第4話 天使が舞い降りる
日曜日の早朝から抜かりはない。決めたところまで勉強して九時半となった。出かける用意は万全でTシャツに柄シャツを重ね着した。カーゴパンツにはポケットが多くあり、機能的に優れていた。机の引き出しから取り出した折り畳みの財布を上部のポケットに収めて部屋を後にした。
廊下で母親と出くわした。
「今から出かけるの?」
「そうだよ。書店が開くのは十時だからね」
「気を付けていってらっしゃい」
「わかったよ。いってきます」
手早く会話を済ませて玄関に向かう。揃えて置かれた運動靴を履くと駆け出したい気分になった。今日、発売される参考書は絶対に手に入れたい。一桁の順位に返り咲く強力な武器となる。
扉を勢いよく開けた。空の青さに堪らなくなり、俺は走って書店に向かった。
二つ目の信号で足止めをされた。目的の書店は薄っすらと見えている。
「健ちゃーん」
思いもしない方向から呼ばれた。顔を真横にやると春が笑顔で手を振ってきた。近くには母親らしい女性がいて俺を目にした途端、軽く頭を下げた。釣られてこちらもお辞儀を返す。
「こんなところで会うなん、て――」
春の表情が一瞬で強張る。別人のような顔で全身が震え出し、硬直した身体が急速に傾いた。隣にいた女性は春の頭を抱きかかえた姿で肩から倒れた。
突然のできごとに立ち尽くす。気付けば春の手足の震えが伝染していた。歩行者信号が青に変わる。
俺は全力で走った。書店は遠のくが足を止められない。震えは心にまで届いて、ただ安全な家に逃げ込みたい一心で大きく腕を振った。
夜の公園を何回も素通りした。頭の中で考え出した言いわけは全て忘れた。そして今日、塾の定期試験の結果が廊下に貼り出された。俺は一桁の順位に戻った。ぼんやりと事実と向き合って夜の道をたどる。
公園が見えてきた。歩幅は小さくなり、手前で立ち止まった。試験の結果の意味は考えなくてもわかっている。春から逃げ出した自分はひたすら勉強に打ち込んで余計な考えを締め出した。
未だに春から逃げている。公園に立ち寄れば全てが終わる。もう春は現れない。俺の情けない行動に失望して二度と会うことはないだろう。
公園に向かって一歩を踏み出した。二歩目に続ける。できそこないのロボットのようになって中に入った。
「健ちゃん」
春はブランコに座っていた。変わらない笑顔で迎えてくれた。罪悪感を引き摺りながらも空いていたブランコに座ると、ごめんね、と小さな声で言った。
「なんで春が謝るんだよ。逃げたのは、俺だ」
「怖かったよね?」
優しく語り掛ける声になぜか泣きそうになる。
「……怪我は?」
「大丈夫だよ」
「お母さんのおかげだな」
「あの人は保育士の早苗ちゃんだよ」
意外な答えが返ってきた。
「春、おまえは」
「私は児童養護施設に住んでいるんだよ」
「……そうだったのか」
俺は理由を訊かなかった。自分が知りたくなかった。これも逃げることになるのだろうか。
「健ちゃんは優しいね」
「それは違う。臆病なだけだ」
「……私は生まれ付き、あるはずの遺伝子が一つないんだって。だからなのかな。寒くないのに震えたり、バランスが悪かったり、前みたいに急に倒れたりするんだよね。勉強は得意じゃないけど、嫌いではないよ。健ちゃんみたいにがんばってないからかな」
春は恥ずかしそうに笑った。その姿が急に滲む。
「悲しい話をしてごめんね」
春はふらりと立ち上がって俺の頭をふんわりと抱き締めた。流れる涙はパーカーの生地に吸い取られてゆく。
「姫ちゃん、ごめん」
自分の中にはなかった言葉が声になった。春は微かに震える手で後頭部を優しく撫でる。
「健ちゃんは悪くないよ」
声が心に響く。溜め込んでいた全ての涙が流れ出した。
とても静かな夜だった。俺と春は二人でブランコを漕いだ。涙の件を帳消しにするように本気で漕ぐと春が文句を言ってきた。
「健ちゃんばっかりずるい!」
「春も漕げばいいだろ」
「だってうまくいかないんだもん」
春は身体を激しく前後に動かす。揃えた両足を振っているが微妙にずれていた。
「仕方ないな」
俺はブランコから下りて春の横に付けた。鎖の上の方をさりげなく握って力を加える。
「ちゃんとできたよ!」
「努力のおかげだな」
俺は鎖から手を離して言った。春の目が離れるとまた鎖を握る。
「そろそろ帰らないと」
「そうだな」
春はブランコを下りた。両肘を曲げた状態でふらふらと歩き出す。
俺は見送る形で声を掛けた。
「俺と春の関係は友達だ」
「恋人でもいいよ」
「なんでだよ」
目を
愛らしい天使のようだった。
幼い天使は静かに微笑む 黒羽カラス @fullswing
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