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俺が次にあの喫茶店へ行ったのは、女をほって帰って3ヵ月もたった頃だ。
雪がちらつくようになっていた。俺は雪国の生まれではないが、東京のベタついた雪は特に嫌いだ。コートに溶け込んでいくのを見るたびムカムカする。
相変わらず喫茶店のドアベルは、メシア復活を祝福するがごとく、さわやかに鳴り響いた。
「いらっしゃいませ」
マスターの目つきが、心なしか若干親しみを帯びて見える。離れた常連が戻ってくるのは悪くない気分なんだろう。
あの席に座る気になれなかった。俺はカウンターテーブルのうちひとつを選んだ。
「ホットココア、砂糖なしでください」
「生クリームはどうします」
「ほんの少し」
ちゃんと毎回訊いてくれる。この店主は順と礼を乱さない。プロってのはこういうものだ。プロにならわかると思う。ムダとか生産性とか効率化とか抜かしてコレがわからん奴は、プロにはなれないので、商売人になろう。
ココアを啜るが、結局俺は落ち着かなかった。飛蚊症の影を追いかけるように、視線が動いた。
犯人は必ず現場に戻ってくるとかいうが、こういう気分だろうか。
さあ戻ってきたぞ。俺は震えるマフ・ポッターだ。
いやいやたかが、女一人に置いてけぼり食わしただけじゃないか。
ずっとそう思うようにしてみたが、そうでもないことを誰より知ってるのがこの俺なので無駄である。
あの女は水風船で、この緩い道玄坂を転がり落ちていたのだろう。ゆっくりとだ。アスファルトを転がる風船がどうなるかは、小学生でも知っている。
俺は決断した。
「どうですか、景気は」
とマスターに話しかけた。声をかけたのは初めてだったが、彼は驚きを顔に出すほど未熟ではない。
あるいは、俺がカウンターを選んだ時点で何か察していたかもしれない。
「もうかるよ。良いものを出してるからね」
といって渋く笑った。
「そりゃなによりです」
「お兄さん、もう来ないと思ってたよ。女の子をこっぴどく振っていたでしょう、前ん時。あの席で」
「よく覚えてますね。いや、あの人は初対面だったんです」
俺は苦笑を作った。引きつったかしれないが、作れていたと思う。
「モテるんだねえ」
「だといいんですけどね。あのひと、どうなりました」
「暗くなるぐらいまで座ってたけど、普通に帰ってったよ」
「フム」
夏だったから、日が落ちたのは19時くらいだろうか。
俺が店を出てすぐ例の映画を見ていたとしたら、店へ戻るまでに2時間少しだ。3時間はかかるまい。
記憶をなんとか辿ってざっと計算してみた。
恐ろしいことにあの子は4時間近く、『孤独』のおかわりをしている。
肌が総毛だった。
とにかくココアを喉に通す。よし待ってろ、あたためてやるからな。盟友はそう言って俺の臓腑に落ちて行った。
「悪いことをしましたね。でも自意識過剰なんだろうけども、俺はあの人の何でもないし、何かになるつもりもありませんでしたからね。つまり……」
マスターはここで腑に落ちたようだった。黙って頷いている。
「つまりその、どうすればよかったんでしょうね」
「そういうときはね、それでいい」
「そうでしょうか」
「年を食うと色々あるけどね、やっぱりそれでいいと思うよ」
ココアを飲み干し、少し考えてから、五千円札を置いた。
「ごちそう様。お釣りはいいです」
マスターはハッキリと嫌そうな顔をした。
「多い」
「いいんです。あの女の人が来たら、俺からだと言ってなにか奢ってやってください。その分ってことで」
まあ香典である。いきなり告解師に仕立て上げられたマスターには悪いが、彼のテリトリーで起こったことだ。このくらいはいいだろう。
固茹でじゃなきゃあ、生きてけないさ。
ドアを肩で押し開ける。外気の冷たさにシッカリシロと頬を叩かれる。
坂を下っていると、側溝にどこかの莫迦の吐瀉物をみた。
彼女がここで破裂した、その臓腑に違いないと思った。読経代わりにビートルズを口ずさむ。
彼女は言うんだ
彼女は言うんだ
死がどんなものか知ってる
悲しみがどんなものだか知ってる
それで僕は
まるで生まれて来なかったみたいな気分になるんだ
まるで生まれて来なかったみたいな気分になるんだ
道玄坂無糖ココア(或いは俺の犯した殺人) 秋島歪理 @firetheft
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