幸せは水の中に

五月ユキ

幸せは水の中に

 何人も殺した。ひとりか、ふたりか。違う。二〇三六人だ。彼らには救いが必要だからだ。


「どうして彼らを殺したのか」


 女神様だ。ひと目で見てわかった。

 深夜のはずなのに、彼女の背中には神々しい光の粉が舞い、粉雪のように漂う。虹色のドレスがひらひらと揺れ動く。

 左手の指に小さく水の指輪があった。水が緩やかに彼女の指に駆け回る。それこそ黒い海から生まれた女神様である証だ。


「何度も申し上げます。彼らには救いが必要だからです」


 おおっ、我らの慈愛の女神、デイフィリア様のご降臨だ。思わずいつも懐にある聖書を手にした。その表紙を撫でながら、私は思ったのだ。


 なぜ、女神様は自らここに来たのだろうか。


 ここは教会ですらなく、私の家だ。城下町じゃなく、荒野の真ん中にいる小さくて狭い小屋だ。

 私のような下級神父よりも、もっと女神様の御力が必要の場所があるのに。


「救いの手はすでに伸べてある。殺す必要はないわ、ビクトル」


 おおっ、私のような無能な神父の名前も覚えていただいたとは、嬉しさで身が震えた。


「我々は矮小の存在です。女神様の御威光を借りなくては生きていられませんでした。私はただ彼らに手を伸ばしただけなんです」

「話してちょうだい。なぜこんなことをするのか」


 話は長くなりそうだ。

 失礼を承知の上で、女神様を家に入れた。ダイニングテーブルの近くに座った女神様に、いつもよりも丁寧にお茶を淹れた。


 女神様は表情もなく、ただじっと私を見た。世の中で一番美しい女性に見つめられて、少し恥ずかしくなり、居ても立っても居られない。

 仕方なく頭を下げて、お茶に息を吹きかける。


「最初に殺したのは私の娘でした」

「ほう。それはなぜか」

「娘は生まれるときから持病がありました。医者が何度診ても治れませんでした」

「だから殺したのか?」


 女神様はまっすぐに私の目を見て話した。私も頭をあげて、彼女を見た。


「いえ。娘は八歳まで生きてこられたのです」


 娘は持病があっても明るく、誰よりも勤勉に、誰よりもたくましく成長したのだ。しかし、病気は九歳の頃に悪化した。


「いつも花畑で舞うあの子がベッドから降りることさえ叶いませんでした」


 あの子の話になると、目が思わず二階に向けた。彼女の部屋がいまでも変わらず、同じままだ。


「あなたの娘は強い意思があるわ、私も知っている」

「はい、私の誇りです。彼女のために、いつも彼女のベッドの近くて聖書の話をしました」


 女神様は頷き、満足げの顔になった。


「すると、ある日、あの子が尋ねたのです。『女神様はいるのに、どうしてわたしの病気を治せないのか』と」

「病気がいつも治れないから、娘を殺したのか」


 女神様は私の瞳を覗き込む。全能の女神様はきっとなにもかもご存知のはずだ。私の説明を聞きたいのだろうか。


「娘は苦しくベッドの上に苦しみもがくが、それでも私には彼女を殺す勇気がありませんでした。なんという矮小な存在なのでしょうか」

「――娘はうつろの目で窓の外を見ても」

「一年がたって、娘は苦しみながら私の腕を掴んても」

「二年がたって、娘は『もう死なせて』と怨嗟の声を出しても」

「私は彼女を殺せませんでした」


 あたりは沈黙が支配した。女神様は真剣な面持ちで私を見た。


「すると、ある日、娘が急に嬉しそうに話しました。『わたしはきっと死ぬためにここに生まれたのね』、と」

「誰も、死ぬために生まれたわけじゃないわ、ビクトル」

「聖書でもよくこの言葉を見当たりました――『人よ、生きよ』だと。私は思ったのです。生きるのが喜びですが、死ぬことに喜びを感じる人もいるのです」


 女神様は露骨に不愉快の顔を浮かべた。


「殺した理由はそれか」

「女神様はすでにご存知のはずです。なぜ私に聞くのでしょうか。救いが必要だからです」

「ビクトル」


 女神様は憂いの目で私を見た。なぜそんなに悲しい目をするのだろう。女神様は全知全能のはずだ。喜ぶことはあれど、悲しむ必要はない。


「聞かせてちょうだい、なぜ彼女を殺したのか」

「娘は生きても苦しむだけなんです、病が治ってももうふつうの人のようにはいられないのでしょう」


「病が治ったら、もうふつうに生きていけるのでは」と、女神様は鋭い目で私を見た。


「ふつうの人では知り得ない喜びを知ったのだ。でも満たされぬまま、生きていくしかないのです」

「生きることに喜びを見出すこともあるかもよ、ビクトル」

「苦しみの中に喜びがあるとても言うのでしょうか」

「聖書はそう書いてあったのでは?」


 女神様は皮肉にも似た、意味深の笑みをこぼした。


「ええ。そうです。そうです。『人よ、生きよ』とはそういうものです。しかし、娘にとって死ぬことこそ、生きることなのです。死ぬことで、はじめて生きることができる、唯一無二の喜びです」

「喜びこそ生命です。命こそあなた様が与えられた最高の喜びです」


「その通り。生きることこそ喜びであり、死ぬことこそ悲しみである。そして命は廻り、悲しみから喜びへ、再び別の生命へと帰結する」


「――だからこそ、私はひとつの実験をしました」


「実験、か」


 女神様は小首をかしげる。


「娘を連れて海まで行きました。少年少女であれば誰でも喜びそうなところだが、娘は海を見ても何の反応はありませんでした」

「それどころか、海を見て、まるで吸い込まれたかのように、海の奥深くまで進もうとしたのです」


 海は深く、どこまでも広がっている。

 娘は海を見て、力弱い足を引っ張りながら進んだ。あっという間に海の中に。私はその光景を目の当たりにして、一瞬彼女を助けようと手を伸ばした。


 でも、彼女の表情を見て手を引いたのだ。


 なんという表情だ。その表情は名状しがたい。死に向かって進んでるのに、まるではじめて生を受けたように、束縛から逃れたかのように、陶酔した顔だった。

 恐れを感じずに、あたりまえのように。生を謳歌したのだ。


「私は伸ばした手を引いたのです。瞬く間に、娘は海に飲み込まれた。どこを探しても見つからず、焦ると同時にホッとしたのです。ついにこの歪んだ生から救われた、と」


 娘の幸せは海の中にあると考えた。

 あのあと、不幸の事故として、大勢の人から憐れみの言葉が届いたけど、頭が真っ白で、なにも感じなかった。

 空っぽの娘の部屋を見ると、ついに彼女が消えた実感が湧く。私は娘を殺したのだ。何度も懺悔した。何度も。何度も。何度も。


 すると、気づいたのだ。


 娘と同じく、生きることに喜びを感じず、暗闇の中で、死ぬことで生を得る人たちの存在を。

 ひとりか、ふたりか。違う。二〇三六人だ。

 彼らにも救いが必要だ。

 最初は責められた、人殺しだと。でも、いつのまにか、女神様に一番近いところで、死ぬことができるのは幸せだと思う人もいた。


「話は聞いたわ、ビクトル」


 女神様は私の告解を聞いて、悲しむ顔を見せた。


「――ならば。わたくしがここに来る理由がわかるのか?」

「何度も。何度も。何度も申し上げます。救いが必要だからです」


 我らの慈愛の女神、デイフィリア様は聖なる黒い海から生まれた女神である。誰よりも気高く、誰よりも美しく、誰よりも生と死そのものに近いのだ。

 彼女の目は私の娘のように、歪んだ輝きを見せた。


「ビクトル。わたくしは長く生きたのに。全知全能でも、苦しみの中で喜びを生み出すことはできなかった」


 女神様は初めて私が淹れたお茶に目を配る。

 スプーンをぐるぐると回って、カップについてる茶渋が姿を現す。女神様につきまとう憂いのごとく、茶渋が真っ黒に見えた。


「もがき苦しむものに、喜びを与えることなどできない。生と死、祝福と強奪、どれかの一つしかできないのよ」


 深い悲しみが女神様の声にあった。

 耳を震撼したその声に聞き覚えがある。

 そうか。そうか。娘の悲しみも、二〇三六人分の悲しみも、全部も女神様から溢れ出るものなのか。

 今ならわかる。わかるのだ。

 私がいままで殺してきたのは我らの慈愛の女神、デイフィリア様だ。


 女神様はお茶をまるでお酒のように一気に飲み干す。すると、オンボロの小屋は一面の黒い水に。水って言っても、ちゃんと呼吸できる。

 今なら。聖書に書かれた黒い海みたいに、生と死の概念がごちゃ混ぜになる。そんな気がした。


「指輪を、消して」


 暗闇の中に、光に包まれた彼女は手をこっちに伸ばした。水の指輪に包まれた色白の指がはっきりと見える。

 それこそ女神様の証だ。女神様そのものだ。

 咄嗟に黒い海で漂うティーカップを取って、一気に指輪を叩いた。水の指輪は衝撃に耐えきれず、闇の中に霧散した。


 すると、指輪から無限の水が溢れ出し、洪水のように小屋を突き破った。上も下も左も右も水になった。世界そのものが水になったのだ。空間感もあやふやになる。


 彼女は落ちていく。

 女神様は沈んでいくのだ。

 彼女はこっちに手を伸ばした。

 海で娘を見た時の記憶が蘇る。

 一瞬思わず手を伸ばそうとした。


 彼女の顔を目に映る。

 まるではじめて生を受けたように、束縛から逃れたかのように。彼女の顔には安らぎが満ちていた。


 おおっ。女神様よ。

 我らの女神デイフィリア様よ――

 死に近づくことで、あなた様にもついに救いを、安らぎを得たのか。


 永遠に落下する感覚。

 女神様が落ちるにつれて、呼吸も苦しくなる。苦しみの中で喜びを生み出すことはできない、とあなた様が言ったのに。


 水に押しつぶされながら。

 呼吸も碌にできないまま。

 私は、しあわせの真っただ中にいた。

 羊水のような水に包まれて、もがき苦しみながら、無上の喜びを感じたのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

幸せは水の中に 五月ユキ @satsukiyuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ