オルフェーヴル!

友未 哲俊

1.神戸肉仙

 何も知らない人が初めて杉本くんのことを聞いたらどう思うだろう?

 まだ、そんな歳でもないのに、神戸の閑静な山の手のはずれの、どこまでも木蓮の木立の続く和洋折衷のお屋敷に閑居していて、同居者と言えばボーダーコリーが一匹と猫が五匹だけ、天気のいい日には庭先で朝から一日中、嫌がる猫たちを洗濯したり、気が向けば愛犬と一緒に「ロシア軍帰れ!」の抗議デモに出かけて行ってみたりする。週に二度は超高級オーディオをまとった銀色に輝く三菱アイ ━ 本来なら外車かスポーツカーでも乗り回しそうなものだが、ブランドやエリート趣味よりマイペースを通すのが自由人たる彼のやり方なのだ ━ でドライブをめ込み、六甲の湖畔でシベリウスやディーリアスに耳を傾ける。そのまま何日も、犬猫もろとも、姿を眩ませてしまうこともある。妻と幼い子供たちと親たちの両親は、車で一時間ほどの芦屋の本邸で元気に遊び暮していて、その生活費も全て彼が賄っているそうだ。そのくせ、全く働いている気配がない。と、そんな噂を耳にしたら、誰だって胡乱うろんに思うに違いない。アーティストか何かだろうか?株かネットで稼いでいるのだろうか。それとも生れつきの資産家なのか。彼が、人好きのする性格で、普段から地元の人たちとも屈託なく言葉を交し合える無邪気な人柄でなかったら、もっと悪い憶測だって飛び交っていたはずだ。そんな人懐こさも、あるいは、ともするとこの世から遠く離れた別の世界へ彷徨さまよい出したがる視線を秘めたまっ黒な瞳も、決して見せかけの仮面などではなかったけれど、確かに口さがない世間の風当りから彼を護る防波堤になってくれてはいたのだろう。でも、もちろん、彼がこの有閑階級セレブ暮らしを手にいれることになったそもそもの発端は、2012年のあの酔いふざけの果ての馬鹿気た失恋騒ぎと、その三日後のオルフェーヴルにある。


 その日、まだ陽の残る夕刻まえから、ぼくは杉本くんと四つ年下のそのフィアンセ、ルリカ嬢のデートに無理やり付き合わされていた。ふたりが命がけで惚れ合っていることは傍目にも明らかだったので、ぼくとしては全く気の進まない役回りではあったのだけれど、焼肉をおごってやるからという甘言にのせられて、ついいて行くことにしてしまったのは持たざる者の悲しさというべきか。社会人一年目の一介の介護職員の身では焼き肉などそうそう自腹で食せるものではなかったし、一方の杉本くんはといえば、卒業後も週に三日、学生時代から続けている農作業のアルバイトに通うばかりで、あとは親に甘やかされて生きているだけの箱入り息子だったから、気兼ねなくお相伴に預かっても良いはずだった。

 杉本くんが、そんなみじめな相棒と幸せ一杯のフィアンセを連れて、まだ肌冷たい彼岸前の夕風のなかを辿り着いたのは、通称「もとこう」と呼び親しまれている元町もとまち高架下商店街から少し北に外れた坂の上にひっそりと隠れ建つ、「神戸肉仙」という一軒の老舗しにせだった。通にしか知られていない古い歴史のある名店ということで、もとより、ぼくもルリカ嬢も耳にしたことさえない場所だった。焼肉屋というより、料亭風の重厚な店構えで、いかにも敷居の高さを感じさせずにはおかないたたずまいだ。入ってみると、外観通りの落ち着いた造りで、席もゆったり取られており、椅子とテーブルにはどれも本物の巨きな切り株が自然のままの姿で使われていた。つやつやと黒光りしており、思わず気後れしてしまうほどの厳かさだ。だが、辺りの空気には、食べ物の匂いとは別に、建物全体からかもされて来る仄かなひのきの芳気が含まれていて、ふたりの新参者の緊張もすぐにほぐされて行った。入口近くの薄明るい壁面にはベッケンバウアーとイチローの色紙が額に収められている。

 まだ時間も早いせいか、客は向う奥の隅席に初老の二人組の姿があるだけだった。常連らしい。嫌な日本酒の匂いがしないのが下戸ぞろいのぼくたちにはありがたかった。席に着きテーブルの炭火を囲む。豊富なメニューも細部にこだわりの感じられるもので、種類ごとに肉の産地がしるされており、「時価」表記の一品も多い。

 食事の間中、恋人たちはひたすら、この週末に迫った旅行の話で盛り上がっていた。丸一週間、小笠原諸島を冒険して来るのだという。ふたりとも、いつも以上に上機嫌で、強くもないビールとワインで早くも出来上りかけていた。ルリカ嬢は去年高校を卒業したばかりのはずなのだが …

 彼女と会うのはこれでもう、七度目か八度目になる。一度は動物園、一度は遊園地にも付き合わされた。二人きりになるのが怖い杉本くんがデートのたびにぼくを呼ぶからだ。浮世離れした自由人のくせに、信じられないほどうぶなところのある我が友は、きっと二人きりになると襲われるとでも思っているらしい。それでいて会って二週間目には婚約してしまっていたのだから、未だに彼という相棒がよくわからない。幸い、ルリカ嬢は物静かで優しい人だった。二人になっても襲ってはこない。ちょっとした美人で、口もとにいつも人懐こい微笑みを湛えている所が彼と瓜二つだった。そして、口数こそ多くはなかったが、意外にお茶目だ。「優しさとユーモア、動物好き」学生時代、女性の好みが話題に上るたびに彼が繰り返し挙げていた三つの条件が見事に叶っていた。お互いにこれ以上の相手は望めまい。だが、今回、二人で旅行するということだから、彼もいよいよ覚悟を決めたのだろう。これでこちらもようやくお役御免だ。

 ふたりのおのろけ談義を受け流しながら、この機を逃せば多分一生ありつけそうにない高級肉の盛り合わせをもう一枚追加して、ぼくは心の中で、そう自分に祝杯を挙げていた。

「ルリちゃん、まだいける?」

 時計が七時を回ると、杉本くんが彼女に尋ねた。

「 … もう、ダメ」

 いつもはあんなに控えめで慎ましい彼女が、今は人目もはばからず、幸福そうに頬を彼の左肩に預けて安心しきっている。明らかに飲み過ぎだ。

「じゃあ、」突然何かを思いついて、杉本くんの顔がパッと輝いた。

「ぼくからの特別ボーナスで最後を〆めよう。この店ならではの絶品なんだ。脩五しゅうごも一生の思い出に試してごらん」

 そう言うと、彼はボタンを押してわざわざ給仕を呼び、とり澄ました呂律ろれつしめのひと品を注文した。見た目は変らなくても、彼が相当酔っていたのは間違いない。

 やって来たのは立杭たちくい焼の淡い黄土色の小皿が三つ、一皿にふた切れずつ小さな切り身が盛られている。

「まず一切れ、最初は刺身で、それから普通に焼いてタレで行くといい」

 馬刺しにしては赤味がない。牛か、豚か、鶏か、どの部位なのか、見た目ではわからない。杉本くんは如何にも美味そうに口に運んで見せた、「いけるよ、うん、やはり絶品だね」

 ぼくも、恐る恐る箸にとって味見する。

「 … 悪くはないが … 」

 ルリカ嬢も試してみる。

「白いレバーのような感じね。生のレバーは怖いけど … 」

「そう … 、やはり、初めてだと気になるか … 。でも、慣れるとやみつきになってしまうんだよ。じゃぁ、今度は焼いて食べてみて」

 焼きあげた肉きれを三人そろって口に含む。

「美味い!」

「美味しい!」

 思わず顔を見合わせる。サクサクと歯切れが良いのに、モッチリとなめらかな食感で、口いっぱいに芳ばしさが広がって来る。杉本くんは得意気に笑って頷いた。

「ね?豚のホウデンといって、この店のは最高なんだ」

「高いんでしょ?」

「いや、それほどじゃ。 … まぁ、値段の心配なんかぼくに任せて、二人は先に外で待っていて」

 席を立つ時、ルリカ嬢の足もとがひどくふらついた。

 それでも、彼がレジへ行き清算している間中、彼女は店内に踏み留まり、ぼくの隣から、後学のためにと一緒に耳をそばだてていた。だが、杉本くんはカード払いにしてしまったので、結局、お愛想額はわからず終いとなった。

 店を出ると夜風が頬に気持いい。


 炭火で火照った頬と手に、ひんやりと夜風が心地良い。

「ごちそうさま。さっきの … 、えっと … ?」

 ルリカ嬢がふと呟く。

「ホウデン?」

「えぇ、おいしかったわ。どの部分なの?」

「精巣」

 杉本君がしたり顔でルリカ嬢を見た。

「豚の睾丸さ」

「!」

 瞬間、空気が凍り付いた。ルリカ嬢の顔が見る間に血の気を失って行く。

 が、彼はまだ気づいていない。

「驚いた!?」

 得意気にそう笑いかけた瞬間、彼女がいきなり近くの塀によろめき掛かり、身体を二つにくずおった。

 呆然と立ち尽くした杉本君が、我に返って駆け寄って行く。覗くと、夜目にも顔が真っ青だ。

「大丈夫 … ?」

 肩に触れかけた彼の手を振り払い、ルリカ嬢が猛烈にあげ戻しはじめた。驚いて背中をさすろうと杉本君が手を伸ばすたび、乱暴に身をよじって拒絶する。額には冷や汗の玉が浮き出し、苦しみのあまり涙まで滲んでいた。

 その場で唯一素面しらふだったぼくが慌てて自販機を捜し当て、水を買い戻って来てみると、地べたに尻もちをつかされた彼をしり目に、ルリカ嬢の後姿が、横付けされたタクシーのなかに亡霊さながら消えて行く所だった。


 帰り途、ぼくたちは一言もしゃべらなかった。

 ぼくの方は怒りの言葉や ━ ぼくだって吐きそうだ ━ 、いさめの説教や、取り繕ってやりたい台詞が心に渦巻いていて、どれを口にして良いものか分らなかったし、彼はただただ呆然としていた。酔いなどすっかり吹き飛んでいる。そして、なぜかこれで終りだと悟っていた。

「せめて最後に謝っておこう」

 芦屋の家に帰り着くなり、彼は携帯を取り出して彼女に電話した。

「なぜ最後だなんて思うんだい?」

 耳に押し当てたまま虚しく応答を待つ彼に、ぼくは苦笑させられた。

 10回ほどコールして、電話が自動的に切れる。

「普通、赦してくれるさ」

 彼は無言のままメールを打ちはじめる。

  ”ゴメン。大丈夫?”

「彼女だって子供じゃないんだし … 」

「君には何もわかっちゃいない」

 彼がかぶりを大きく振って悲し気にため息をく。

「終りだよ。お終いさ」

 ? そうなのだろうか … ?彼があまりにもはっきり言い切ったので、ぼくは少し戸惑う。ふたりの間にはふたりにしか分らない直観があるのかもしれない。子供じみた悪ふざけとはいえ、一事が万事ということもある。赦せなくなる者もないとは言えない。実際、世の中には全く何の意味もない、つまらない別れ方をする者や、命の落し方をする者だってあるではないか。

 15分後、彼が二度目の電話をすると、着信拒否になっていた。

「 … 生きている証拠だと思ってやるんだね。明日、仕事が終ったらまた寄るから」

 言い遺してぼくは退散する。

 彼は稀にみる一途な人間だ。傷は恐ろしく深いに違いない。妙な騒ぎでも引き起こさないかと心がざわついた。二人は確かに命がけで恋していたのだ。

 自宅のアパートに着いたとき、ぼくは疲れ果てていた。服を脱いでそのまま万年床のベッドに沈む。夢の中で、実際の二人とは似ても似つかないおぞましい姿に化身した杉本くんとフィアンセは、夜通し、庶民的な怒りのたけをぶつけ合い、口を極めて罵り合っていた ━  


 フィアンセ: 「ギ、ギェ~ッ!!!」

 杉本くん : 「 ⁉ 」

 フィアンセ: 「こ、この生娘きむすめに何を食わせたんじゃ !! オ、オェ ―

         ッ … 」

 杉本くん : 「そやかて美味い言うとったやないか ⁉ 」

 フィアンセ: 「オェ ― ッ、オェ ― ッ … 」

 杉本くん : 「吐くな!もったいない。鮭の白子やったら平気で食うくせに!」

 フィアンセ: 「アホこけ!白子となま金玉じゃ、あんことチンコくらいちゃうわ

         い!婦女暴行じゃ!」

 杉本くん : 「生娘きむすめがチンコ言うな!」

 フィアンセ: 「じゃかぁしい!わたしの乙女を還せ!」

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