3.オルフェーヴル!

 ぼくたちは柔らかな五月の芝生の上に並んで寝転がったまま、抜けるような菫色の空の途中に引っ掛かって動かないはぐれ雲を見ていた。隣ではラジオが競馬中継を流していたが、聞いていないぼくたちには子守唄のように意味をなさない。

「史上最強馬は何だろう?」

 杉本くんがふと呟く。

「ディープかルドルフかイクイノックスか … 」

 答えたぼくに一瞬微笑したのがわかる。「オルフェーヴルは?」

「本人はきっとそう思っているさ」

 横手でコトンと音がした。首を動かすと、池のほとりを猫が二匹で駆けて行く。

 ふと、この人生でまだいていなかった質問を思い出す。

「ねぇ、君はなぜ彼女や子供たちと同居しないんだい?」

 いや、いつだったか前にもいたことはある。だが、彼は馬の事を話し続けた。

「どんなに速くても、無理やり走らされているんだね」

「うん … 気の毒なことだ」

「なのに必死で走っても脚を折ったら予後不良 … 」

「そして無事引退してもみんながみんな楽しい余生を保証されてる訳じゃない」

 ぼくはそう引き取った。そんな後めたさが多くの者の中にある※※。


※※ https://www.youtube.com/watch?v=F1zSAvmOlhw&list=PLLJWlHcU96e0C3V8BZg3iRFgybw8mTSdP&index=5 

 

… 彼は遠くを見ていた。「厭ならはっきり厭だと言えば良い」

「オルフェーヴルみたいに?」

「そう、彼みたいに!一度調べてみたよ。彼にはあのレースの他にもいろいろ前科があるんだね?」

「うん、とんでもない反骨者さ!新馬戦では勝ったあと騎手ジョッキーを振り落した上に暴れまわって記念撮影をぶち壊し、三冠目の菊花賞でもゴール直後にまた同じ池添いけぞえ騎手を振り落す。追えば引っかかり、抑えれば立ち止る… 」

 杉本くんはようやく口をほどいた。

「ねぇ、君は奥さんや子供たちと毎日顔を突き合わせていて疲れない?どんなに好きでも離れていたい時はない?だって、人はもともと独りなんだよ?会いたい時にだけ会えればそれで良いはずなんだ」

 それからしばらく、ぼくたちはまた口を閉じ、聞くともなしに世界の音を聞いていた。

「もしたった今、このラジオから、どこかの国が核ミサイルを発射してあと1分で神戸に着くと聞こえてきたら ― 」

 耳元で彼が呟く。

「ぼくはどうするだろう」

「このまま寝そべって空を見ている … 」

「井崎氏なら?」


  … ぼくは彼ほど潔くは生きられないだろう。慌てふためいて身を隠そうとするか、わが家に向かおうとするはずだ。この先も、日々の人間関係に悩みながらこの世にしがみつき、為すべき雑事に絡み取られ、責任と義務を背負い、思いを引きずって立ち止っては、後を振り返って動けなくなることをくり返して行くだろう。楽しい時には笑い、悲しい時には涙して、時には本当に行くべき道さえ横目に見送ってうな垂れ、かぶりすることもあるはずだ。でも、良くも悪くも、それが実際の人生というものではないかとぼくは思う。

「君は世界が好きなんだね」ぼくは呟く。

「誰よりも深く子供たちや彼女や犬や猫たちや、それから湖畔や三菱アイやシベリウスを愛しているくせに」

 彼は微笑わらった。

「うん、できることならこの庭から、こうして永遠にこの世を愛し続けていたいんだ」

 気に入らない。

「だけど、もし、いつか神戸で革命が起きたら、君みたいな役立たずの無産階級のろくでなしなんか真っ先に絞首台送りだよ。少なくとも … 銃殺刑でなければね」

「その時はかくまってくれるのかい?」

 ボーダーコリーのデベンが、少しだけ陰を移した木蓮の樹の根元からのっそりと日なたに身を起し、こちらへやって来る。軽く二、三度尾を振ると杉本くんの顔を覗いて、また向うへ行ってしまった。ラジオではまだ競馬中継が続いている。カナブンが一匹、鮮緑に閃いて、めめぎろしい昼のぎを渡って行く。


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オルフェーヴル! 友未 哲俊 @betunosi

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