幸福な燕
灰月 薫
幸福の燕
「私ね、
彼女は僕のことを見つめてそう言い切った。
「そんなこと突然言われてもさ…」
僕はどのように答えれば良いのか分からず、首を傾げた。
鳥になりたい。
そのような話は聞いたことがあるが、それらの殆どは“自由になりたい”という気持ちを比喩的に表したものだ。
何か特定の鳥の種類を挙げて「それになりたい」と言うその真意がわからない。
そもそも、何故燕なのか。
鳥の種類を上げるにも白鳥とか、鷹とかさぁ、もっと他にもあるだろうに、ね。
彼女は訝しげな僕の表情を読んでか、少し不機嫌そうに口を尖らせた。
「何言ってんの?って顔しないでくれるかな」
「いやいやいや、何言ってんの?としか思えないでしょうが」
たしかに、彼女は“ロマンチスト”と言われるような部類の人間だ。
御伽噺を夢想したり、動物に話しかけてみたり。
そんな側から見たら不可思議な行動は、もう沢山見てきた。
…しかし、今回ばかりは訊かずにはいられない。
一瞬息を吸って、思い切って尋ねる。
「…ついにおかしくなっちゃった?」
「正気だし、本気だよ、私。
燕になりたい…ううん、絶対になる」
「…」
まったくもって意味が分からない。
僕は溜息をつきながら、しかしながら、どこかで安堵している自分がいる。
その理由は既に分かっていた。
彼女が僕にこうやって目を輝かせて話をしてくれたのは、彼女が水泳を失った日以降だったからなのだ。
* * *
僕が彼女と知り合ったのは、およそ二週間前。
遠くの街から引っ越してきた僕の家のすぐ近くに住んでいたのが、彼女だったのだ。
彼女は余所者である僕にも明るく接し、彼女自身のことを沢山話してくれた。
彼女は僕のことを「つばさ」と呼ぶ。
それは僕の本名ではないが、どこかの方言で僕の名前のことをそう呼ぶ地域があるそうで。
「だってさ、そのまま名前呼ぶよりも“つばさくん”って呼んだ方が、なんかかっこいいじゃん。
それに、君は“つばさ”って名前の方が似合ってるよ。
別に君の名前を貶そうとか思ってるわけじゃないけどさ」
「つばさ」と呼ばれることに僕が異を唱えると、彼女は悪びれもせずにそう言って笑った。
そう、彼女は、こういう人間なのだ。
誰に対しても明るく、いつでも笑っている。
だけれど、僕と話す時の彼女の笑顔は、他の人に対するそれとは違う。
ほぼ直感的に僕はそう感じていた。
なんというか…温もりを感じる。
彼女が心から僕に話をしてくれているようで、それは僕の胸を暖めてくれた。
いつしか彼女の話を聞くことが僕の楽しみになっていた。
「ねえ、今度の大会、メドレーリレーのメンバーに選出されたんだよ!」
水泳の話をする時、彼女の目はいつもよりも一段と生き生きと輝く。
無邪気に、子供みたいに、嬉々として水泳の楽しさを話す彼女は、僕にとって眩しすぎるほど美しかった。
毎朝のように水泳用具の入ったバッグを抱え、大切な宝物を見せびらかしにかせに行く子供のように、意気揚々と登校する彼女。
水泳練習を終えて、疲れを見せつつも、満足気な表情をして帰路に立つ彼女。
その全てが、僕には到底届かないような輝きを持っていた。
だから、僕は彼女のことをこんなにも幸せにしてくれる水泳のことも、いつしか好きになっていた。
いつか、彼女と水中を泳いでみたい。
そんな微かな期待さえ抱いていた。
その日も彼女が水泳バッグを抱えて学校から帰ってくるのを見た僕は、無邪気に彼女に声をかけたのだ。
「今日も練習お疲れ!」
「疲れたよぉ、つばさくん」
彼女は僕を見つけて立ち止まった。
そう、それが良くなかった。
彼女の背後から走ってきた余所見運転の自転車は、突然立ち止まった人影に反応できなかったのだ。
病院に行った彼女が告げられたのは、水泳を諦めなくてはならないという事実だった。
それは、彼女にとっては世界で一番残酷な事だった。
それからというもの、彼女は塞ぎきってしまった。
僕が話しかけても、無視される。
あれだけ毎日持っていた水泳バッグもゴミに出してしまった。
事故の日に、彼女は彼女で無くなってしまったのだ。
* * *
彼女が“燕になりたい”という発言をした数日後。
「つばさくんただいまっ!」
意気揚々として学校から帰ってくるなり、彼女は僕に話しかけた。
その目は、水泳をしていた頃の彼女と変わらない輝きを称えている。
そのあまりの無邪気な喜びに、僕も釣られて笑顔になった。
「おかえりなさい。
どう?
燕にはなれそう?」
今日も僕は彼女を暖かく迎え入れる。
“幸福の王子”という物語で、“燕”は王子を支え、幸福を配る手伝いをしていた。
彼女がなりたい“燕”とはその燕の事だ。
彼女は水泳を失った。
それと同時に、水泳で幸福を配ることを諦めた。
だけれど、彼女は“幸福の王子”でなく、“幸福の燕”になる夢を見つけたのだ。
彼女は興奮気味に僕に話す。
「一年の子のタイムがぐんって伸びてるの!
やっぱり泳ぎ方の癖を治したのが良かったのかな…」
水泳のマネージャー。
それが彼女の新しい生きがいだった。
“幸福の王子”を支える彼女は、誰よりも輝いていた。
そんな彼女と一緒にいれる僕もまた、きっと幸福のツバメなのだ。
* * *
「いってきまーす!」
私は、家を走り出た。
今日も水泳部の練習がある。
まだまだマネージャーとしては半人前だが、水泳に携われることはこの上ない幸せだ。
それに、選手達の成長を支え、見守れることは何にも代え難い私の生きがいになりつつなっていた。
そんな私を励ますように、つばさくんが上空を回る。
私がつばさくんに出会ったのはおよそ三週間前。
あの子が私の部屋のすぐ外に巣を作ったのが出会ったきっかけだ。
それからというもの、私はつばさくんに学校であった嬉しい事を話すようにしていた。
私の話を楽しむように首を傾げるあの子の様子に、私はいつも支えられていた。
私はつばさくんに手を振った。
「がんばってくるね!」
____“つばさ”という名の一羽のツバメに向かって。
幸福な燕 灰月 薫 @haidukikaoru
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