解決編
リングを解体するのはかなりの重労働だ。昔は神野も練習生や他の選手に混じって解体を手伝ったものだが、今は違う。
全楽園ホール、午後九時。
先程まで激戦の繰り広げられていたリング、その熱が冷めやらぬ中、神野は無人となったそれを前に立ち尽くしていた。
リブレというマイナー団体の興行──その実、まだ見ぬ強者を探しに出るのも神野の趣味の一つでもある。
あのハラダという選手は中々良い動きをしていた。一度ゲスト参戦させれば、人気が出るかもしれない──
「あらあ、考え事かしら?」
耳障りな声だった。聞き飽きたハスキーボイスにうんざりしながら顔を向けると、やはりそこにはつばめが立っていた。
「社長、少しだけお時間よろしいかしら?」
「試合はもう終わったぜ。俺ももう帰るところだ。夜も遅いし、また今度」
神野はそう言って立ち上がると、足早に出入り口へと体を向けた。
「犯人、実はわかりましたの。興味ありません?」
背中越しの声には、確かに自信が宿っていた。それは事実を伝える声色ではない。
かかってこい。
そうした宣戦布告にも似たものだった。神野は思わず振り向く。プロレスラーが背中を向けないのは、そうした敵意に真正面からぶつかるからだ。
「……教えてもらおうじゃねェかい。誰だ?」
「犯人は、プロレスのことをよく知っている──理解している人よ。神野さん、あなたみたいな……」
つばめはコツコツとヒールを鳴らしながら、リング階段の前でそれを脱いで、ロープをくぐった。
「おい。もう片付けるんだぜ」
「あ、それは大丈夫。社長とお話するってことで、片付け時間をずらしてもらったの。十分で終わるから。……いやあ、こんな感じなのねえ。私、プロレスは知らないけどボクシングとかはよく見るの。夢だったのよ、リングに上がるの」
下手くそなジャブを放ちながら頭を振っている彼を見上げながら、神野も同じようにリングへ上がった。スーツ姿で上がるのはそう無い。妙な違和感を覚えながら、ロープへもたれかかる。
「犯人の話をするんじゃねえのかい」
「あらやだ私ったら。夢が叶って調子に乗っちゃって……で、鹿山さんを殺した犯人は、まず犯行のあと彼のマスクを被り、成りすまして会場入りしたの。点呼のとき葉山さんが見たのは犯人だった」
「ほお。それで?」
「犯人はマスクを取って、素顔のまま再び堂々と会場へ入ったの。鹿山さんが殺されたのは、死亡推定時刻と彼が送ったメッセージから推測するに二時半から五時までの間。でも、会場入りしたローン・ウルフが犯人だったとすれば、四時半の時点で鹿山さんは亡くなっていたわけだから、顔見知りの犯人という推測からすれば、ゴッドプロレスで唯一会場入りがそれよりあとになっている人が犯人だということになるわね。つまり、貴方よ、神野さん」
じわりと身体を冷や汗が伝った。しかし、終わりではない。カウントツー。フォールはまだだ。
「ちょっと待ちな。マスクを被ってたのが俺だって証拠は?」
「ローン・ウルフのマスクは三種類。デザインは二種類で、試合用は本人のものと予備用の二つしかないの。神野さん、あの日鹿山さんの代わりに、ローン・ウルフのマスクを被って試合をやったそうじゃない?」
「まあな。なら、予備用のマスクを被った別人の可能性があるだろ」
「それはないわ。葉山さんが自宅で洗濯していたから。あの日、ローン・ウルフのマスクは彼が持っていたものしかないの。それを被っていたのは犯人でしかありえない」
カウント2.5。神野はまだ諦めない。認めればすべてが終わる。だから諦めない。
「そうか。あれは来る直前に道端に落ちてた。拾ったんだよ。ヤツが脱いで落としていったのをな」
「拾った? どこで?」
「会場の近くだ。出てった俺はヤツの代わりに試合に出ることにしたんだ。試合用のマスクを落として行くなんて普通じゃないからな」
つばめはそれを聞いて微笑んで、納得したようにその場をくるくる歩き回った。それがなんだか不気味に感じて、神野はロープに持たれるのをやめた。
「なるほどねえ……ま、確かに辻褄は合ってる」
「それに、顔見知りなんて……ヤツが天涯孤独の友達ゼロ人でもない限り無数にいるだろ。俺がそうだって証拠でもあるのか?」
「……そうねえ。でも、あなたがそうだって決定的な証拠が一つだけある」
「証拠? そりゃなんだい」
「ちくわよ。鹿山さんが残したダイイングメッセージ──事実上のね」
「ちくわァ? まだおめえさんそんなこと気にしてたのかィ」
「気にするわよお」
「何度も言ってんだろ。あいつはちくわが無くて怒るくらいは好きだったんだよ。それだけだ。大袈裟にすんのもいい加減に──」
「社長さん。今なんて?」
「あ? だから、鹿山はちくわが無くて怒る……」
「そのちくわっていうのは、食べるちくわのこと?」
「それ以外なんかあんのかィ」
「……大変よくわかりましたわ」
つばめはその場でぴたっと足を止めた。逆に神野は苛立ったようにその場を歩き回り始めた。これではチャンピオンと挑戦者、格上と格下が入れ替わったようなものだ。
居心地の悪さを感じていると、つばめがようやく口を開いた。
「やっぱり、社長。あなたが鹿山さんを殺した犯人だわ」
「言葉に気をつけろよ。大体何の証拠があって──」
「ちくわよ。……葉山さんから教えてもらったの。さくらちゃん!」
遠くから、闇を割くように明るい返事が返ってきたと思うと、稲妻のごとくなにか細長い物を持ったさくらが走ってきて、リングへ上がってきた。
「こちらです、どうぞ!」
「ありがとう。もう大丈夫、外で待っててもらえる?」
頷くが早いが、さくらの姿はあっという間に入場口の先へと消えていく。残されたのは、つばめが持つ何やらビニール製らしき細長いものだけだ。
「これ、スクワットパッドっていうものなの。バーベルのシャフトにつけて、接地面を柔らかくする。シャフトが当たると痛みを感じる人向けらしいわ」
「それが?」
「鹿山さんは葉山さんと同じ関西出身で、同じジムに通ってたことがあったらしいの。鹿山さんはシャフトの冷やっとした感触と、めり込むような感覚が苦手で、プロならまず使わないこのパッドをよく使ってたらしいわ」
背中が冷える感覚は勘違いではなかった。これは、マットに肩がついた感触だ。久しく味わっていなかった、敗北の感触だった。
ワン。ツー。まだ返せる。その手段を脳内で探る。まだ返せるはずだ。
「で、レスラーになったあと、クールなマスクマン──ローン・ウルフになったことで、表向きはパッドを使うのを辞めてたらしいの。キャラ作りの側面もあったのかしらね。それでも、時折嫌になるときがあって、使いたくなったときのために道場にある葉山さんの私物入れに隠していたらしいの。ここからが面白いのだけれど、二人はそれをバレないように隠語みたいに関西のジム時代の呼び方で呼んでたそうなの。それが、穴が空いた細長い形から取って……」
「ちくわ、か」
2.6、2.7。
「そう。……もっと言うなら、鹿山さん、練り物が苦手で口にしたことなんてなかったらしいわ。もちろん、トレーニング前後にちくわを食べるレスラーなんてゴッドプロレスには一人もいない。でも、あなただけがちくわが食べ物で、切らしてたことで怒ってたと言っていた。あの日、事務所移転にあわせて、葉山さんの荷物は本社に移されてた。当然パッドもその中にあったわ。つまり、切らしてたの。社長。あなたは『ちくわを切らして怒っていた鹿山さん』をいつどこでご覧になったのかしら? 教えてくださる?」
カウントスリー。ゴングが鳴る。体からふっと力が抜ける。負けた。無敵のアトキンス神野が王者陥落だ。
認めざるを得なかった。返すすべは無かったし、俺は殺人の難しさを舐め腐っていた──。
「……参った。お手上げだ。ギブアップだ」
「それは自白と見てよろしいかしら?」
「ああ。あんたは大した挑戦者だ。認める。あんたこそ警察のチャンピオンだ」
つばめは再びふっと笑うと、階段へ向かい──振り向いた。
「どうしても一つだけわからないことがあったのだけど」
「何だい」
「ローン・ウルフのマスク。社長さん、あなたが言うとおり、道端に捨てていればもっと無理なく筋が通って、私も疑問に思わなかったはずよ。ましてや被るなんて、あなたが犯人だと喧伝するようなものよ。どうして?」
「……あの日のローン・ウルフの相手は、ダニー・ハンスンっつってな。本国じゃドル箱レスラーだ。若手だが、まだまだ伸びしろも残してる。確かにあんたの言うとおり、捨ててりゃなんとでもなった。他のやつを代役に立てればいいしな。……だがそれじゃダニーが納得しねえ。あいつはあくまでもローン・ウルフとの決着を望んでたしな」
「じゃ、なんであなたがわざわざマスクを?」
「決まってんだろう。ダニーが強えレスラーだからだよ。闘ってみたかった。いい機会だったのさ」
神野は大きく息を吸う。娑婆で吸う空気──何より、血の混じったリングの上で吸う空気は、吸い納めだろう。
彼は少しだけスッキリした気分になって、つばめに笑いかけた。彼もまた少しだけ微笑み、階段の先──花道の先へと指を向けていた。
「じゃ、行きましょうか」
またゴングが鳴ったような気がした。戦いはまだ終わっていない。今度は長い戦いになるだろう。
それでもまた、神野はこの階段を登りたいと願っていた。それがいつになるかはわからないが──彼は残念ながら諦めたことがない。おそらく、これからもずっと。
『喝采と紅い花』終
三条つばめ警部補のお別れ『喝采と紅い花』 高柳 総一郎 @takayanagi1609
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