好きの言葉は、海水に溶けて

篤永ぎゃ丸

港の無い、漁村


「ここに引っ越してきて三年かー……早いもんだな」


 砂と泡を揺らす波打ち際と夕陽で赤く染まる広い海。それら全てが見渡せる、海沿いの飲食店の中にいる男子高校生、伏見信弥ふしみしんやが、さざ波の音に思いを馳せながらそう言った。


 彼は視点を目の前のテーブルに移し、店の開いた窓から潮風をたっぷりふりかけた、食べかけの真っ白なしらす丼を手に持つ。


「ふふ、高校生はあっつう間やんなぁ」


 しらす丼をガツガツかき込む、食い盛りの信弥を相席から頬杖してニコニコ眺めるのは、同級生の長岡美渚ながおかみなぎだ。彼女の黒髪ポニーテールもまた、潮風に揺れている。


「ごくん……運動部で暑い汗を流す事もなく、彼女を作って熱い夏を過ごす事もなく、この町の伝統か知らねーが、手話が必修科目とかいう妙な重点課題に振り回されて——高校卒業とは……」


 信弥は寂しい空のどんぶりをコト……、とテーブル上に置くと、背もたれに身体を預け、だらーっと脱力した。床に置かれた学生鞄には、卒業証書が入った筒がはみ出していて、今日は二人が高校の制服を着れる最後の日である。


「やっぱ放課後は、カワセミ亭の海鮮丼やんなぁ、平川さぁん、会計よろし〜!」


 元気よく美渚が手を伸ばすと、緑のエプロンを着た女性店員の平川がスタスタと二人の元に駆けつけた。


「……」


 しかし彼女はニコッと二人に微笑むと、テーブルに置き手紙をしてその場から離れてしまった。美渚はそれを広げ、読み上げる。


「——卒業おめでとう、今日はお祝いでお代はいりません——やって! んん〜ッカワセミ亭の優しさぁにウチ、涙がでるにぃ……」


「おお……気前がいいなあ。でも、三年経ってもいらっしゃいませの一言もなし……とは。顔はご丁寧に笑ってるのになぁ」


 信弥は不服そうに厨房に消えていく平川を目で追うが、そんな彼を遮るように美渚が割って入る。


「ウチら顔パスなんや、挨拶なんていらんよぉ」


「うぅん……最初、新手の村八分かと思って俺は気が気じゃなかったぞ……未だに俺は、客に無言はありえんと思ってる」


「都会暮らしは、作法にうるさいにぃ」


 不機嫌な美渚を見て、分かった分かったと信弥は学生カバンに手を伸ばそうとする。二人の放課後が終わりを迎えようとした時、美渚は席から立ち上がる。


「信弥、帰ぇる前に海寄ってかん?」


「は? もう暗くなるだろ、俺ぁ明日の引っ越し準備があんだよ!」


 しかし美渚は信弥の言い訳に耳を傾けず、信弥の学生カバンを奪い取るとバタバタと店の外に飛び出し、嫌がらせを込めて開いていた店の引き戸を閉めた。


「どぅあああ! 俺の財布ーッ!」


 慌てて信弥が追いかけに向かい、店の入り口であるガラス張りの引き戸をガラッと引いて見回すと、美渚は海沿いの車道を軽快に走っていた。


「待てーッ! この期に及んでふざけんな!」


「あははは! 返しぃ欲しなら、こぅまで来ぅや!」


「待ってろよ! チャリに勝てると思うな!」


 飲食店前に止めた自転車を慌てて動かそうとする信弥の先で、美渚は愉快そうに車道を走っている。そこに彼女を横切ろうとした白い軽トラックが、ゆっくり急停車した。それと同時に美渚も足を止めて振り返ると、車の窓から強面の男が、無言で顔を覗かせる。


「……」


「おやん! 今ぁ信弥と、ご飯食べてきたとこなん」


「このやろ! 待てや美……ッ渚の親父さぁん⁉︎」


 追い付いた信弥はキィッと自転車を止め、美渚の父親である長岡豪ながおかごうと目が合う。


「……」


 頭に巻いた白タオル、顎を覆う口髭、黒いインナー。見た目は漁業をしている男そのものであり、トラックの荷台に乗せたカゴには活きの良い魚が、何匹もピチピチ跳ねている。


「こ、こんばんは、おじさん……」

「……」


 豪はギロッと信弥を見つめた後、ジロッと美渚を見た。彼女の背には沈み行く太陽、次第に赤から紺へ色を変えていく海。


大丈夫でいじょーぶお父やん、すぐ、帰ぇるから」

「……」


 美渚の顔を見つめた後、車内の灰皿に置いていたタバコを口に咥えると、そのまま豪はアクセルを踏み、車は走り出した。それを見届けた信弥はふぅ、と肩をすくめる。


「相変わらず寡黙かもくなおっさんだよなぁ……会う度なぁんも言わないでやんの」


そやもん、仕方なぁよ」


「ふぅん……? 一人娘だと、同年代の男が寄るだけでも嫌なんだろうな……」


「さーて、ここまで来たなぁ海行こ、信弥!」


 美渚は遊びに来た子供のように、今にも陽が沈みそうな海を指差した。信弥は反論しそうになるが、今日は高校生としていられる最後の日。だからだろう、彼は仕方なさげに自転車を堤防に寄せた。


 そんな彼を見た美渚はぴょんと段差を上がり、ローファーと靴下を脱ぎ捨てると、そのまま滑るように砂浜へ着地した。


「はーッ! 潮風気持ちええね、信弥」


「そうだな……毎日見てるから、今更感あるけど」


 信弥はキビキビ動く美渚を横目で見ながら、丁寧に裸足になり、ズボンの裾を上げてゆっくり砂浜に足を踏み入れる。


「信弥は明日、また都会に行っちゃうやね」


「まあ……俺が受けたい音楽専門校は、東京にしかねえし」


「こん町に残る卒業生……全然おらんし、寂しいなあ」


 先程まで無邪気に笑っていた美渚は、ふと寂しさをこぼした。大海からゆっくり満ち引きする波打ち際を、静かに見つめる彼女の背にいる信弥は、気まずさで後頭部を掻くとある記憶が蘇った。


「……そういや、俺が引っ越してきた日、この場所で美渚ババ臭ェうた、唄ってたよな。俺、車の窓から聞いたんだよ」


「はぁ? ババ臭いって……ありゃ民謡や、民謡! 失礼すぎやってッ!」


 ムキーッと美渚は振り返って怒りだし、信弥は両手を手前に伸ばして、謝罪する。


「ごめんて、でもすげぇ印象的でさ。だから…転校初日、真っ先に美渚に話しかけたんだ」


「あー……だからや。初日から急に話しかけるん、ウチに気ィあるんかなっておもっとた」


「ないない。美渚みたいな活発系は俺のタイプじゃねぇよ。もっとこう、もの静かな女子がいい」


「ブッ……静かな子ぉ? 選り好みしてぇから、彼女今日まで出来ひんやん、下級生に気になる子ぉ狙っちょる言うて、結局なあんも言えんで卒業やし」


「う……返す言葉もない……ッ」


「都会で彼女、出来るとえぇなあ。ここより出会いは、いっぱいあるに」


「そうだな……出会いてぇなあ……」


 信弥はがくりと肩を落とし、海岸に流れる潮風は彼のダランとした制服のネクタイを揺らす。それを見た美渚はクスリと笑い、再び海を見つめた。


「あのうたな、海ぃ神様んと漁師達で末永く仲良ぅしましょって歌詞やんよ」


「へー。でもここって今、漁やってなくね? 船もねぇし、港もないしな」


「みんなもう、漁にうんざりなんやよ。……きっと」


「確かにこの町、移住広告めっちゃ出してるし、俺ん家もそれに乗っかったクチだしな。時代の流れで廃れたってやつ? ……にしては、ここ新鮮な海鮮料理食えるけど」


「何で人魚姫って声、魔女に取られたんやろね」


 海鮮から関連付けたのか、突如美渚は人魚姫の話題を出した。意図が読めない信弥だが、大人しく話に乗っかった。


「アンデルセンの人魚姫の話か? 声と引き換えに人間になる……まぁ、妥当な代価じゃね?」


「水中で声が一番いらんのんは、分かるんよ……」


「美渚?」


 疑問を乗せた信弥の声の後、美渚はすぅ…と息を吸う。潮の香りを肺に満たした彼女は、包むように両手を合わせ、波の伴奏に全てを預けて腹から声を出した。


「ハァアァ 海ィが波打ちゃぁ、胸もぅ打つぅ〜 ろうに抱かにゃああぁ〜踊れぇや、ハイソー ハイソー!」


 信弥はどっしりと響く哀愁漂うそのうたに耳を傾ける。しゃくり、こぶし、ビブラート。カラオケ採点機能で目にするテクニック全てを、彼女は一瞬で表現した。


「……ふー。ど? まあだババ臭ぁ聞こえんね?」


「いや……やっぱすげえよ、美渚の謡は。なんつうか……人魚姫みてえ」


「あっはは、褒めんのぅ下手か! こぅな声張り上げぇ歌姫おったら興醒めや」


「いやいや! 鼻濁音が超綺麗だし、マジで美渚なら表現力豊かな歌手になれるって。俺が曲作れるようになったら、東京来て歌ってくれや」


「……そら、遠慮するわ。ウチはここで静かに暮らすん、性に合ってんや」


「良い声なのに、もったいねぇ……」


 無理強いは良くないと信弥も分かっているのか、それ以上誘う事をしなかった。次第に辺りが暗くなり、海から赤が殆ど無くなっていく。


「おい美渚、もう暗くなるし帰ろうぜ。このど田舎海辺には、街灯全然ねぇんだからよ」


「……」


「おい、無視か! 俺ぁ帰るからな〜」


 女子高生が夜道に出歩くのが危ないという思考が出ない程、危険の無い地域だと数年暮らして分かっているのか、信弥は堤防をよじ登って靴下を履く。


 そんな彼の背にいる美渚は、明るさが消えていく海に向かってゆっくり歩き出すと、波打ち際付近で立ち止まった。


 信弥は堤防から降りると、停めていた自転車のストッパーを外し、サドルに腰を落とした。そしてまだ姿が見える、美渚に向かって左手を口に添えて声を出した。


「みーなーぎ! またくだらねー話しながら、海鮮丼一緒に食いに行こうなーッ!」


 その声に美渚は振り返る。彼女は離れていく信弥を見て、声を絞り出す。今度は——心から。


「信弥ぁあああああッ!」


 それと同時だった。太陽の明るさを失った白い波が、美渚の足を捕まえると、何かと共にスゥと潮が引いていく。彼女は叫ぶ。声なき、声を。


「……ッ……ッッ!」


「おー? なんだってー?」


 美渚は胸に握った手を当て、必死にそれを出そうと口を動かす。しかし太陽が沈み、辺りは暗い。夕刻はついさっき終わりを告げた。もう、色と時間は戻せない。


「……。……ッ」


「美渚ー?」


 信弥の呼び掛け。美渚はそれがもう届かない事と認めると、ゆっくりと口を閉じた。そして他愛もない笑みを浮かべ、右手を高く上げて彼に向かって手を振った。


「……」

「おー? じゃあ、またなー」


 右手でハンドルを握り、左手で振り返すと信弥はカチッと自転車のライトを点けて、ゆっくり漕ぎ出した。


「……」


 残った美渚は、信弥を乗せた自転車を目で追う。その姿が見えなくなるまで、どこまでも見つめた。そんな彼女の裸足に、再び優しい波が足を素通りする。


 足で海を感じた彼女は、再び心から言葉出そうと口を開けた。しかし、心地よいさざ波の音が勝っていて、美渚の叫びはもう誰にも聞こえない。


「……」


 美渚はゆっくり口を閉じて、姿が見えなくなった信弥の方を向き、ゆっくり右手を顎に添えた。


「……」


 そして彼女は、親指と人差し指で顎を撫で、ゆっくり前に出しながら離れた指と指を合わせた。もう二度と誰にも言えなくなってしまったその想いを、右手の言葉に込めて。

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