戻れない場所まで吸い込まれてしまうような気がして。


「私、かっちゃんのこと気に入っちゃった」


 耳元で囁く声が、脳を焼くようだった。

 心臓の音が、耳の奥にまで響いてる。こんなに大きな音ならば、”律子ちゃん”にも聞かれてしまっているだろう。


「ねぇ、かっちゃん――」


 耳元で”律子ちゃん”が囁き、彼女の指が僕のお腹をゆっくりと撫でた。

 しかし、”律子ちゃん”は僕から手を離した。突然解放され、僕はベッドから転がり落ちる。

 ”律子ちゃん”が、入り口の襖へ駆け寄った。

 僅かに襖を開いて、誰かと話してる。

 その間に、僕は深呼吸をして、一刻も早く高鳴る心臓を収めようとする。

 そして、身体を起こして、ベッドからなるべく離れた。


「ありがとう、おばさん」


 ”律子ちゃん”はそう言って、襖の向こうの誰かから何かを受け取って、僕に振り返った。眩しいくらいの笑顔だ。


「じゃーん! 浴衣!」

「ゆ、浴衣…?」

「そう、夏祭りに着てくの」

「そ、そうなんだ」

「かっちゃんも夏祭に行くよね? 一緒にいこ」


 僕は、言葉が出なかった。

 

「ぼ、僕―――」


 だけど、意を決して答えを口にしようと、”律子ちゃん”を視界に収めた時、


「ん?」

「ッッ―――!!!!」


 着替えのためにシャツを脱いで、白く美しい身体を晒した彼女がいた。

 目が見開いて釘付けになる。だけど同時に、自分の中の何かが、ついに決壊した。

 胸が、言葉にできないくらいギュウと締め付けられたようになって、身体の奥から、何か得体の知れないものが湧き上がって来るような気がした。

 その瞬間、僕は自分でもびっくりするくらいの速さで立ち上がり、”律子ちゃん”の脇を駆け抜け、襖を開いて闇の中へと躍り出た。


「あっ、かっちゃん―――」


 背後からの声に振り向かず、僕は、足元に開いた穴へと吸い込まていく。

 けど、視界に映るのは、宴会の喧騒と、家族がいる明かりだ。

 どこか安堵を感じながら、僕はゴロゴロと階段を転げ落ちていった。





 目を覚ました時、宴会は終わりを迎えていた。


「あら、克哉。起きたの?」

「う、うん」


 僕は縁側のある廊下に横になっていた。身体を起こすと、縁側に腰掛けた母さんがいる。

 見回しても、酔いが回ってベロベロになったおじさん達ばかりだ。”律子ちゃん”の姿はない。

 アレは夢だったのだろうか…?


「祭囃子が聞こえる―――」

「ええ、山車が神社に全部着いたのね。毎年派手だわ」

「ねぇ、母さん…」


 僕は母さんに声をかけようとした。だが、


「りっちゃーん!」


 玄関口から、誰かの声が響く。

 そして、たったった、と、廊下を駆けていく足音。


「おまたせー!」

「もう、りっちゃん、時間かかりすぎだよー」

「早く行こ、屋台終わっちゃうよ」


 浴衣姿のお姉さん達が、道を小走りに駆けていく。

 ふと、彼女が僕を見た。

 快活な彼女は、髪を結って、浴衣に着替えたことで、さっきよりも、もっとずっと綺麗に見えた。


「また来てね、かっちゃん――」


 目を奪われていると、彼女はニッと微笑んで、そう言ってくれた。


「りっちゃん、はやく」

「わ、待ってー!」


 祭囃子と提灯の明かりの先へ、彼女は駆けていく。

 夜夏の風景に溶けていく彼女は、まるで空へ還っていく天女のようで、僕はそれを何も出来ないまま見送った。



 その後ろ姿を、今でも鮮烈に覚えている。

 それは、初恋というものだったんだろう。

 あれから何年か経って、僕と両親は、もうすっかりあの家に行くことがなくなっていた。

 付き合いが消えたわけじゃない。でも、おじさん達が次々に、病気になったり、寿命を迎えてお墓に入って行くと、自然と集まることが減っていって、あの宴会が行われなくなっていったのだ。

 時間は残酷に過ぎていく。けれど、僕は彼女を忘れたことはない。

 きっと僕は、この秘密の恋のことを、決して誰にも話さないだろう。





「あらぁ! かっちゃん!? 見違えたわねぇ!」

「お久しぶりです、香澄おばさん」


 およそ10年ぶりに、僕はこの家を訪れた。


「ホントに久しぶりねぇ! あーあー、あんなに小さかったのにまぁ!」

「いや、ははは」

「高校、無事に受かったんだねぇ、おめでとう!」

「ありがとうございます」

「寮で一人暮らしって聞いたけど、大丈夫? 折角近いんだから、食べる物に困ったら、いつでもウチに来てちょうだいね」

「その時は頼らせていただきます」

「昔みたいに、五月蝿くないし、お酒臭くもないからねぇ」

「ははは」


 そう、僕は高校生になる。

 そして、この街で暮らすことになった。

 全ては偶然だ。高校が決まり、寮に住むことが決まった後、記憶の片隅にあったこの家が寮から近いと気づいたのだ。

 この事を両親に伝えると、母からは「粗相のないように、ちゃんと挨拶しておきなさいね」と厳命された。

 だから僕は、こうしてお土産を片手に10年ぶりに来訪することになった。


「おじさん達は―――」


 僕は香澄おばさんの背後の仏壇に目を向ける。

 かつて僕が宴会場で蹴ってしまったおじさんは、写真の中でも豪快に笑っていた。だけど今はお酒の匂いよりも、線香の侘しい香りがする。


「庄司おじさんは病気してたけど、最近調子が良いみたいでね。たまーにウチに寄ってくれるよ」

「そうですか。あの、そういえば、律子ちゃんはお元気ですか?」


 僕は、その名を口にした。

 この10年、ずっと胸の内に秘めていた名前を。

 もう何もかも変わってしまっただろう。僕の初恋は、10年という時間が圧し流してしまった。けど、まだあの人が元気ならば嬉しい。

 今はもう結婚してしまっているだろうか。

 どこで暮らしているのだろうか。

 またいつか、会える日が来るだろうか。


「律子ちゃんって?」

「え?」


 おばさんは首を傾げた。


「律子お姉さんですよ。夏祭りの夜に遊んでもらいました」

「あら? 親戚にそんな子いたかしら…?」

「いえ、あの、屋根裏部屋に――…」


 この家の屋根裏部屋が、彼女の部屋だったはずだ。


「屋根裏部屋…? ここは平屋だからねぇ…そんな部屋、無いと思うけど」

「―――」


 僕は、言葉を失った。



 あの日出逢った彼女は、一体何だったのか。

 全ては幻だったのか。

 あの香りも、あの熱も、あの声も、あの肌の柔らかさも。

 僕は、あの廊下に立つ。

 飾られた絵の下、そこに、小さな取っ手があって、横に引けば現れる階段。

 誰も知らない、屋根裏部屋への道。

 意を決して隠し戸を開けば、あの時と同じ、真っ暗な階段が目の前にある。

「あるじゃないか」という安堵と、「どうして」という怖れが、僕の中で夏の暑さに熱されて溶け合った。

 あの夜と同じように、夏の日差しも、彼方で鳴くセミの声も、どこか遠い。

 踏み出した先に、一体何があるのか。

 それは、あの夏の夜の続きなのか。

 それとも――…


 一歩一歩、ゆっくりと階段を登る。

 終わりのない暗闇の階段は、まるで暗黒の宙を昇るようでもあった。

 階段の先、そこに彼女の部屋がある。

 あの夜と同じように、僅かに襖が開いていて、光が溢れている。

 僕は、その隙間に手をかけた。

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