2.逸走

 小雨上がりの仁川にがわ駅にどっと降り立った老若男女の殆どが、ぼくたちと同じ阪神競馬場に向って行く。屋根付きの大歩道橋一杯に広がってほぼ一方通行のように流れて行く群衆越しに見上げる空は、どよんと霞んでいた。馬場はおもから稍重ややおもに変りそうだ。

 この日、杉本くんから呼び出しがあった。競馬に行こうと言う。不審きわまりない。彼は競馬など全く知らないはずだ。ぼくもテレビではよく観るし、今日のレースも買うつもりではいたものの、競馬場まで実際に足を運んだことは二度しかない。道中、銀行に立ち寄った彼は、引き出した裸の札束を無造作にベストのポケットへ収めていた。驚きの厚みだ。そもそも彼がどのような形にせよ、このタイミングで突然金儲けに目覚めるとは考えられない。嫌な予感がする。

 ルリカ嬢からはこの三日間、結局何の連絡もなく、厭がる杉本くんに無理やり入れさせて来た連日の電話やメールも着信拒否されたままだった。あんなことで本当にふたりの関係が終ってしまったりするものなのか、ぼくの方は依然半信半疑だったが、彼自身はもうあの夜の出来事を一切口にしなくなり、外目には早々と平静さを取り戻していた。が、そのことが、ますますぼくを不安にする。 … 彼は確かにやけを起こして自分自身や他人を傷つけたりするような劇情家ではなかったが、常人には及ぶべくもない、底知れぬ愛情の深みの塊りなのだ。そんな彼が致命的な深手を忘れるために、時には断腸の思いで全てを振り捨て、過去に訣別して行かなければならない気持ちは、ぼくには理解できる。そして、そのナイーヴさ故に、已むに已まれず、代償として常識外の奇行を犯してしまったことがその昔あったのだ。今回も必ずこの金で何かを仕出かそうとするに違いない。

「ねぇ、きよし」 

 ぼくは訊いてみる。

「それ、いくらあるんだい?」

「120万。うち30万は小笠原旅行用に親から借りてあった分、残りの90万はぼくがこの世に誕れてから唯一自分の手で稼いで来たバイト代の余りをコツコツとためてきた分さ。結婚費用の足しになるはずだった」

「それを賭けるの?」

「賭けるというより、棄てに来たんだ。旅行がなくなった今、30万は消えなければならないし、90万も必要なくなった。ぼくの人生は一度ここで清算しておく必要がある」

「 … 」

 ぼくは何も言わないことにした。彼は120万を棄てると言う。そうしたいというならさせておこう。所詮、彼の金だ。正気の沙汰ではないが、それでも以前のようにあわや禁固刑になりかけるような事態を招くよりはまだ良い。

 この日のメインはGⅡの第11レース、阪神大賞典で、人気は案の定オルフェーヴル一色だ。まわりでは、ギャルたちのかしましい嬌声や、家族連れののどかな笑い声が弾んでいる。

「〖パパと行く動物園は馬ばかり〗」有名な川柳を思い浮べる。

 パドックを横目に通り過ぎ、噴水広場やポニー乗り場を軽くぶらついた後、構内に入って券売機の前に立つ。虎の子の千円札をとり出して、3連単(1着、2着、3着の馬を着順通りに予想する買い方。馬券としては当てるのが最も難しいが、あたれば逆に倍率も一番高くなる)を12番からの一頭軸マルチ(最も強いと思う一頭を1着に固定して、2着馬、3着馬を工夫する買い方)で十点買った。ぼくの身分ではそれ以上は無理だ。

 彼は少しためらってぼくを見た。

「もし、軍資金が足りないのなら全部貸そうか?」

「いや」ぼくは反射的に断る、「君の人生を荒らす気はないね」

「わかった」

 杉本くんは券売機ではなく人のいる窓口へ向った。説明を聞きながら買っている。本気で捨てようとしているのか、一か八かの賭けに出たのか。いずれにしろ、彼が買うはずの人気薄馬券はオッズを大きく下げるだろう。

「何を買ったの?」

 尋ねたぼくの手に、彼は無言で馬券を寄越した。

 1ー12ー6の一点買い。1月12日午前6時、彼の誕生日、つまり人生を賭けたという訳だ。1番のギュスターヴクライは単勝3番人気、6番のナムラクレセントは5番人気。せめて12が頭なら望みもあっただろう。

「捨てていいよ」

 やはり勝つ気などはなからないようだ。だが、競馬では何が起るかわからない。たとえ、オルフェーヴルが6連勝中の破竹の四冠馬で、単勝1.1倍、支持率75.9%の怪物だとしても。

 そう、レースでは必ず何かが起きる。


 発走時刻が迫って来たので、ぼくたちはスタンドへ出て、ゴール前の最前列に陣取った。最後の叩き合いが大迫力で観られるかぶりつきだ。ターフヴィジョンの大画面では、輪乗りを終えた馬たちが、ゲート前で今しも最後の体馴らしを終えようとしていた。

 スターターがリフト壇の頂上で赤い小旗を振り、ファンファーレが高らかに響き渡る。大歓声と雄叫びが一斉に沸き起こってスタンド中を埋め尽くす。奇数番号から枠入りが始まった。いよいよだ。偶数枠にも各馬が納まり、最後にオルフェーヴルも淡々と大外枠に納まる。

 ゲートが開き、全馬一斉にとび出した。一頭の出遅れもない。一団となってきれいに流れて行く。リッカロイヤルがスタートよくハナを取った。オルフェーヴルは 中団外側に付けている。そのまま馬なりに徐々に位置取りを上げて行く。5番手から4番手、さらに3番手へ。かかっているようには見えないが、少し前過ぎる気もする。400メートル付近で、レースが大きく動いた。昨年春の天皇賞馬ナムラクレセントが、中団から一気に先頭に躍り出て他馬に二、三馬身差をつけ、場内にどよめきが起る。スタンド前を過ぎ第1コーナーに向けてさらに水を開けた時、何とオルフェーヴルが馬群を脱け出してナムラクレセントに外側から馬体を合わせて競り掛けた。こんな位置取りは初めて見る。2コーナーからむこう正面へとそのまましばし併走し、遂に何とハナに立ってしまった。いくら何でもこれはどうなのか … 満場の視線を背負いながら直線をとばして行く。そして、3コーナーの手前に差し掛かかろうとしたその時だった。オルフェーヴルが突然コースをはずれた。鞍上あんじょう池添いけぞえが必死で手綱を絞り、オルフェーヴルは大きく口を割って首を上げると外の方向へ歩みを落して流れて行った。その脇を後続の他馬たちが3コーナーへと駆け抜けて行く。その場に居た誰もがオルフェーヴルに故障が起きたと確信した。こんな姿を誰が想像しただろう。だが … 、様子がおかしい。何とオルフェーヴルがまた走り出した。しばし当惑気味だった池添いけぞえ騎手が気を取り直し、再び本気で追い出すと、大き過ぎる遅れを物ともせず、信じられない猛追で一気に先行する馬群に取り付いて来た。怒涛の豪脚で4コーナーでは早くも五、六番手までまくり上げ、直線に向けて更に猛烈に叩き合って他馬を追い落としながらぼくたちの眼前をなだれ過ぎて行く。ターフビジョンを見上げると前にはもうギュスターヴクライしかいない。遂に半馬身まで詰め寄り、そして如何せん、そのままゴールとなった。オルフェーヴルは敗れ、レースは終った。いつもながらの勝ち馬への賞賛とは全く異なる尋常ならざる呻きがいつまでも場内にどよめき残っている。だが、ぼくはぞっとした。

 レース云々どころではない。1ー12ー6。

 身がすくむ。歓喜より恐怖を覚えた。3番人気、1番人気、5番人気と人気サイドでの決着ではあっても、絶対的大本命の逸走で荒れは必至だ。急いで携帯のオッズを呼び出す。185.9倍。100円が18590円になる。そして、120万だと …

  223,080,000 …

 ぼくは杉本くんを見た。全く分っていないようだ。他の観衆同様、上り3ハロン最速の驚異の追 い上げにただただ呆れているらしい。自分の馬券が来たことなど微塵も理解していない。

 心臓が頭の中でバクバク打っている。自分の体ではないようだ。彼にはまだ話せない。せめて彼に告げた時、杉本くんが丸ごとどこかに寄附しようなどとまだ馬鹿を言うようなら確実に思い止まらせることができるだけの冷静さがこの身に戻って来るまでは。ポケットの中で勝ち馬投票券入りの財布をじっとりと握り締め、ぼくは呼吸するのも忘れて着順掲示板の審議ランプを睨み続ける。審議が終り、赤ランプは青に変って確定した。


 だが、あの日の真のどんでん返しがオルフェーヴルの逸走にあったのか、杉本くんの2億2千余万にあったのか、あるいは最後に待ち受けていた一つの出来事にあったのか、ぼくにはよくわからない。

 興奮冷めやらぬスタンドの混雑を抜け出し、帰りの構内をよぎりかけた時、ぼくの瞳の端に、みやげ売り場の外れにひとつたたずむ小柄な娘の姿が宿された。ぬいぐるみやグッズを求める客たちの後から、心ここに在らずの態で見るともなく陳列棚を眺めている。ぼくの背筋を冷たい緊張が這い上がろうとした。だが、それより先に横山嬢が突然おもてを上げ、それと全く同時に杉本くんが顔を起して、互いを認め合った。それは瞬時の出来事で、こちらが身構えるいとまさえないほどだった。杉本くんが群衆の流れを突っ切って行く。釘付けになった彼女の体をしかと抱えるや、二つの体が烈しく抱きしめ合った。一言の言葉もなく、口もとを求め合う。深く重なり合った唇で二つの涙が混ざり合っていた。

「オルフェーヴルに賭けたの。旅行費用の30万。勝ったらあなたを赦すつもりで … 」

 ぼくはただ唖然とふたりの抱擁を見つめたままその場に立ち尽くしていた。

 二人まとめてあと脚で蹴り倒し、「勝手にしろ」とでも叫んでいたら、さぞかし胸がすいただろうに!


 時間とは得てして非情で残酷なものだが、ときには悲劇を喜劇へと変容させてもくれる。杉本くんはきょうもペットの世話と街頭デモに余念がなく、腕白オルフェーヴルも今や種牡馬として大活躍だ。そして2億2千万を杉本くんから元手に託されたルリカ嬢の両親は、実業家としてのその驚くべき商才を遺憾なく発揮して、今やホルモンチェーン店「マルゼンスキー」で年に何億だかの純益を上げているのだとか。だがオーナーたる杉本くん自身は経済活動には少しの興味もなく、万事を義理の両親に任せっきりだ。もし将来、横山夫妻が万一悪心を起して杉本くんに損害をあたえるようなことがあったとしても、彼があっさり諦めて赦してしまうだろうことは想像に難くない。さて、ルリカ嬢だが、彼女は16歳の頃から授業をさぼって園田そのだ姫路ひめじ競馬に通い詰めていた猛者もさであったことがあの再会事件後に発覚した。せいぜい重賞クラスの馬しか知らないぼくなどよりよほど万事に詳しい。だが、彼女のしとやかで思いやりに満ちた博愛主義を見れば、競馬がいかに健全なスポーツであるかが分るだろう。因みに、マルゼンスキーでは豚ホウデンは提供していない。


                             (終、っても良い)


  ※  2012年3月18日阪神大賞典

          https://www.youtube.com/watch?v=jL-yzAAEsE8

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