雨色のオレンジはほろ苦く
とりあえず、テディの事前準備が完了するまでは待機という事になり、アリスはライアンと共に一度メイフェアの屋敷へ戻ることにした。
というものも、アリスが一人でいいと言ったがライアンが頑なに拒否したのでアリスは渋々ライアンの馬車に乗って帰ることになったのである。
アリスは馬車の上等なクッションの上で、雨の中足早に行き交う人々を眺めながら先ほどテディに伝えられた王医師の見解について考えていた。
「うーん……毒物も何もねえってのはどういうことだ……?」
「どうかしましたか?」
「ああ……タウンゼント卿の死因についてちょっとな……」
「そういえば、ロンドン警視庁では死因は病死だという見解が新聞に出ていましたね。心臓発作だとか」
「なんだって?」
「先程新聞売りから買った最新号ですよ」
ライアンが綺麗に畳まれた新聞をアリスに渡す。アリスはもどかしいと言うようにそれを広げ、目を通した。
——タウンゼント卿の死は病死とロンドン警視庁は判断。
——数々の慈善事業と軍、警察への多大な支援で高潔の士と知られ、警視総監や陸軍総帥が哀悼の意を表明。
「何が高潔の士だよ。馬鹿馬鹿しい。一言でいえば癒着だろうが」
呆れたように新聞をばさりと閉じる。
「でも、妙だな」
何がですか?とライアンが首を傾げた。
「そんな大物が死んだってのに、碌に捜査もせず、病死って公式見解を出した事だよ。まるで……」
「早く世間の目を逸らさないと、都合が悪いみたい。ですか?」
「その通り」
それに、あのいけすかないグローヴァー捜査官がこんなに早く見切りをつけるだろうか。
もしくは、グローヴァーでもどうにもできないような上層部が絡んでいるのかもしれない。
「ああ~もう。なんでこう色んな事がごちゃごちゃ絡んでくるんだ……こっちは時間が惜しいってのに……」
アリスはうんざりするように天井を仰いだ。それに早くサウスエッジの人喰い狼を探し出さなければ、また同じような犠牲者が出ないとも限らない。あの事件以来、犯人がずっと沈黙を守っているのも不気味だった。
「……ん?」
ふいに眼に入った窓の外に意識が向いた。
雨の中、傘も差さずに俯き歩く小柄な少年。細い背中は路地裏に向かおうとしており、その表情は今の空のように昏く沈んでいた。
「あれは、ミゲルか?」
アリス・ガーフィールドの弟であり、あの屋敷で剣呑な視線を投げかけてくる唯一の人物で、アリス、いやアーサーはどうも彼の事が苦手だった。
彼もアリスの事を避けているようで、顔を合わせてもふいとそっぽを向いて何処かへ行ってしまうし、食事の時もあまり話さずさっさと自室へ引っ込んでしまうので、未だにミゲルとまともに会話した事すらない。
「悪い。ちょっとここで降りるわ」
「えっ! アリス殿!?」
戸惑うライアンの声を尻目にアリスは迷わず馬車のドアを開け、飛び降りるようにして地面に降りた。ばしゃりと水溜まりが靴とドレスの裾を濡らしたが、アリスは構わず路地へ消えたミゲルの後を追った。
雨はほぼ霧雨に変わっていた。路地はぬかるんでいて、ミゲルの足跡を見つけるのは簡単だった。
アリスはドレスの裾を持ち上げながら慎重に足跡をたどってゆく。
路地裏を進み続けると、拓けた場所が見えた。数人の話し声も。
アリスは積み上げられた薪の影に隠れて話し声がする方向を伺った。
「……これで、全部です」
ミゲルが小さな封筒を渡した。その相手はハンチング帽を被った目つきの悪い細身の男。もう一人はずんぐりした体躯の赤毛の男だ。
素性の良さそうな人間ではないのはすぐに分かった。
「随分少ないじゃん。どうした? ミゲル坊ちゃん」
細身の男が揶揄うように言った。
「約束です。これでもう僕と姉さんに関わらないでください」
私?とアリスは眉間の皴を深めてその言葉の意味を考える。
そのセリフが意味するところは、八割がたミゲルが何らかの理由で男達に脅されていると捉えていいだろう。
「それにはあと10ポンドくらい足らねえなぁ。お前の愛する姉君があんな下賤な賭博場に出入りしてたなんて知ったら嫁入り先を見つけるのに苦労するだろうねえ。お前だってこの歳であんな売春宿に出入りしてるのを知られたら良いゴシップの種になるだろうしな」
「それは、違います! 僕は彼女達の……」
ミゲルが全て言い終える前に、アリスは身を起こし、ぬかるみも水溜まりも意に介さぬというように足を踏み出した。それくらいに、アリスは怒りに満ちていた。
「ああ?」
ずんぐりした男が訝し気にアリスを見た。びしょ濡れで、憤怒に満ちた瞳でまっすぐに男に向かって行き、そのまま男の顎に右フックを喰らわせると、赤毛の男はもんどりうって水溜まりの中に倒れ込んだ。
怒りで頭の中が沸騰していた。マグマのように。
自分のせいで、正確にはアリスの家族が害されるのは我慢ならなかった。
「何だ!?」
「……ね、姉さん?」
アリスは怒りに満ちた拳で男の下腹部を思い切り撃った。げえ、という声と共に男が身体をくの字に折る。そのまま首を強く掴んで引き上げ、堅いレンガ塀に押し付けた。
「私がどうかしたか? どこの賭場に入り浸っていたって? それをダシに私の弟を脅していたのか?」
華奢で花すら手折れないのではという手が、ぎりぎりと男の喉を締め付ける。
空色の瞳が、怒りに満ちた目で苦悶に歪む男を睨み付けた。
「が、は、テメェこそ、『ジミーのバー』に何度も通ってただろうが……このアバズレが」
その言葉にアリスは稲妻に撃たれたような衝撃を受けた。
ジミーのバー。
惨殺事件の被害者であるクリーニング店の店主が、殺害前にジミーのバーで常連客と口論になっていたという目撃証言を得てすぐに向かった店だ。
そこで、死んだ店主と口論していた男を見つけ、追跡し尋問したのだ。
男は言った。
『あいつは借金のせいでヤバい事に手を出した』
『俺は何も知らない。下手に知れば消されちまう』
『何日も店の前を彷徨いてる奴がいるって怯えてた』
その証言から、粘り強く現場付近を聞き込みを続け、犯人らしき男を特定したのだ。
名前はポール・ランディ。元軍人で、ギャングの用心棒をしていた。ジミーのバーの常連でもあった。
そして、アーサー・バートレットは嵐の日の夜、バーから出てきたポールを追い詰め、ライムハウスの埠頭で何者かに背後から撃たれたのだ。
しかし、ジミーのバーに聞き込みに通ったのはロンドン警視庁の【アーサー・バートレット警部補】だ。
十代の可憐な令嬢が何度も通うような場所では無い。
だが確かに、アリス・ガーフィールドはそこにいた。
何の目的で?
「この子が……なぜあのバーに……?」
呆然と呟くアリスから腕の力が抜け、首を絞められていた男が咳き込みながら転がるように逃げ出でた。
そう、前に女怪盗のアンゼリカも同じ事を言っていた。
あの時は状況もあってタチの悪い冗談だと思っていたが、一気に信憑性が増した。
瞬きすらせず動きを止めたアリスを、怯えた目で見る男とミゲル。静かな雨音と、表通りのオレンジ売りの声だけが響いていた。
が、と立ち去ろうとしていた男の肩を掴んだ。情けない悲鳴が上がる。
濡れて頬や額に張り付く金髪も構わずに、アリスはそのまま男の耳元で囁いた。
「金輪際、私と弟の前に姿を見せるな。次に姿を見たらお前のナニは二度と使いものにならなくなるぞ」
低い声でいいながらもう片方の手で握り潰すかの強さで男の股間を掴むと、男が引き攣ったような声を上げる。
突き飛ばすように解放すれば、尻を叩かれた猫も目を見張るほどの勢いで逃げていった。
アリスは男の背を冷めた目で見送ると、ミゲルに向き直った。
まだ幼いが整った顔立ちは、アリスとよく似ている。
彼は戸惑いの目でこちらを見つめていた。
「ミゲル……ごめんなさ」
「お前、誰だ」
アリスの声を遮って、ミゲルが敵愾心に満ちた声で唸った。
「ミゲル、話を」
「お前は、姉さんじゃない! お前は、だれだ!?」
雨の中にミゲルの悲痛な叫びが響いていた。
令嬢アリス・ガーフィールドの華麗で奇妙な事件簿 片栗粉 @gomashio
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