レイジロアー

棗颯介

レイジロアー

 小さな頃、節分の日に鬼のお面を作ったことがあった。“みんなが追い払いたいと思う鬼の顔を描きましょう”と、幼稚園の先生に言われて。

 俺が描いたのは、“おこりんぼ”の鬼だった。

 今年で十八歳になるが、効き目を感じたことはない。


「………」


 高校の廊下に取り付けられた時計の針は、十時四十五分を指している。とっくに二限目の授業が始まっている時間だ。すぐ傍にある二年生の教室からは教師の声以外ここまで届かない。皆静かに、真面目に授業を受けているのだろう。どうして俺もそうすることができないのだろうと、やり場のない虚しさを覚えた。

 俺だって別にサボりたくて授業をサボっているわけじゃない。高校卒業後の進路について何も考えていないわけじゃないし、成績だって落ちないよう気を付けている。

 俺は悪くない。何も。

 そう自分を納得させ、抱えていた数学の教科書と筆記具を落とさないようしっかりと持ち直した。


 ———資料室か。


 どこか一人で静かに過ごせる場所をと校内を彷徨っていたが、ここはありかもしれないと思った。この学校に通って曲がりなりにも三年目だが、今日こうして通りかかるまで存在すら知らなかった教室だ。きっと図書室と違って普段学生に一般開放されているわけでもないのだろう。ただそうなると、扉に鍵がかかっていないかという問題が生じるのだが。

 あまり期待せず引き戸に手をかけたが、予想とは裏腹にあっさりと扉は開いた。資料室という言葉の響きから、てっきり年季を感じさせる黴臭い匂いと共に大量の本棚や積み上げられた古い辞書なんかに出迎えられるものと思っていたが、代わりに俺の視界に映ったのは、見慣れた制服に袖を通した一人の女生徒だった。


「………?」


 目が合った。一人で使うには明らかに面積が広い机に座り、手元には何やら教科書やノートを広げているらしかった。一瞬茶髪に見えたが、おそらく染めているわけではないだろう。資料室の中は日当たりが良いようで存外明るい。女生徒の背後にある窓から差し込む日光に当てられてそう見えるだけだ。


「あっ」


 先客がいるとは思わなかったからか、マヌケな声が口から洩れてしまう。居心地の悪さを感じ、慌てて扉を閉めようとしたとき。


「どうぞ」

「え?」

「自習に来られたんじゃないんですか?」


 女生徒は俺が抱えていた筆記具を見る。


「いや、なんかよく分からないけど邪魔しちゃ悪いし」

「気にしなくていいですよ。私も同じですから」

「今の時間って授業中だろ?自習するにしても教室でやらなくていいのか?」

「それ、あなたも一緒じゃないんですか?」


 クスクスと笑いながら女生徒はそう言った。


「まあ、そう言われたら返す言葉はねぇんだけど」

「机も一人で使うには広すぎると思ってたので。椅子も沢山余ってますよ」

「んじゃまぁ、お言葉に甘えて……」


 本当は一人でいる方が心置きなく過ごせるのだが、こっちから入ってきた手前断るのもどこか気が引けた。

 それに、面識はないがこの女生徒なら大丈夫そうだった。


「失礼します」

「どうぞ」


 女生徒と少し距離を空けて椅子に座り、持ってきた教科書を開いた。今自分の教室で行われている数学の授業の進捗がどの程度かは分からないが、とりあえず学期末のテストの出題範囲は抑えておかなければならない。

 当分、授業に出ることはできないだろうから。

 しばらくの間、俺は教科書に目を移しながら演習問題をノートで解いていたのだが。


「げ」


 シャーペンの芯が切れた。しかも替えももうない。購買に行けば売っているだろうが、さすがに授業中に堂々と顔を出すわけにもいかないだろう。諦めてボールペンを使うかと思い筆箱に手を伸ばした時。


「使いますか?」

「え?」

「シャーペンの芯、切れたんじゃないんですか?」

 

 見ると少し離れて座っていた彼女がこちらにシャーペン芯のケースを寄越していた。心なしか表情が少しだけ柔らかくなっているように見える。


「あぁ、すいません。あざす」

「いいえ。………あの」

「はい?」

「いや、授業サボってるのに自習するって、面白い人だなと思って」

「そっちも同じようなもんじゃないの?」


 口ではそう言ったが、正直なところこの女生徒は怠惰で授業を抜けるタイプではないだろうとも思っていた。会ってまだ十数分しか経っていないし名前も知らないが、なんとなく雰囲気でだ。

 であるなら、彼女が教室を出てここに居るのは別の理由だろう。おそらくは—――。


「私はちょっと、クラスに顔を出すのが気まずくて」

「こういうの、聞いていいか分からないんだけど、もしかしてあれ?所謂……」

「保健室登校みたいなものですね、えへへ」

「なるほど資料室登校ね。新しいな」


 予想通りだった。パッと見は普通の生徒に見えるが、まぁ本人にしか与り知らない悩みや不安があるのだろう。


「俺と同じ学年だよな、その制服のリボンの色」

「はい、所属は三年三組です」

「じゃクラスだけが違うのか。俺は一組」

「ふふっ」

「?なんか変なこと言ったか?」

「いえ、お互い名前より先にクラスから言ってるのが変だなと思って」

「あぁ、そう言われればそうか。俺は浅倉壮馬あさくらそうま

「私、長森可憐ながもりかれんです。よろしく」

「あぁ」

「それで、なんで浅倉さんはここに?」

「ちょっと、前に数学の教師と一悶着あってさ。居心地悪いから抜け出してきた。そういう意味じゃ長森と同じだな」

「そうなんですか。相性が合わない人がいるのは仕方ないですね」

「そういうこと」


 おそらく長森は資料室登校で他の生徒との接触もないから知らないのだろう。実際は一悶着という言葉で片付くトラブルではなかったこと。俺が、教師に手をあげてしまったことも。


▼▼▼


「てめぇ今、なんつったぁぁぁぁっ!!!!!!!!」


 いつもそうだった。気付いた時には手遅れ。車で人を撥ねた後にブレーキを踏んだって意味がないのと同じ。いつもそうなると俺は我を忘れてしまう。今回は、自分の座っていた机を持ち上げて盛大に教壇に投げつけていた。歪に黒板が凹み、傍には肩を抑えて蹲る教師の姿。

 きっかけは今にして思えば些細だった。数学の授業中に当てられて答えた解答が間違っていて、それを教師にからかわれたこと。本人はクラスの空気を和ませるくらいの気持ちで言ったのかもしれないが、生来超がつくほど短気な俺には、それが許せなかった。

 物心ついたときから俺はそうだった。怒りの感情を抑えられない。些細なことですぐキレる。気付いた時には大抵誰かを傷つけていて、その度に周囲の怯える視線が突き刺さる。喧嘩が趣味というわけでもないのに知らない相手に因縁をつけられて、安い挑発に乗って返り討ちにしているうちに、高校に上がる頃には俺の周りには誰も寄り付かないようになっていた。


 この世界では、成人を迎えた大人、つまり二十歳を超えた人間が“怒り”の感情を表に出すことは禁忌とされている。法律や人道の話ではなく、単純に、“そうすると死んでしまうから”。ずっと昔に、いつの頃からかそういうことが当たり前の世界になってしまったらしい。昔は『人体自然発火』現象なんてものがたまにあったらしいが、これはそういう科学的な理屈では説明がつかない現象だ。誰に対しても、誰もいない場所であっても、匿名のSNSの書き込みでも、どんな些細な理由でも、怒りに起因する言動・行動を起こせば成人はたちまち青い炎に包まれ骨まで焼き尽くされる。

 俺は今年で十八歳になる。つまり、怒りの感情を発露することが許されるのはあと二年少々。世間的に十八にもなればこの世界の理不尽な仕組みについても理解と咀嚼ができていなければならない年頃だ。現にこの学校で暴力沙汰やトラブルを起こす生徒は俺くらい。周りは問題児と関わって余計な火の粉に見舞われるのが嫌なのか、それとも更生の見込みのない癇癪玉のことを憐れんでいるのか。きっと両方だろう。

 自分の中に突然際限なく湧いてくる怒りの感情とどう付き合っていくか。タイムリミットが迫っているが、いまだに俺は掴めずにいる。


▲▲▲


 二限目の授業の終りを告げるチャイムが鳴った。つまり、この資料室に引き篭もっている理由はもうないということ。俺は教科書とノートを閉じ、席を立った。


「もう行くんですか?」

「さすがに、数学以外の授業をサボる理由もねぇしな」

「真面目ですね」

「ほっとけ」

「じゃあ、また」

「おう」


 また、と長森は言ったが、明日の数学の時間にまたこの資料室に足を運ぶかは、明日の自分に任せよう。そう考えながら俺は資料室を後にした。


***


 ———結局今日も来てしまった。


「何か言いましたか?」

「いや、別に」


 今日も長森は昨日と同じ格好で資料室にいた。制服なのだから当たり前だが。

 数学の授業をサボって資料室通いを始めて今日でちょうど一週間になる。別にここに行かなくてはいけない理由もなかったが、行かない理由もなかった。それだけだ。長森は見た目通り大人しい性格で、不用意に俺の神経を逆撫ですることもなさそうだというのも安心材料ではあった。

 それに。


「この問題は逆関数x=g(y)の導関数の公式に当てはめて解いてみてください」

「なるほど」


 長森は俺よりも勉強ができるやつだった。教科書と睨めっこしていた俺を見かねてくれたようだが、件の教師の授業を受けられない今の俺には正直助かる。説明も分かりやすかった。


「長森、教えるの上手いな」

「そうですか?」

「俺は嘘をつかないのを信条にしてる」

「嘘だなんて思ってないです。ありがとうございます」

「例を言うのは俺の方だよ。これなら授業エスケープしてもテストはなんとかなりそうだ」

「素直に先生に謝ればいいんじゃないでしょうか。私より先生に教えてもらった方が」

「もう詫びは入れたよ。でもやっぱり居心地は良くないんだ。多分向こうも」


 ―――というか、仮に数学教師の件がなかったとしても元からクラスでの居心地は悪いしな。


 息苦しさから逃れる口実に使っているというのは否定できない。でもきっとこれが付き合い方としてはベストなんだ。俺にとっても周りの奴らにとっても。極論、俺がキレる理由は他人に起因している。


「あの、聞いていいのか分からないんですが、もしよければ何があったか教えてくれませんか?」

「長くもないし楽しくもない話だけど」

「かまいません」

「授業中に問題間違えたのを小馬鹿にされて、ついカッとなっちまった。それだけ」

「そうなんですね。それは確かに、その先生にも非があると思います」

「だろ?仮にも教育者がよ」

「それで、カッとなった浅倉さんは、何をされたんですか?」

「あー、その、なんだ。気付いたら、自分の机をぶん投げてたっつーか」


 我ながら歯切れの悪い回答だった。


「我慢、できなかったんですね」

「……言いたいことは分かるよ。もうすぐ二十歳になるのにそんな調子でどうするんだってんだろ?」


 昔から何度となく周りの大人たちに指摘されすぎて、もはや怒りも湧いてこない台詞だ。だが、長森の返事は違っていた。


「浅倉さんが羨ましいです」

「は?何が?」

「素直に怒れることがです」

「言うてこの学校にいる奴らはみんなそうだけどな。つっても、他の奴らはきちんと教育されてるみたいだけど。もう成人間近だし」


 そう、おかしいのは自分だ。数学教師の件はまた別としても。おかしいから俺はいつも一人だし、おかしいから俺は今ここにいる。他の奴らと同じになれない自分が、誰よりも許せなかった。ずっと昔から。

 

「怒りたくても怒れないのは辛いですよ」

「ん?」

「間違っていると思っても。理不尽な出来事があっても。許せない相手だとしても。肯定しなくちゃいけない。納得しないといけない。許さないといけない。考えただけでも心が張り裂けそうです。世の中の大人達は本当に大変だと思いますよ」

「それは、まぁな」


 そう言う長森の顔には本心からの憂いが滲み出ていた。資料室の窓から差し込む光は今日も燦々と輝いているのに。

 次に言うべき言葉を探していると、授業時間の終了を告げるチャイムが鳴った。


「もう時間か、早いな」

「そうですね。じゃあ、また」

「おう、サンキュな」


 俺は礼を告げて資料室を後にする。部屋を出る間際、何の気なしに振り返ると長森は柔らかな笑顔を浮かべてこちらに手を振ってくれていた。彼女の笑顔に少しだけこちらの頬が緩んだ気がした。

 思えば自分に笑顔を向けてくれる人なんて今となってはテレビの向こうの芸能人くらいしかいなかったことに気付き、少しだけ暗い気持ちにもさせられたが。


***


「テストの結果はどうでしたか、浅倉さん」

「おかげさまでボチボチ。お前のおかげだ」


 俺達が知り合って一ヵ月が経とうとしていた。気付けばこうして昼休みにも弁当を持って資料室に足を運ぶようになっているが、少なくとも教室で一人で食べるよりはここで長森と他愛ない話をしながら食べるメシの方が美味い。

 それに、自分のことを怖がらずにいてくれる相手がいるのなら、話したいことがないわけでもなかった。


「ふふ、浅倉さんの努力の賜物ですよ。誇ってください」

「いんや、先生の教えの賜物です」

「なら、卒業後の進路は教員にしたいかもです」

「あぁ、向いてるんじゃないか?教え方も上手いし接し方も優しいしな。学生からも好かれるタイプだと思うぜ」

「褒めても何も出ないですよ」


 そう言いつつも彼女の表情が緩んでいるのはきっと気のせいではないだろう。


「浅倉さんこそ、進路はどうされるんですか?なりたいものとか、あるんですか?」

「俺?俺は今んとこそういうのはないな。とりあえず大学には進学しようと思ってるけど」

「大学でやりたいことを見つけるってことです?」

「そういうこと」


 それもあったが、実際は延命措置にも近い動機だった。社会人になれば今以上に怒りの感情を抑えなくてはならない場面が出てくる。少なくとも今の自分がこのまま社会に出れば、遠からず自分は怒りの炎に飲まれて焼け死ぬことになるだろう。

 四年程度でもモラトリアムが得られるのならそれに越したことはない。


「案外、浅倉さんも教師に向いてるかもしれないですけどね」

「は?」


 ない。それは絶対にない。確信を持って言える。


「どこを見てそう思うんだよ」

「なんとなくです。何かを教えるって、失敗とか挫折を経験した人の方が良いと思いますし」

「そうか、つまり長森には俺が失敗や挫折の経験が豊富なやつに見えてるのか」

「あ、すみません。失礼でしたね」

「いや、まぁ遠からずだしな」


 少しだけイラつきはしたが、遠からずというか実際その通りだったので溜飲は下がった。そうでなければ少なくとも自分は今この資料室には来ていないわけで。


「もし私と浅倉さんの進路が同じなら、同じ大学に通ったりもできるのかなって思って」

「ん?」

「いえ、気にしないでください」

「まぁ……それもありかもな」


 別に、俺は長森のことが嫌いではない。素直に言えば好き、なのかもしれない。自分と普通に接してくれるのは今のこの世界では長森くらいしかいないのだ。

 でもそれは、長森が俺の性質を詳しく知らずにいてくれている今だからこそだ。いずれ長森がこの資料室の外へ出れば、他人を介して遠からず俺のことも知ってしまうだろう。いや、もう既に誰かから伝え聞いているのかもしれない。

 結局、俺は他人と浅い付き合いしかできない人間なんだ。

 

 ———なら、どうしようもないし、どうにもならない。長森との関係にしても。


「浅倉さん?」

「っ、なんだ?」

「いえ、そんなにまじまじと見つめられると食べづらいというか」

「お、おう。悪い」


 取り繕うように口に運んだ玉子焼きは、心なしかいつもより塩気が効いていて口当たりが悪かった。


***


「浅倉さん、本当に大丈夫なんですかそれ」

「気にすんな」


 今日の長森は口を開けばそればかりだった。頬を覆うほど目立つガーゼが貼ってあれば無理はないと思うが。

 久しぶりに、喧嘩をした。相手は知らないやつだったが、素行不良な他校の生徒か何かだろう。


「もうすぐ受験の時期なんですから、あまりそういう人は相手にしない方が……」

「そうだな、気ぃ付けるよ―――っ……」

「やっぱりまだ痛いんじゃないですか」

「平気だって。そういや、そろそろ夏休みだな」


 話題を挿げ替えるように俺はそう言った。


「そうですね。三年の私達は夏休みもほとんど勉強でしょうけど。各科目で夏期講習もあるんですよね」

「長森はどうするんだ?その、クラスで講習受けるのか」

「私は相変わらず、この部屋で先生から貰った課題をこなす予定です」

「俺の数学もそうだけど、結果出せば出欠も単位もどうにかしてくれるあたり優しいよなウチの学校」

「優しくしてくれるのは学生のうちだけでしょうけどね」

「まあな」

「考え直すなら、優しくしてくれているうちがいいんじゃないですか」


 ポツリと長森が呟いた。その声色にはいくらかの同情と、心配の色が見てとれる。


「何が?」

「その、数学の先生の件とか。夏休みってことは一学期の間ほぼずっと授業サボっちゃってるわけですし。いや、私が言えた義理じゃないんですけど」

「あー、まぁ、そうだけどよ」


 今の状態を周りが許してくれている限りは、このままが良いというのが本音だった。それに、手を出してしまったことについて言い訳する気はないが、百パーセント俺が悪いというわけでもないのだから。


「……心配なんです」

「心配?なにが?」

「いろいろ、です」

「あー……」


 それなりに長い付き合いになって意識の外に置いていたが、そもそも長森も後ろ暗い事情を抱えている。この資料室で日々一人で過ごしていることも含めて、何の悩みも抱えていないというわけもないだろう。

 何か、ささやかでもいいから気分転換をさせてやりたい。そう思った。長森に対する好意によるものかもしれないし、いつも勉強を見てくれている日頃の感謝もあるかもしれない。そういう彼女に対するポジティブな感情すべてから来る思いだった。


「そういや、夏休み入ってすぐに花火大会あったよな。町の川沿いで」

「え?あぁ、そうですね」

「良かったら一緒に行かないか?」

「へ?」


 俺の言葉がうまく咀嚼できなかったのか、普段丁寧な言葉遣いをする長森にしては珍しく間の抜けた返事が返ってきた。


「花火だよ、花火。せっかくの高校最後の夏休みなんだから、それくらい羽目外してもバチは当たらないだろ」

「私はその、あんまり人混みは得意じゃないというか」

「じゃあ、屋台とかは無しで、人のいない遠くから二人で観るのは?結構穴場知ってるんだよ俺」

「でも………」

「行きたいんだ。長森と一緒に」

「………はい、浅倉さんがそこまでおっしゃるなら」


 躊躇いがちに長森はそう言った。その表情には明らかな不安の色が映る。

 当日は絶対に長森を楽しませようと、そう思った。


***


「お待たせしました」

「いや、そこまで待ってないから気にすんな」


 花火大会の当日。俺は動きやすい半袖のTシャツ姿だったが、長森はといえば夏祭りらしい浴衣で現れた。水色を基調にした色合いはこの夏の季節にあって実に涼しげで雅なもので、何より普段制服姿しか見ていなかった長森にこれ以上なく似合っている。本当に自分が知っている長森か疑いたくなるほどに。


 ———俺ももう少しちゃんとした格好してくればよかったかもな。


「どうかしましたか、浅倉さん?」

「いや、なんでも」

「でも本当に、ここは穴場かもしれないですね」

「だろ?」


 待ち合わせ場所に指定したのは、町の小高い山の中腹付近にある、道路脇の駐車スペース。おそらく乗用車を停めて小休止をとる場所なのだろうが、幸い今日ここで花火を観に来たのは自分達だけのようだった。おあつらえ向きに休憩用のベンチと申し訳程度の自販機まで設置してある。町の人々の喧騒も視線の遥か先、ここなら長森も心置きなく楽しめるだろう。


「あ、始まった!」

「お」


 河川敷の方角から糸のように細い光の道が空に伸びたかと思うと、それは盛大に宙で弾け、光の粒となってゆっくりと散っていく。『バァン』という花火の弾ける音がやや遅れて耳に届いた。

 一発、また一発と光華が打ち上げられ、夜空に大輪の花を咲かせていった。


「綺麗です」

「あぁ」


 ふと隣に座る長森を横目に見ると、視線は夏の夜空に釘付けだった。花火が空で弾けるたび、長森の瞳がキラキラと輝いているように見えて。花火を観に来たはずなのに、どうしても長森の顔から目を逸らすことができなかった。


 ———ああ、これがあれか。

 ———漫画やドラマでよく言うやつだ。

 ———景色より君の方が綺麗だよ、ってやつか。


 とっくに使い古された安っぽい言葉でしか形容できない自分の語彙の少なさに内心苦笑した。でも、どれだけ陳腐な言葉でしか言い表せなくとも、今の自分の心に嘘偽りはなかった。


 ———俺、結構前から惚れてたんだな。


 一つ、また一つと夜空に光が舞い上がり、そして散っていく中、自分の心は躊躇うことなく一つの言の葉を紡いでいた。普段怒りのブレーキが利かないのと同じように、思うがまま。


「長森」

「?なんですか?」

「好きだ」

「えっ……?」


 告げたのはまるで神が味方してくれたように、花火が散って次の花火が打ちあがる合間、ちょうど空気が静けさを取り戻すタイミングだった。やや遅れて一際大きな光華が打ちあがり、長森の困惑した表情が暗闇の中から映し出される。


「俺は、長森が好きだ」


 確認するように、念を押すようにもう一度。そう告げた。

 長森の大きな瞳がひと際大きく見開かれ、両手で口元を覆う。そして見開かれていた目をゆっくりと細め、やがて顔ごと俯いてしまった。


「長森?」

「っ………うぅぅ………」

「泣いてる、のか……?」


 まさか泣かせてしまうとは思わず、俺は長森にかけるべき言葉を見失ってしまう。どうしたらいいか分からず、ただ彼女の肩に両手を置いて俯いたその表情を窺うことしかできなかった。


「ごめん、なさい………」

「長森?」


 謝りつつも長森がようやく顔を上げてくれたことに安堵する。その時次の花火が空に打ちあがった。


「私、浅倉さんのこと―――大嫌いなんです」

「え?」


 彼女の口から告げられた言葉の意味を理解するより先に、今までで一番大きな光華が空で弾け、俺の鼓膜を揺さぶった。


「聞こえませんでしたか?私、浅倉さんのこと、大嫌いなんです。ずっと前から」

「えっと、俺、何か気に障ることしちゃったか?」

「そうですね。浅倉さんはきっと覚えてないんですよね。怒ると見境がなくなっちゃうらしいですし」

「どういう、意味だ?」

「私、ついこの間まで病院にいたんです。ずっと寝たきりで」

「病気、とかか?」

「事故にあって、意識がなかったんです。車に撥ねられて」

「それが俺とどういう関係があるんだ?」

「浅倉さんが学校の外で起こした喧嘩沙汰に巻き込まれた、って言えば伝わるでしょうか。二年ほど前の話になりますけど」


 二年前。俺が高校に入って間もない頃。確かに学校の外でもよくトラブルに巻き込まれてはいたが。でも。


「でも、そんな話、俺は一度も—――」

「いつもそうですよね、浅倉さん」

「え?」


 歪んだ顔でそれでもなんとか笑顔を浮かべていた長森は、そこで堰を切ったようにまくしたてた。今まで見たことがないような形相で。


「いつもいつも、俺は悪くない、悪いのは自分を怒らせた他人だって顔して。当事者の浅倉さんにとってはそうかもしれませんけど、それに巻き込まれる人にとっては加害者も被害者も責任の所在も関係なく等しく害悪でしかないんですよ。理不尽に他人の都合に巻き込まれて、目が覚めたときには友達も何もかも無くなってて、誰かに怒りの矛先を向けることもできなくなっていた時の悔しさがあなたに分かりますか?私だって何も悪いことなんてしてなかったのに!!」

「そ、れは……」


 分かるはずがない。怒りを抑えることができず常に吐き出している自分には。

 でも、ならどうして。


「どうして、もっと早く言ってくれなかったんだ!俺があの資料室で長森と会ったとき、どうして俺を追い返さなかったんだよ!」

「あなたを拒めば、私が死んじゃうからですよ!!」

「っ!?」

「言ったでしょう?ずっと病院で眠ってたって。私、もう二十歳の大人なんです!二年間眠ってる間に、もう怒ることができなくなっちゃったんですよ。あなたのせいで!!」

「そんな……」

「最初にあなたが現れたときは嘘でしょうって思いましたよ。どうして私を一人にしてくれないんだ、ただの社交辞令の言葉を鵜呑みにしてどうして毎日私の前に現れるんだって!」

「………っ」

「私の人生を狂わせたくせに、どうしてこんなに私に良くしてくれるんだって……。どうして私のこと好きだなんて言うんですか………っ。私はあなたの顔を見るだけで、怒りで頭が変になりそうだったのに………!」

「長森……」


 長森は泣いていた。大粒の涙を流して。綺麗に整えられた髪型もこの日のために用意したのであろう浴衣も台無しになるくらいぐちゃぐちゃの顔で。恨みの籠もった眼差しで俺を見ながら。その顔は、子供の頃に作った鬼の面なんかよりはるかに恐ろしかった。


「私は、あなたが大嫌い!!」


 その言葉を引き金とするかのように、目の前で長森が青い炎に包まれた。


「な、長森!!」


 慌てて彼女に手を伸ばすが、女性とは思えないほどの力で突き飛ばされた。情けなくあっさりと地面に尻餅をついてしまう。

 

「だ、い、きら、い―――」


 あっという間に、瞬く間に、息つく間もなく、長森は燃え尽きた。骨の欠片も残さず。長森が長森の形を保っていたその時まで、彼女の瞳にはかつて見たことがないほどの怒りの炎が燃え上がっていた。


「………」

「………………」

「………………………あ」

「あぁ、ぁ―――」

「あああぁぁぁぁああああぁあぁあぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁあああああああああぁぁあああぁぁああぁぁぁぁあぁあぁぁああぁあっ!!!!!」


 花火は、もう打ち上がらなかった。

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