真冬の水田

ハヤシダノリカズ

真冬の水田

氷上ひかみって苗字はさ。氷って漢字の字面で冷たい印象を与えてしまうし、ひがみって言葉と語感も似てるから、そこで損をしないように、温子あつこって名前にしたんだよ」

 お父さんがいつだったか、そんな事を言っていた。家族団欒の夕飯時に、ほろよいで、お父さんはそう言ってた。どんな流れでそんな話になったんだっけ。『温子って古臭くてダサいよ。エレナとかそんな名前が良かった』みたいな事を私が言ったんだっけ。お母さんが『温子がお婆ちゃんになった時、温子お婆ちゃんならなんて事ないけど、エレナお婆ちゃんだとなんか変な感じでしょ。地味な名前が一番よ』なんて言っていた気もする。

「それにさ、スマップとか嵐なんて名前も、最初出てきた時は『は?なにその名前。ダッサ』と思ったんだよ、お父さんもお母さんも。でも、今では堂々たる名前だろ?スマップも嵐も。名前ってのは親が子に贈る事が出来る最大のプレゼントかも知れないけど、その名前を堂々としたブランドに仕立て上げるのはその子自身で、その子自身にしか出来ない事なんだよ。どんな名前でも、その名前を輝かせるのは自分。自分次第で名前ってのはカッコよくなっていくのさ」ほろよいのお父さんは確か、そう言ってたけど、スマップも嵐も私にとっては有名なオジサン集団でしかないし、今一つピンと来なかった。なんとなく、言いたい事は分かった気がしたけど。『それじゃ、氷とか僻みに似た語感でも、温子じゃなくても、私が頑張ったら良い印象を持って貰えるって事じゃん』みたいな反論をしたら、『ま、あれだ。気持ちの優しい温かい子になって欲しかったんだよ。お父さんもお母さんも』なんて笑ってたっけ。ホットプレートの上でお好み焼きをひっくり返しながら、お父さんはそんな事を言っていた。


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 そんな事を思い出させてくれたのは、恋人代行サービスのキャスト専用ページにログインした時に目に飛び込んできた【田ノ下徹たのしたとおる】という名前だった。

 ちょっとしたお小遣い稼ぎにと、恋人代行サービスのお仕事を初めてもうすぐ三か月。今までのお客さんはみんな大人しくていかにもモテなさそうな、でも、決して暴力的ではない、性風俗サービスと勘違いもしないお客さんばかりだった。たぶん、私はラッキーな方なんだと思う。イヤな思いを今のところ、していない。『イヤな思いをするとすれば、お客さんが知り合いだった時かな』とは思っていたけど、この田ノ下徹って、あの田ノ下くん? まさか、そんな訳ないよね。でも、田ノ下って苗字はそれほど多い苗字じゃないし、あの田ノ下くんである可能性がかなり高い。


 高校時代に同じクラスだった田ノ下くん。私が氷の上、田ノ下くんが田んぼの下という対比が面白いなと思った事がキッカケで、なんとはなしに田ノ下くんの事を気にする事が多かった。

 氷の上の温かい子で、氷上温子。田んぼの下の冷徹な人で、田ノ下徹。田ノ下くんの名前に冷という漢字は入ってないけど、常に冷静に振る舞う田ノ下くんは、私の中では【田んぼの下の冷徹】であった。徹という字が冷の字と常にセットである訳はないんだけど、酔ってはいい加減な事ばかり言うお父さんと、いつもお父さんに合わせてコロコロと笑うお母さんの影響なのか、氷の上の温かい子である私は、いつも冷静な田ノ下くんを冷徹と定めてしまっていた。


 そんな冷静な田ノ下くんは、女子とも普通に話をするタイプだったし、勉強も運動もそつなくこなしていたし、男友達も少なくなさそうだったし、背も高く、顔もしょうゆ顔のイケメンだった。

 そんな田ノ下くんが、恋人代行サービスを利用する? そして、なんで、私を指名したんだろ。結衣ゆいという源氏名の私のプロフ写真は、普段の私とは印象が異なるようにとメイクもファッションもそう意識して撮ってもらったけど、気付かずにタップしたのだろうか。それとも、こんなバイトをしている高校時代のクラスメイトを冷やかす目的で、だろうか。いやいや、田ノ下くんはそんなタイプじゃない。


 じゃあ、なんで?


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「結衣です。待たせちゃってごめんね」お仕事の定例句を田ノ下くんに投げかける事になるとは。苗字の珍しさで、九割がたあの田ノ下くんだと思って来てみたら、やっぱりあの田ノ下くんで、自分で発したその言葉に怖気おぞけが走る。芝居がかった馴れ馴れしさを同窓生に向けるなんて。

「今日はありがとうございます。田ノ下です。よろしくお願いします。」デートの待ち合わせのメッカみたいなこんな所で、よそよそしく頭を下げた田ノ下くんはあの頃より少しだけ大人びたように見えたけど、そんなトコロはあの頃とまるで変ってない。

「えっと、私が誰だか、本当に分かってない感じ?」

「え?結衣さん、ですよね。何を言ってるんですか?」

「田ノ下徹くん、私、高校のクラスメイトだった氷上温子。結衣は源氏名。氷上温子、覚えてない?」

「え?……。……、あ、あぁ!氷上さん!まさか、そんな事があるなんて……」

 田ノ下くんのその言葉からは、本当に私の事を思い出してくれたのか、高校時代の私を何かで意識してくれた事などあったのかどうか、失礼の無いように調子を合わせて思い出したフリをしてくれているのかは分からない。田ノ下くんは高校時代、他人を不快にさせる言動をまるでしない人だった。

「もしも、わたくし結衣こと、氷上温子がお気に召さなければ、キャンセルも出来ますが、どうします?」少しだけ茶目っ気を含ませて、私は田ノ下くんにそう言った。私にもお客さんを選ぶ権利があるように、田ノ下くんにもキャストを選ぶ自由がある。

「んー。なんか、変な感じだけど、氷上さん、じゃなかった、結衣さんさえ良ければ、ケーキでも食べに行きませんか?」

「喜んで!」高校時代になんとなく気になっていた男子、そして、ケーキ。私は本心からの返事をした。


 田ノ下くんがなぜ恋人代行サービスを利用しているのか。もしくは初めての利用なのか。普通に恋人くらい作れそうな田ノ下くんが恋人代行サービスで私を指名したのは何か理由があるのか。私と気づかずに指名したのか。そもそも私という存在など田ノ下くんの頭の中には無かったのか。これらの謎を解明するミッションがいよいよ始まる。


 そもそも私という存在など田ノ下くんの頭の中には無かった、という結末だけは避けたいものだ。


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「田ノ下くんって、高校時代もモテそうだったし、今もモテるだろうにって思っちゃうのに、なんで?」イチゴのタルトとロールケーキ……運ばれてきた【選べるケーキ二種盛りプレート】と、向かいに座っている田ノ下くんを交互に眺めながら私は訊ねた。気分だけは、両親の趣味に付き合わされて何度も見た古畑任三郎だ。とぼけた雰囲気で、でも、時には直球で犯人に切り込んでいくあの話術を思い出す。田ノ下くんは犯人じゃないし、私は刑事でも探偵でもないけど。田ノ下くん、キミはどうして恋人代行サービスなんてモノに手を出したんだい?

「モテた事なんてないよ。少し長くなるけど話を聞いてくれるかな? もちろん、ケーキを食べながらでいいから」そう前置きをして話し始めた田ノ下くんの話は確かに長かった。


 年の離れた田ノ下くんのお兄さんは以前、「女ってのは、美しく愛おしいと男に思わせるのが上手なだけの魔物だ。中身は合理と利己と欲にまみれた醜いバケモノさ」と田ノ下くんにこぼしたらしい。流石は年長者、慧眼というか、オンナという生き物を看破してる。私にもそんな友達が数人いる。

 田ノ下くんには年の離れたお姉さんもいるらしく、お姉さんはお姉さんで田ノ下くんに「人間が小さい男ばかりでイヤになる。自分の小ささを棚に上げて、女を見下す男が如何に多いかって事を学校で教えるのも大事だろうに、なんて思っちゃうわ」なんて言っていたらしい。お姉さんの言葉も分からなくはない。でも、実感としてそれを知る機会は今までの私の人生にはなかった。多分、私は幸運な方なんだろう。

 また、田ノ下くんはバイト帰りの電車内なんかで聞こえて来た買春とか売春を匂わせる男同士の会話や女同士の会話の中に、それぞれ、異性へのリスペクトがない事を言った。キャスト専用ページの中の情報共有掲示板には、時折、客に強引にホテルへ連れ込もうとされたなんて報告が上っている。私にはそんな経験はないけど、確かに異性へのリスペクトがないがしろになっている人って一定数いそうだ。

「好きとか嫌いとかそういうのがよく分からなくってさ。そんな話が出来る女の子がいたらいいなと思って、勇気を出して申し込んでみたら、まさか、氷上さんが来るとは思わなかった」田ノ下くんはそう言って、長い話に一区切りをつけた。そっか、恋人代行サービスの利用は初めてだったんだ。やっぱりね。


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 女性に興味はあるけど、仲良くなるにはどうしたらいいかが分からない、という動機でこのサービスを利用する人は多い。言わば練習台だ。ごく稀に、親を安心させたいから恋人のフリをしてくれという依頼もあるらしいが、私はまだそんなお客さんと出会った事はない。でも、田ノ下くんのこの動機はそれよりもレアケースかも知れない。一方的な話を聞いてもらうには、話を聞く側になんらかのメリットが無いとフェアじゃない……みたいなニュアンスを田ノ下くんの言から私が感じ取ったのは考え過ぎだろうか。『悩み相談みたいな独白に付き合わせるのは申し訳ない』みたいな気持ちが友達に対してある――高校時代の田ノ下くんの生き様はそんな感じじゃなかっただろうか。私は軽い雰囲気を意識しながら、努めて明るく、田ノ下くんから話を引き出す。


「かわいいとかかわいくないとかも今一つピンとこないんだよ。僕がひか……いや、結衣さんを指名したのも、キャストのページを適当にスクロールした時にマウスポインタが結衣さんの上にあったからってだけだったし」と、田ノ下くんは言った。うん、私と気づいて選んだ訳じゃなかったし、私の写真をかわいいと思ってくれた訳じゃないんだ。半分ホッとしたけど、半分落ち込む。

「コラ。こういう時は嘘でも『可愛く撮れてたよ』とか『可愛かったから指名した』って言わなきゃダメ。あ、それから、別に氷上って呼んでくれてもいいよ」と、茶化したけども。


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 当初のミッションは果たした。田ノ下くんは田ノ下くんのままだったし、私と気づかずに指名したし、初めての利用だったし、たぶん、私の事を覚えてはくれている……ハズ、だし。

 でも、新たなミッションが生まれた。田ノ下くんの『好きとか嫌いが分からないという感覚』を知りたいし、田ノ下くんがおそらく求めている【自らで辿り着く答え】の一助となりたい。

 私は恋人代行サービスとしての時間を終える事と、この後は普通のデートにする事を提案した。田ノ下くんはそれを了承したけど、ケーキと紅茶の代金は受け取ってくれなかった。ご馳走様です。


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 私たちは二人で並んで休日の街を歩く。誰が見ても、ごく普通のカップルのデートにしか見えないだろう。高校時代のクラスメイトに見られたら、ちょっとだけ説明のしづらい状況ではあるのだけれど。


「田ノ下くんは恋をした事もないの?」

「どうなんだろう?幼稚園児の頃には同じ園児の子や先生に好意は抱いていたけど、あれは恋ではないだろうしね」

「ふーん……。お兄さんとお姉さんの話は聞いたけど、他の兄弟は?」

「兄が一人、姉が一人の末っ子だよ」

「じゃあ、ご両親は仲いい?」

 街を歩きながら、私たちは話していた。田ノ下くんが求めているのが、自分の中の閉じられた恋愛観をどうにかしたいって事なら、田ノ下くんのこれまでや、田ノ下くんを取り巻く環境を先ずは知らなきゃと質問をしていたら、田ノ下くんは私のこの質問で一瞬黙って、「どうだろう。長いこと、父さんと母さんの笑顔を見ていない気がする」と答えた。


 私のお父さんとお母さんはいつも冗談ばかり言っている。笑顔の印象しかないくらいだ。だけど、田ノ下くんはご両親の笑顔を長く見ていないと言う。年の離れたお兄さんとお姉さん。彼らが働き出すのと同時に家を出たのだとしたら。そして、笑顔を見せない両親と暮らす中で残された田ノ下少年はどう感じていたのだろう。ご両親の仲が冷え切っていて、それでも、その庇護下でしか生きられない田ノ下少年はどう考えたのだろう。そこには、真冬の床のその冷たさが裸足の足元から上がってくるような悲しみがあるような気がする。


「間違っていたら、ごめんね。田ノ下くんって、高校時代の教室の中でも、ほとんど感情を見せた事がなかったように思う。その場を上手く調整するような立ち回りをしていたような印象なんだけど、そこに自分の感情を乗せない感じだった。もしかしたら、お家の中でも、そんな感じだったりしない?」私は田ノ下くんの方を見ず、真っすぐ前を向きながらそう言った。

 酷い事言っちゃったかな、と思いながら田ノ下くんの方を見るとそこに姿はない。振り返ると道の真ん中に田ノ下くんは立っている。私は田ノ下くんの元に戻って立った。どこにも焦点を合わせていない目の奥で彼は今、いったい何を考えているのだろう。何を思い出しているのだろう。お父さんとお母さんの笑顔をまるで見る事が出来ないって辛いよね。辛かったよね。

「いい子でい続けなくたって、いいんだよ。たまには思いっきり怒ってもいいんだよ」私は彼の目の奥に向かって話しかけた。

 すると、その目から涙が溢れ出てきた。彼はそれに気づいていないのか微動だにせず涙を流し続けている。私は慌ててハンカチを出して「辛かったんだね。たくさん我慢してきたんだね」と、その涙を拭う。


 彼がずっと冷静でいたのは、泣いちゃダメだと頑張ってきたからなのかも知れない。ありのままの自分をさらけ出すにはその足元が不安定過ぎたんだ。だから、恋どころじゃなかった。でも、ご両親を責める事を思いつきもしない優しさが彼を苦しめたんだ。たぶん、きっと。

 そして、お兄さんやお姉さんの言葉や電車で耳に入ってきた言葉こそが、自分の恋愛観を歪ませているだなんて思っていたのかも知れない。一番近くて、一番大きな恋愛の見本である両親の事に思いを馳せる事を思いつきもしなかったんだ。それこそが一番の原因だなんてまるで思わずに、一所懸命、どんな場所でも調整役のような役回りを、彼はずっとしてきたんだ。


「ありがとう」と、田ノ下くんはボロボロの涙声で言った。


 小さい頃に母方の田舎の田んぼに裸足で入った事を思い出す。春の田植えの時期だ。あのぬかるみの不安定さと足元の冷たさはちょっと汗ばむ春だからいいんだ。田ノ下くんの心はずっと真冬の水田に立っているようなものだったのかも知れない。それはきっと、とても辛かったんだろう。


 目の前の彼がとても愛おしい。でも、抱きつく事をグッと我慢して、

「どういたしまして」と、私は言った。

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