壁画の娘

彼方

壁画の娘

 都は長安から西へ幾千里、黄河をさかのぼり、何十何百もの村や森を抜けたその先に、仙人が住まう山々があった。

 天まで高くそびえる山肌の合間は白い雲海で満たされ、なるほど、仙境というにふさわしい秘境の地であった。

 さて、雲の上から顔を覗かせた山の頂、天界と下界の境目で、二人の仙人が碁打ちに勤しんでいた。

 一人は天仙、呉老子といい、もう一人は地仙、孫道士といった。

 天仙とは不老不死を体得して天界の住人となった者を指し、一方の地仙は、すでに現世の理からは外れたものの、未だ天界への扉は開かれず、天仙になる日をめざして下界で修行に勤しむ仙人のことを指す。呉と孫は仙人としての格こそ違うものの、仲の良い碁打ち仲間だった。

 ぱちり、ぱちりと碁を打つ音がゆったりと響く中、ふと、孫が話を振った。

「ところで呉老子よ。下界で少し不可思議な話を聞いたのでありますが」

「ほう」

「これがなんとも、私も頭をひねってみましたが、とんと見当がつかぬものでありまして。しかし話を聞いてしまった以上、真相が気になって仕方がない。もしよろしければ老子のお知恵をお貸しいただきたいのですが」

「なるほど。よし、話してみなされ」

 呉が孫の話に乗っかった。孫はにっこりと笑った。勝負は孫が劣勢だった。ここはひとつ、世間話で呉の気を盤面からそらしてしまおう。

「これは先日、江西省の外れの村里で聞いた話なのですが……」


***


 孟柳潭もう りゅうたんは、江西省の外れ、鄙びた村の長者の一人息子だった。

 かれこれ三度目となる科挙試験への旅の途中、宿を求めて街の通りを歩いていた。しかし、どこの宿屋も運悪く満員で、しかたなく、街門を抜けた林で野宿をしようかと思いはじめていたころ、通りから少し離れた先に灯りが見えるではないか。近寄ると、ずいぶん古い屋敷であったが、中に人がいるようだ。これ幸いと、柳潭が戸を叩くと、

「はいはい、何のようだい」

と、恰幅のよい中年女が現れた。

「すみません、どうか一晩泊まらせていただけないでしょうか。この辺りの宿がどこも埋まっておりまして」

 礼儀正しく柳潭が頼むと、女は彼の頭のてっぺんから足の先まで、じっとりと見回した。不躾な視線に思わずたじろぐと、女はぱっと気の良い笑顔を見せ、

「そうかい、それは大層お困りですねえ。こんな古い屋敷でよければ、どうぞ体をお休めください」

 と、柳潭を招き入れたのだった。


 屋敷には、最初に出会った女と、その夫の二人しかいなかった。

「この街は都を目指す人たちがよく通るんで、科挙の試験なんかで若い男がに旅をする時期は、宿屋がいっぺんに埋まってしまうんですよ」

「ああ、私も科挙を受けるために郷里を出た一人です」

「まあ、そうなのかい」

 立派な若者ですねえ、と女におだてられ、

「夫婦二人のつましい屋敷ですが、一晩だけでも疲れを癒してくだされ」

 主人に勧められるがままに酒を酌み、質素ながらも十分なもてなしを受け、柳潭は悪い気がしなかった。


「やや、柳潭どの。そろそろお休みになられるがよい」

「客間に案内いたしましょう」

 すっかり酔っ払い、赤ら顔の柳潭を見咎め主人が言った。客間へと案内する主人とその妻の後ろを、千鳥足で柳潭がついて行く。入ると、小さな棚に書見台、寝台が置いてあるだけの質素な部屋だったが、柳潭の目を引いたのは、一方の壁に大きく描かれた天女の絵だった。

「ほう、これは素晴らしい天女だ」

 柳潭は酒臭いため息を吐きながら壁画に触れた。

 白壁には等身大の散華天女が悩ましげにこちらを見つめている。花を手に持った天女の姿は頬、胸、腹の稜線がなんとも艶やかで、誘惑せんとしなを作っている。

「美しいでしょう」

 主人が小鼻を膨らませて自慢した。

「ええ、とても」

「この天女は昔儚くなった子の姿を模しておりまして。今ではこの壁画を我が子同然に扱っているのですよ」

 親が子どもの髪を撫でるように壁をひと撫でした。主人の妻はどこから持ってきたのか米と水を盛った盃を載せた盆を棚の上に乗せた。

「この子のために今でも毎日、夕餉を準備しているのです」

 至極真面目に説明する女に、柳潭はほんの少し、背筋に冷や水を通した心地になったが、つましく暮らす夫婦にとって、この壁の天女だけがささやかな癒しなのかもしれぬ、と思いなおし、むしろ心暖かい夫婦の屋敷で——しかも、このように美しい女人の絵とともに——歓待を受けることができて幸運とさえ思った。


「それではお休みくださいませ」

「明朝、また朝餉にお呼びいたしましょう」

「ああ、ありがとう」

 夫婦が部屋から出ていき、小さな客間は柳潭と天女のたった二人きりとなった。

 覚束ない足取りで荷物を置き、着物を着替えて寝台に横たわった。

 寝台からは天女がよく見えた。目がまどろんではいたものの、壁に描かれた女子が何とも艶かしく、いつまでも眺めていたい心地になっていた。

 ろうそくの火が揺れると、天女の伏し目がちな瞳が潤んだように見えた。ぽってりとした唇から赤い舌がちろりと覗いて、吸うてほしいと強請ってくる。

 柳潭はふらふらと壁に近寄った。熟れた桃のような胸が描かれたあたりにそっと手を

つき——そして、目を丸くした。

 部屋に入った時は確かに壁だったその胸は、今、柳潭の手のひらにしっとりと吸い付いているではないか。

「ははあ、これは夢だな」

 酔っ払いの夢だと思った。手のひらを欲のままに動かすと、薄い壁のようなざらつきをわずかに感じるものの、その下で柳潭の思いどおりに胸が揉まれている。一歩足を踏み出すと、全身がこすれたような感触があったが、するりと体が通っていく。

 夢見心地に数歩進むと、胸と手のひらに挟まれていたざらつきも消え、ふくよかな女体が目の前にあった。壁画から抜け出たままの美女が青年の胸に体を寄せている。

「これは夢だな」

 柳潭はもう一度言った。

「いいえ、夢ではでございませぬ」

 天女が鈴の鳴るような声でささやいた。

「夢ではございませぬ。私は壁画に描かれた娘。どうか壁の中に閉じ込められた可哀想な私に、お情けをくださいませ」

 そして、ぽかんと開いた柳潭の口に、その魅力的な唇を寄せ、赤い舌を差し入れられた。

 健全な青年である柳潭は、その瞬間、ここが壁の中であることも、自分が酔っ払いであることもすっかり忘れ、女と自分の衣服を脱ぎ散らかすと、その場で押し倒して女体に溺れたのであった。


 翌朝、柳潭は「なんてことだ!」という騒ぎ声で目が覚めた。

 生あくびをしながら体を起こす。二日酔いの気はあるものの、なぜかすっきりした心地がしている。そして、部屋の中に屋敷の主人とその妻が、鬼のような形相で自身を睨んでいることに気がついた。


「お前さん、なんてことをしてくれたんだい!」

 恰幅のよい腹からの大音声で、妻が柳潭を責め立てた。

「奥さん、いきなりなんですか。いくら私が客人といえども、勝手に部屋に入ってきて」

 きいんとした耳をさすりながら問うと、女の隣で眉と目をつりあげた主人が大きく手を振りかぶった。

「あれだ! あの壁を見よ!」

「壁……」

 指さした先に視線をやると、柳潭は酔いなんてすっぱり覚めて、目を見開いた。


 ——壁の絵が、一晩ですっかり変わっていた。


 昨夜まで、壁の一面には散りばめられた花の海にたたずむ美しい天女の絵が描かれていた。絹の裳をまとった女がいた。

 しかし、今はどうだろう。花はすべて地面に落ち、女の衣服もひどくはだけ、明らかに情事の後を描いていた。

 確かにこちらの絵もまるで本物のように素晴らしい筆致だったが、こうにも絵が突然変わる訳がない。

 狐につままれたような顔で呆けていると、柳潭は昨夜の生々しい肌の柔らかさを思い出した。

「あの娘は、夜の……」

 柳潭がこぼすと、主人は、

「やはりお前か!」

 と声を荒げた。

「この壁画の娘を弄んだのは、お前だな!」

 責める言葉に、柳潭は思わず「待ってください!」と叫ぶと、慌てて寝台から飛び起きた。ほぼ丸裸の格好も厭わず、小さな部屋を横切り壁の前に立つ。

「昨夜、確かに私はこの壁に描かれた娘と良い仲になりました。だが、壁なんてなかった。私は確かに、この壁をすり抜けたのです!」

「壁をすり抜けるなど、お前は方術でも使うのか」

「そんなことはできやしません。ですが、壁を押したら中に入ることができたのです。ほら、このように……」

 ぺたりと手のひらを壁につけたが、冷たい壁の感触しかしなかった。桃のような柔らかい心地など全くしない。

 柳潭が強く押してみても、叩いてみても、うんともすんとも言わなかった。

「おかしいなあ。そうだ、隣の部屋を見せてください」

 何の仕掛けかわからないが、ひょっとしたら自分は壁をすり抜け、隣の部屋にいた娘と出会ったのかもしれない。隣室に行けば何か跡があるに違いない。柳潭はそう考えた。

「小賢しいことを考えているのかもしれないがね、隣の部屋には誰も、何もいないよ」

 主人の妻が言った。

 それでも何とか食い下がり、隣の部屋を見せてもらったが、柳潭の泊まった部屋と同じような客間の一つだった。そして、こちらの壁を押しても引いても、うんともすんとも言わなかったのである。

 

「そんな馬鹿な」

 柳潭は嘆いた。昨晩、女を楽しんだ覚えがある後ろめたさから、科挙試験を受けるために日々勉強に勤しんでいた柳潭といえども、冷静に考えることができなかった。

 主人が怒り声で不安を煽ってくる。

「昨日私は君に言った。『この壁画は我が子同然だ』と。それなのにこのような変わり果てた姿にするなんて」

「ま、待ってください。寝てる間に勝手に絵が変わったんです」

 確かに昨夜、この夫婦は壁画の娘を「我が子同然」だと言った。だが、かといって、この平たい壁に描かれた娘が、壁から抜け出し、柳潭と寝て、再び壁の中に戻ったとでも言うのか。

「ああ、私達の愛しい娘が、こんな行きずりの男に遊ばれるなんて、なんて可哀想な子だ」

「一体どう責任を取ってくれるんだい」

 夫婦は何とも恐ろしい顔で柳潭に迫った。

「壁と結婚なんてできませんよう」

 柳潭は嘆いた。現実にいる女であればまだ娶ってやれるが、相手は壁画である。

 壁に描かれた女とは、どうやっても結ばれようがないのである。

 娶る以外に自分ができることなら何でもするから勘弁してほしい、と涙ながらに訴えると、宿屋の夫婦は二人揃ってにんまりと口角をあげた。


「それなら、せめて娘を弄んだ迷惑料として、宿代をたっぷり弾んでもらおうかねえ」


 柳潭は仕方なく、有り金を全部叩くことになった。

 当然、科挙の試験どころではなくなってしまい、柳潭は都を目指すことなく帰郷し、父にひどく詰られる羽目になったのだ。


***


「……という話だったのです。どうです、老子。なんとも不可思議な話でしょう」

 孫は碁石を桶から掬いながら言った。それまで静かに孫の語り口を聞いていた呉は、

「ふぉ、ふぉふぉ。孫道士。簡単なことよ」

 と長い髭を揺らして笑った。

「そのように申されるということは、老子にはこの顛末の真相が見えているのですか」

 孫は驚き、手を碁盤に勢いよく置いた。ばちっと石が当たる音をきっかけに、呉は笑いを止めると、孫を愉快げに見つめた。

「どれ、道士。儂の見立てを語ってやろう」

 呉は人差し指を立てた。

「よいか。壁画の娘は、本当に夫婦の娘だったのだ」

「——何と。それはどういうことでしょう」

 思わず孫が聞き返すと、呉は「待っておれ」と言いおいて立ち上がり、ふわりと空中を歩いた。透明な床を踏みしめるように足をさばき、雲をひとちぎり掴むと呉の前に戻ってきた。呉は両手で粘土のように雲をこねると、碁盤の空いた場所にぽんと置いた。

 薄い板の形にこねられた雲を挟んで、白と黒の碁石を置くと、

「白を柳潭、黒を娘とする。間の雲は壁じゃ。柳潭は壁画の中に入り込んだと思ったようだが、その実、隣にいた娘の部屋に入り込んだのじゃ」

 白石をつうーっと滑らせ、雲の壁を通し、黒石の隣に置いた。

「老子。呉老子。それではますますわかりませぬ。この雲の壁をすり抜けることはできますが、柳潭の止まった宿屋はこの雲上にある訳でもなし、土と漆喰でできた下界の屋敷でございましょう」

「その通りだとも。儂や道士なら壁をすり抜ける方術も使えるが、役人を志す只人にそんな技は使えんよ。それゆえ、考えられるとしたら、壁に仕掛けがあったのじゃ」

 呉はしわだらけの細長い指をぴんと伸ばしたまま、雲の壁につきさした。碁盤に面した箇所からゆっくりと上へ指をとおし、何度か折り曲げる様子を見せてやると、孫が「あっ!」と何かに気づいたようだった。

「壁に穴が空いていたのですね!」

 孫の答えは呉の求めていたとおりのものだったので、老爺は楽しげに目を細めた。指を離し、のこぎりのように切った雲のはぎれを押して取り外す。碁盤には「凹」という字が逆立ちしたような形をした雲の壁が残った。

「これなら確かに、柳潭でも隣の部屋にやすやすと入れることでしょう」

 孫はですが、と反論した。

「壁画は穴を隠す目眩しだったのでしょうが、柳潭が部屋に案内された時と朝、壁は確かにあったそうですぞ。一体これはいかに」

「それもまた、壁画に細工がしてあったのだ」

 呉は袂から一枚の紙をつまんで取り出した。呉がすっと指を動かすと、切れ目が千々に入り、細かな暖簾のような形になった。

「壁と似たような色と触り心地の紙に天女の絵を描き、切れ目を入れるのだ。そしてその紙を、取り外しのできる壁にぴったりと貼り付けておくのだ」

 そうすることで、柳潭が部屋に入った当初は、触れても確かに固い壁の感触しかわからない。

「そして、柳潭が寝支度を整えている間にそっと壁を取り外し、娘は紙に描かれた天女と寸分違わぬ形で、紙の内側に立つのじゃ。部屋は暗く、ろうそくの灯りのみ。酔っ払った柳潭にはまさか壁が女と入れ替わっておるなどと気づかなかったのだろう」

 後は、柳潭が壁に目を向けた隙に女が誘惑する。

 事が終わり、眠りについた青年を夫婦がこっそりと寝台に戻し、天女が描かれた絵をはだけた娘の絵に変え、壁を戻す。

 

「さらにもう一つ。隣室に仕掛けがあったに違いない」

 呉は再び雲の塊を取ってくると、軽く捏ね回して、薄い壁を作った。

 そして、「凹」の壁の横に立てた。

「二重壁になっていたのじゃ。柳潭がもう少し注意深い男であれば、壁の厚さが合わないことに気づいただろうが」

 焦っていた彼はきっと気づかなかったのだろう。

 

 後は、話に聞いたとおりである。

 確かに壁画の娘を抱いたという記憶を質に、金を出すまで責め続けるだけである。


「なるほど、かような顛末だったのですか」

 感心する孫に、呉はふぉ、ふぉふぉと髭を揺らした。

「なに、聞いた限りでは、そのような裏が想像できるというだけよ」

「しかし、この夫婦はどうしてそのような真似をしたのでしょうか」

 孫が問うと、呉は、

「おそらく、今まで幾度もそうやって、宿にあぶれた旅人から金を巻き上げておったのだろう」

 と答えた。

 はじめに柳潭が宿を頼んだ時に、女が不躾な視線をよこしていた。それは、柳潭の身なりを見て、金持ちだと思い態度を変えたのだろう。壁に描かれた女と寝て金を盗られたなどと、役人に訴えてもこけにされるだけである。騙された旅人達は、泣き寝入りするしかなかったのである。


「性にしろ金にしろ、人は目先の欲を我慢できない生き物ですなあ」

 孫はしみじみと言った。

「それにしても、いやはや、さすがは呉老子。私はこの話を耳にした時、かような顛末が隠されているとは露にも思いつきませんでした」

「それは孫道士、修行が足りぬと言うものよ」

 ぱちり、と小気味いい音がした。

「あっ」

 孫は慌てて盤面に集中した。手痛い一手が打たれていた。

「世間話で気がそぞろになったのは、道士の方じゃったなあ」

 孫は思い出した。老子が壁画の謎がわかったと言った時、勢いよく盤面に手を置いたことを。そしてその時、呉は今と同じようなしたり顔をしていたことを。

「修行が足りぬなあ、孫道士」

 まったくもってその通りである。

 孫はがっくりと首を落として、負けを認めたのだった。



【参考文献】

 蒲松齢 作、立間祥介 編訳「聊斎志異(上)『五 壁画の天女——画壁』」岩波文庫



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