朱を奪う紫

すきま讚魚

朱紫のつつじ花

 厭離穢土おんりえど 欣求浄土ごんぐじょうどと云いませど

 地獄にて誰をしるべといたしましょう。


 六道能化ろくどうのうげ、その者地蔵菩薩と云ふそうな。




 今は昔のさらなる昔。

 

 六道輪廻の最下層に地獄と云ふ場所がありました。


 其処は生前、罪を犯した者どもが、七日ごとに行われる十王の審判の果てに堕とされる場所です。罪の重さにて其処から更に落ちる地獄が選別され、永きに渡る責め苦を受けるのです。


 さて、その地獄には罰を与える鬼——獄卒と呼ばれる者たちが。


 鬼には色がありました。

 人の世にも正色とされる五色が在りますが、鬼の色とはまさに其れと同じ。

 地獄には五色それぞれの色を持った鬼がおり、それぞれの持ち場にて慈悲なき罰を与えることが役目でした。


 鬼の五色を五蓋ごがいと云います。

 是れは心を縛る五つの煩悩、それぞれの色を体現したものとも云われておるのです。


 ひとつ、赤は貪欲とんよく

 すなわち欲望や渇望を意味する色です。


 ひとつ、青とは瞋恚しんに

 すなわち、悪意や憎しみ、怒りや敵意の象徴とも。


 ひとつ、黄または白は掉挙じょうこ悪作おさ

 心の浮動、後悔や我執の象徴とされ。


 ひとつ、緑は惛沈こんちん睡眠すいめん

 怠惰や過食、不真面目不健康さを表しており。


 ひとつ、黒はとされ。

 疑心や愚痴、信頼の欠如を示しております。


 鬼たちは其々の抱える五つの煩悩の色のもと、地獄にて罪人の裁きを行なっておりました。




 この六道の世界を、一切の衆生を救うべく全て巡り、未だ仏の身分とならぬ菩薩さまがおりました。

 その名を地蔵菩薩と申します。



 ある時、地獄のさらなる再下層。無間地獄より鬼たちの叫び声が上がりました。


 聞けば、灼熱の釜より見たこともない鬼が生まれたと。


 獄卒とて鬼子母神より生まれしもの、鬼として陰や澱みより生じしもの、様々なものがおりましたが、どうやら聞くに是れがまた物凄く醜い化け物だと云ふのです。


 鬼たちは、躍起になって生まれて間もないその鬼を殺そうとしました。

 自分たちに理解のできぬ存在が、彼らでさえ恐ろしくてたまらなかったからです。


 その有様はまさにその名の如く阿鼻叫喚、打ち、突き、刺し、灼き……あらゆる責め苦を与えども、この鬼はひとつも泣き声をあげませんでした。


 地獄の十王も前代未聞の報告に頭を抱え、「死者以外の審判は本分にあらず」と閻魔大王へと一任してしまいます。


 ただでさえ、人の嘆き苦しみの漂う地獄の中です。

 鬼どもの罵詈雑言は聞くに絶えず、とうとう六道を巡っておった地蔵菩薩の耳にもそれが届いてまいりました。


「地蔵菩薩さま、このような場所に来てはなりませぬ」

「あのようなもの、触れてはなりません。穢れてしまいます」

「とてつもなく悍ましいのです。毒を飲ませどひと言も発しませぬ」


 鬼たちは口々にそう云い、止めましたが。地蔵菩薩は血の滴り、焼け焦げるような地獄の中を進んでゆきます。


 其処には、焼け石に磔にされたままの小さな鬼がおりました。


「罪人に刑罰を与える皆さまに問いましょう。此の者に、責め苦を与えるほどの生まれ持った罪とはなんでしょうか?」


 地蔵菩薩はそう仰います。


「それはもう」「見ればお分かりになるでしょう」

「きっと親の腹を食い破って出て来たに違いない」

「毒の虫すら効きませぬ」


 鬼たちは恐怖の表情で、我も我もと口々に地蔵菩薩へと訴えました。


 そう。小さな鬼は、それはそれは見たこともないような赤紫の色をしておったのです。

 是れは五蓋の色、正色のそれからは外れてしまう存在でもありました。生まれ持って五色に与えられる武具も持っておりません。果たして鬼かどうかすら……と、鬼たちはこの小さな鬼を恐れ、蔑んでおったのです。


 はて、と地蔵菩薩は首を傾げました。

 小さな鬼は、その白と紅紫の混ざったような不思議な瞳で、きっと確かな意思で己の方を睨めつけております。


「では皆のものは、この鬼の生まれ持った紫が罪と……そう仰るのですね」


 地蔵菩薩の言葉に、鬼たちは口々に同意します。

 もうよいです、と手で制し。地蔵菩薩はそのまま磔にされたままの鬼へと近づきました。


「……貴方はどうしたいですか?」

「……遠くまで疾っていきたい」


 ひと言、そう鬼は答えたそうです。


 おや? と少しばかり首を傾げた地蔵菩薩は。

 わかりました、と静かに微笑みました。


「この鬼は、私が然るべき場所にて育てましょう」


 そう云ふなり、地蔵菩薩は鬼の拘束を解くと、御衣みごろもの袖で包むと抱き上げました。


「聞けばただ地獄の沙汰も色なれや、と。ここは罪を裁く場所。生まれの色が原罪となり得るとは——責め苦を所業とする鬼に罪はなけれども、少しばかり悲しいことですね」


 鬼たちは何やら口々に叫びますが、地蔵菩薩はすうと昇ってゆくのでした。




「もういいですよ」


 地獄の層を上がりながら、地蔵菩薩は手に抱いた鬼に話しかけました。


「貴方が遠くまで疾りたいのは、それが理由ですか」


 わからない、と鬼は首を振ります。

 その懐には小さな毒蜘蛛がひとつ、息絶えておりました。


「俺を殺すためだけに、こいつが死んだ。遠く、静かな生まれた山に行きたいって云ってた」

「そうですか」


 腹が減った、と自らの腕を噛む鬼を、地蔵菩薩はそっと揺すってなだめます。


「飢餓の中で、貴方はその蜘蛛を食べようとは思わなかったのですね。自由になっても、他の鬼たちを傷つけようとは思っていなかった」

「そんな事ねぇ、絶対あいつらぶっ殺してやるって、そう……思ってたけど」


 だって、と鬼は俯きました。


「鬼は……泣いてはいけません。無慈悲に罰を与え、その行いで人々が次の輪廻へと向かう秤を正しておるのです。貴方は、鬼に成ることができますか?」


「できる」そうひと言、小さな鬼は答えたそうです。




 赤紫色の不思議な鬼は、生まれつき武具を持っていませんでした。

 けれども彼は、誰よりも疾く強いその脚と、どんな毒をも喰らう力がありました。


「五億と七千六百万年、しっかりと鬼のつとめをし、学び、地獄のことわりを知りなさい」

「……なんで俺っちがンな事する必要あんだよ」

「全てに救いがあれと、私が祈り願うからですよ」


 地蔵菩薩は悟りを開かず、六道を巡り。一切の衆生を救い歩くと云われております。

 悟り、自らが仏となった後に。閻魔大王の補佐……もしくは後継として、苦しみ悲しみを知る異端の鬼を救い育てたとか、そうでないとか。



「貴方の赤紫色は、決して疎まれるものではないのですよ。生まれは罪にあらず、其れはその後の行いにより咎にも善にもなりましょう。此処からは貴方自身で自分の矜持を掴みなさい。いいですか、貴方は鬼と成るのです」



 賽の河原には、不思議な不思議な赤紫の色をした鬼がおりました。

 彼は誰より疾く、河原にいでて。慈悲なく、子らの石塔を崩すのです。

 他の鬼どもは、彼に一目置いておりました。どうしたとて、誰ひとりその鬼には勝てぬからです。

 けれど、その鬼がいつから居て、どこからやってきたのか……誰も知らぬと云ふのです。




 今は昔のさらなる昔。


 無限のような暗闇から出でし刻、地蔵菩薩は小さな鬼にこう語りかけたと云います。


「鬼は名を明かしてはなりません……この約束は永いときの中、必ずや守るように。そうですね、貴方の名はその色と——脚が止まらぬようにと願いを込めて」


 ——躑躅つつじ


 決して疎まれる色ではなきものと。風そよぐ遠い山野のつつじ花より、貴方を躑躅と名付けましょう。

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