YES

肉級

第1話(完結)

「先輩、どうして……」

「『どうして』とは失礼じゃない。私はこのミステリー研究部の部長だし、君は唯一の部員じゃない」


 そう笑いながら答える先輩は、あいも変わらず美しかった。


 旧校舎の三階の使われなくなった視聴覚室。その役割を終え、だらりと重そうにぶら下がるビロードの暗幕。その重量感のある光沢と、差し込む西日に照らされた先輩の長い髪の光沢とが美しく調和していた。

 

 僕は、この美しい情景に思わずため息をつく。頭の中では、敬愛するエミール・ギレリスの奏る、ベートーヴェン ピアノソナタ第八番 第二楽章の美しいメロディが流れていた。


「そんなに私がここにいるのが不思議?」

「いえ、そういうわけではありませんよ。ただ……」

「ただ?」

「いえ、何でもありません」


 僕は、喉まででかかった言葉を飲み込み、部員数にしては少々広い部室に二つしかない机の一つに座る。


 先輩は彼女の定位置、つまり僕の向かいの席に座ることはせず、右肩を窓ガラスに預ける形で立ち、窓の外の夕焼けをぼうっと眺めていた。その横顔は物憂げで、彼女の美しい鼻の稜線ごしに夕景を見ていると、何故だか郷愁の念が沸々と湧き上がり、僕は慌てて目を逸らす。


 意識を先輩から剥がそうと、鞄から読みかけの文庫本を取り出だすが、先輩が声をかけてきた。


「ねえ。海亀のスープって知ってる?」


 僕は本から目を上げて、先輩を見る。先輩はまだ夕日を見ていた。


「おいしくなさそうですね」

「違うわ。スープじゃなくて、一種の推理ゲームのことよ」

「推理ゲームですか?」

「そう。出題者が出す断片的な情報から、解答者はイエスかノーで答えられる質問をする事で情報を補完していって、真相を当てるというゲーム」

「面白そうですね」

「やってみる?」


 先輩はやっと夕日から目を逸らし、僕を見つめてそう問うた。


 逆光で顔は深い影に覆われ、表情までは伺い知ることはできなかった。けれども、彼女のチェロのようによく響く声はとても心地よかった。


「やりましょう」


 本をとじ、椅子を引いて先輩に正対する。


「じゃあ、私が問題を出すわね。君は質問をして謎を解いてちょうだい」


 小さく頷く。


「ある男女が殺されました。しかし、犯人が手をかけたのは一人です」

 

 僕は続きを聞き逃すまいと、意識を集中させる。しかし、先輩はそれ以上何も言わなかった。


「え? それだけ?」

「ええ。これが問題。さあ、質問をして謎を解いてちょうだい」

「断片的な情報ってそういう……。しかし、犯人が殺したのは女だけなのに、被害者は二人の男女ってことですよね? そんなことあるんですか?」

「イエスかノーで答えられる質問だけと言ったはずよ」

「そうでしたね。ええっと、犯人は男ですか」

「イエス」

「あ、被害者の男は別の犯人に殺されたとか?」

「ノー。この事件の犯人は一人だけよ」

「単独犯ですか。じゃあ、女が男を殺したという線はなしか」

「イエス」

「被害者と犯人は顔見知りですか」

「……この質問にはイエスかノーかでは答えられないわね」

「答えられない? そんなことないでしょう。あ、そうか、どちらか片方は顔見知りではないんですね」

「イエス」

「なるほどなるほど。面白くなってきました。女は顔見知りで、男は顔見知りではなかった?」

「イエス」

「となると、殺人の動機は被害者の女性との間にありそうですね。女と犯人は、恋人または夫婦のような関係でしたか?」

「イエス」

「やっぱり。痴情のもつれってとこですかね。そしたら……二人は夫婦?」

「ノー」

「じゃあ、恋人?」

「イエス」

「分かりましたよ。先輩。犯人は、自分の彼女が他の男と一緒にいるところを見てしまって、かっとなって彼女を殺してしまったんです!」

「それじゃあ聞くけれど、その浮気相手の男性はどうして死んだの?」

「それはもちろん犯人が二人まとめて……ああ、そうか。殺したのは女性の方だけなんでしたっけ。もう少し情報が必要ですね。そしたら……被害者二人は顔見知りですか?」

「イエス」

「犯人は男を知らないが、女は知っていたと。なるほど。犯人は女を恨んでいた?」

「……ノーかな?」

「歯切れが悪いですね。何かのヒントですか?」

「いいえ。ただ、この質問と答えはあまり真相には関係ないかな」

「そうですか。ということは、怨恨による殺人ではないということか。ああ、犯人は女に借金があったとか?」

「ノー」

「それじゃあ、女を殺すことで、犯人は利益を得ますか?」

「それは、金銭的にそうか、という質問かしら? だとしたら微妙なところね」

「その言い方は引っかかりますね。ただ、金銭が主目的でないことは何となく分かりました。では質問を少し変えます。犯人は何らかの利益を得ますか?」

「イエス。けれど、怨恨以外の殺人なんて全て何らかの利益のためじゃない?」

「確かに。それはそうですね。動機は絞られてきましたが、肝心の“被害者が二人いる問題”が全く分かりませんね」

「そうね。それがこの問題のポイントだもの」

「しかし、そんなことあり得るかなあ。男は女しか殺してないんですよね?」

「その質問の答えは、ノーよ」

「ええ!? だって、問題文でそう言ってたじゃないですか。殺したのは女だけだって」

「いいえ、言ってないわ。私は、『犯人が一人です』と言ったのよ」

「それの何が違うんですか。あ……」

「分かった?」

「…………先輩……この話って、いえ、何でもないです」

「その顔、どうやら分かったようね」

「……ええ、まあ。犯人は男も殺しましたね?」

「イエス」

「でも、死因は女とは違う。そうですね?」

「イエス」

「手にかけたとはつまり、という意味ですね」

「イエス」

「女が殺されたから、男も死んだんですね」

「イエス」

「犯人は、殺された男の存在自体は知っていましたね?」

「イエス」

「犯人と殺された男がのは、という意味ですね?」

「イエス」









「……この殺されたという男は……女のお腹の中のですね」









「……イエス」


 夕日は団地の巨大な影の中に落ちようとしている。


 先輩のシルエットのみが赤紫色の背景に浮かんでいて、先輩の表情は相変わらず窺い知れなかった。


「ああ、もうこんな時間だね」と影の中から声が聞こえる。


「ねえ、先輩。ひとつだけ聞いても良いですか?」

「ええ。なに?」

「僕が今から貴女に殺されるのは、僕がさっきの事件の犯人だからですか?」


 僕は、彼女の細い首に手をかけたあの日を思い出す。


 あの日は、夜だというのに蒸し暑かった。だから、力む両の手に額から滴る汗がぽたりと落ちていた。人目を忍んで幾度となく逢瀬を重ねた町外れの廃屋。割れた窓ガラスから漏れ聞こえる虫の声がただひたすらに鬱陶しかった。


 ゆっくりと影が近づいてくる。


 そして、チェロの響きのように、倍音を含んだ豊かで、低い声が聞こえた。


「イエス」

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YES 肉級 @nikukyunoaida

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