終章 中世の秋

 青一色の背景に、真紅の宝石をくわえたカラスである。

「いいだろう、私が考えたんだ」

 アイゼンヒュッテンシュタットの市長の館は、ヴィシェフラトとリブシェの講和会議のために、急作りで改装されていた。会場となる広間にて、奥の壁にでかでかと飾られた旗を指差して、マルトは鼻をふくらませた。

「これが北縁同盟の徽章ですか。なんだかかわいらしいカラスですねえ」

 羽を広げてよちよち歩くカラスの図案を前に、カレルは首を捻る。

「そうだよ。戦旗に使うつもりはないから」

「俺はいいと思うぞ。なにしろ北縁同盟の軍事・外交顧問殿が自ら考案された徽章だ」

 開け放たれた扉の向こうから、レオシュが入ってきた。

「やあレオシュ、久しぶり。リーグニッツからもう三ヶ月か」

 マルトはぱたぱたと手を振ってみせた。レオシュは意外そうに、

「ふうん。ちょっと見ない間に、華やぎってもんが出てきたなあ」

「きれいですね!」

 レオシュの後ろから、エリシュカが顔を覗かせる。

「ああ、この服ね。ヴィビイが持ってきてくれたんだ。まあ、こういう時くらいはいいかな」

 絹の光沢が美しい細身の翡翠色の服は、あの時のカワセミを思い出させ、マルトの気に入りになった。

「リブシェとの講和の席を用意してくれてありがとう」

 エリシュカのさらに後から入ってきた人物が、黒い大きな帽子を取った。ターリヒである。

「先生、ご足労恐れ入ります」

 マルトは表情を社交向けに切り替えて、深く頭を下げた。

 ターリヒはルドミラ女史を伴い、広間の奥へと進んだ。入れ違いでカレルが出ていく。その後ろ姿を見送りながらターリヒは、どことなく遠慮気味に言った。

「交渉ごとはほとんど話がついてるんだから、今日は形の上の式だね。マルト君もそう肩肘張らなくてもいいよ」

「肩肘張らないなら、たとえ先生でもぶん殴るかもしれませんよ」

 ルドミラがぎょっとして後ずさり、自分の裾を踏んづけてひっくり返った。ヴィビイに助け起こされるルドミラを横目で眺め、ターリヒは頭に手をやった。

「聞いたところだと、魔王も殴ったそうじゃないか。正直に言えば、私もやられる覚悟はしてきたよ」

 マルトは肩をすくめた。

「ご安心を、殴りはしません。でも確かめさせてください。先生はノエミと私を天秤にかけましたね」

「その通りだ。そして私はノエミ君に全て打ち明けた」

「私たち二人の他に候補はいなかったんですか? 軍とか、呪術院とか」

「単なる指揮官ならそれもあり得たろうが、リーグニッツで指導者と呼んでいい立場につけるのは、前の戦役で名を上げた君たちしかいなかった」

 ターリヒは苦渋の表情を浮かべて空中の一点を見た。

「話を聞いてすぐに、ノエミ君は自分がリーグニッツに行くと申し出てくれたよ。そして、君にはこのことを伝えないでほしいと言ってきた。私もそのつもりだったがね」

「わかりました」

 マルトは頷いた。

「先生の判断は、多分正しい。これ以上聞いても、お互い苦しくなるだけです」

「それでも君の怒りは収まるまいが」

 ターリヒは目を閉じて天を仰ぐ。

「理性で何が正しいのかわかっても、感情を止められない時もあります。ですが、先生が私の恩人であることは忘れていません。後は時間が解決してくれるでしょう。人間は変わりますから」

 マルトは、いつの間にか握りしめていた自分の拳を、そっと開いた。

「皆さん、もうすぐリブシェの方が見えますよ」

 戻ってきたカレルが告げ、それぞれが自席に着く。間もなく数名の供を連れて現れたのはカンドールである。

「おやカンドールさん、その節はお世話になりました」

 マルトが挨拶をするとカンドールも広い額を下げる。

「ご無沙汰ですな。本日はジークムント様自らいらしてはと提案したんですが、なにやら合わせる顔がないという話で、代理のあたしで失礼しますよ」

 マルトは苦笑する。

「オンディーヌの一件なら、十分反省したなら赦免しますとお伝えください。そのうち私の方からドレスデネーに伺いましょう」

「ええっ⁉︎」

 ルドミラが金切り声を上げた。

「あんた寝返ったの?」

「いいえ」

 マルトはにっこり微笑む。

「これはヴィシェフラトの軍属ではなく、北縁同盟の顧問としての発言ですよ」

 この三ヶ月、マルトはコトブスのジークムントと停戦の交渉を重ねつつ、カレルの父親であるアイゼンヒュッテンシュタットの市長にかけ合い、魔導鉄の採掘量を確認し、また出荷量の調整を進めてきた。おかげで市長に気に入られ、その強力な推薦で北縁同盟の軍事・外交顧問の地位を得たのだ。

「まったく、八面六臂の活躍だったね。あまり話が早く進むから、フンデルトヘルメでは事態を後追いで承認するしかなくなった。もちろん反対の声もあるんだが、北縁同盟の有力者になってしまっては、迂闊に召還もできない」

 ターリヒは両手を上げてみせる。

 マルトは頷くと、室内を見渡した。最奥には仲介者の立ち位置として北縁同盟、つまりマルトとカレルが座り、マルトから見て左側にヴィシェフラト、右側にリブシェの関係者が、それぞれ場を占めている。

「さて、そろそろ始めましょう」

 ヴィビイが扉を閉める。

 マルトは三枚の書面を掲げた。

「お集まりの三者で、停戦と今後のあり方について、文書を残します。三枚に書いてあることはどれも同じで、署名後に三者がそれぞれ一枚ずつ持つこととします」

 室内の面々が頷くのを見て、マルトは話を進める。

「まず、今回の戦役における所領の変更はない。これは当たり前ですね」

 マルトが話す間に、カレルとヴィビイが書面を一枚ずつ、ヴィシェフラトとリブシェの両者に配る。

「それから魔導鉄について。アイゼンヒュッテンシュタットで産出した魔導鉄のうち、四割はヴィシェフラト、三割はリブシェが、その購買権を持つ」

 書面には記されていないが、残りの三割は北縁同盟の勢力内での使用分、というわけだ。

「ただし、ヴィシェフラトとリブシェの一方が、他方または北縁同盟に侵攻した場合、北縁同盟は侵攻した側への魔導鉄の供給を停止する権利を持つ」

 会同した全員からため息が漏れた。これで、ヴィシェフラトとリブシェの両者とも、相手に対して簡単には戦いを仕掛けられなくなる。

「魔導鉄を抑止力にした和平条約というわけですな。貴女はやはり独創的だ」

 書面を確かめたカンドールは、満足そうに頷いた。その様子を見ていたレオシュが尋ねる。

「念のために聞くが、本当にいいのか? 前回、今回と続けてこっちの防衛が成功したが、はっきり言ってリブシェの軍はヴィシェフラトより強い。見方によっては羽をもがれるようなもんだ」

 カンドールは首を左右に振った。

「我々だって戦乱を望んでいるわけじゃありません。今回の戦いも、魔導鉄がヴィシェフラトに独占されることを恐れてのものでした。公けに魔導鉄を購入できて、かつ安全が保障されるなら、いうことはないですな」

「ヴィシェフラト側も異議はありません。ただ、本当にこれで安全が保障されるなら、ですが」

 書面から顔を上げたターリヒが言って、マルトを見た。

 不意を突かれて、心にさざなみが広がる。

「何か不足がありますか、先生?」

「そうだね。よくできた条約とは思うが、北縁同盟の戦力は不安じゃないかね。例えば、我々でもリブシェでも、電撃的にここを攻め落としてしまったらどうなるかな」

「それは……。とりあえず城壁は作るつもりでいますが」

 痛いところを突かれて、マルトは苦い表情になった。確かに、魔導鉄の流通を止める前にアイゼンヒュッテンシュタットが陥落したら、抑止力を発揮しようがない。

「そういうわけで」

 マルトが考えあぐねていると、ターリヒが突然立ち上がった。ルドミラから一枚の書類を受け取って、皆に示す。

「近々、アイゼンヒュッテンシュタットに、北縁同盟が運営する魔学校を作ることに決めたよ」

「ええっ⁉︎」

 目を丸くしたマルトを見て、カレルが笑いをこらえながら言った。

「ごめんなさい、マルトさんには秘密にしてました」

「魔学校なら、学校といいつつ即戦力になるからな。それと、ここなら差別もないから、半獣人も受け入れるぜ。ついでに言っとくと校長は俺だ」

 レオシュが親指で自分を指差した。

「魔学校が開校したら、カレルと私もこっちに移ります。またご一緒できますね」

 エリシュカがにこやかに言った。

「そのうち、我々からも留学生を受け入れてもらいましょうかね」

 カンドールは歯を見せずに笑い、その後で手元の書面にさっさと署名をすませてしまった。

「マルト君、呆けてないで進行をお願いするよ」

 ターリヒも署名しながら、マルトを促す。

「す、すみません。それでは署名を」

 マルト、ターリヒ、カンドールが代表者として、三枚の書面を回してそれぞれに署名を行う。

 書面の全てに三者の署名が入ったところで、マルトは三枚を重なり合うように並べて、その上に特大の印章をだんとついた。徽章と同じカラスの図案である。

「この通り、割り印も押しました。では一部ずつ」

 ターリヒにはカラスの頭、カンドールに羽の描かれた部分をそれぞれ渡し、マルトの手元には足が残った。

「これで講和が成立しました。――皆さん、ありがとう」

 マルトは深々と息を吸い込み、そして吐き出した。

「宴席の用意がありますから、別室へどうぞ」

 カレルが案内に立って、一同はぞろぞろと部屋を出ていく。マルトは後からついていく……ふりをして、途中で抜け出した。


 市長の館を抜け、橋の方には門番がいるので、重力を操って川を飛び越えた。すぐ目の前に、種まき時期が遅くてまだ収穫していないライ麦の畑がある。

 背の高い麦の畑に分け入れば、目に映るものはすぐに、黄金の麦の穂と青空だけになる。少し歩いて足を止め、目を閉じる。

 焦げ臭いような、乾いた草の香りを感じるのと同時に、これまでの体験がまるで目の前で起きているかのようによみがえり、今がいつなのか、一瞬わからなくなった。現実感というものが心から遠のき、ついさっきまでの記憶が、ほとんど夢と区別がつかなくなる。

 近くでがさっと音がして、マルトは目を開ける。赤い髪が視界をよぎった。

「ノエミ!」

 いるはずのない相手に呼びかけてから、マルトは苦笑する。

「ごめん、カレルか」

「ここだと思いました」

 麦の穂をかき分けて現れたカレルの瞳は、微笑んでいるのにどこか寂しさをたたえ、そうしてマルトは、自分がそれを求めていることに気づく。

「なんかふわふわしてね。自分がやったことが、自分で信じられないよ。ほんとに、ふわふわして」

 そう言いながら歩くと、実際に足取りがふらつき始め、マルトはカレルの胸に倒れ込む。

 マルトと同じくらいと思っていたのに、カレルの背は意外と高い。少しかがむと、額がカレルの肩にちょうど乗っかった。

「悪いけど、ちょっと支えて」

「あなたがよければ、いつまででも」

 その答えを聞くと、マルトはむしろ不安になる。

「やめてよ、そんな言い方は」

「なぜ?」

「――怖いよ。なくしてしまわないか怖くなるから」

「大丈夫です」

 何が大丈夫かはわからないが、カレルはにっこり笑って頷いた。その途端に涙がこぼれる。感情が全て涙に変わって自分の外に流れ落ちるまで、マルトは泣き続けた。

 どのくらいそうしたか、なにしろ感情の全てなので時間がかかったはずだ。マルトは自分が空っぽになったのに気づき、空っぽなのも具合が悪いので新たに満たしてほしいとカレルに頼んだ。

 マルトを見たカレルの笑みは、やはりどこか寂しそうだ。

「この前の答えです。あなたにそう言ってもらえて僕も嬉しい。けれど、今はまだ駄目です」

「どうして?」

「あなたは、僕の中にノエミさんの影を見ています。でも僕は僕です。あなたに僕を見てもらえるようになるまで、待ってください」

 カレルはマルトの頬をなで、残った涙をぬぐうと、回れ右をして去っていく。

 呼び止めようとして、しかしぎゅっと目を閉じ、思い止まった。

 マルトは残されて、麦を折らないようにそっと、仰向けになって地面に寝転んだ。

「ふられちゃったよ」

 つぶやいたのと一緒に、もう出ないと思った涙がまた流れたので呆れてしまった。

「望むものはそう簡単に手に入らない。私など二百年もかかったよ」

 甘い、花と木の葉の混じった香りがした。

「ゆっくりやればいい。お前には時間がある」

「そうね。ありがとう」

「礼を言うのはこちらだ。戦いを終わらせたこと、感謝する」

「まだまだ、これからどうなるかわからない」

「何が起きてもお前は、最後には解決するだろう」

「そう望むよ。できることはやるさ」

「ふふ、頼もしいぞ」

「一つ、教えてほしい。私と戦った時、強力な魔法を使えば、あんたは簡単に私に勝てたはずだ。なぜそうしなかった?」

「――ほう。ここからは、昼だというのに星が見えるな」

 マルトは黄金の麦の穂の向こうにのぞく青空を見上げた。

 群れから外れたカラスが一羽、当てもなく飛んでいく。


 時に、中世の末、である。

 魔学校での魔法研究の進展、魔導鉄の普及による民間社会への魔法の定着は、魔法学の体系化と、産業技術としての魔法の発展を強力に促進するだろう。そうであるなら、彼女はまさに中世を終わらせ、次なる時代の幕を開けようとしている。

 もとより彼女はそれを知らぬ。彼女にあるのは、今この時だけだ。

 この時、この空である。天辺を仰げば星でも映りそうな深い群青の空を、しかし彼女以外の誰も見てはいない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

反薄暮光 〜五人の独演者のためのメタモルフォーゼン〜 小此木センウ @KP20k

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ