第十二章 予言が成就する時

 リブシェの軍勢三千が地平線に姿を現したのは、レオシュ、エリシュカと別れて五日後の朝である。

「三千も集まると壮観ですね」

 要塞の城壁の上、防衛戦に備えて多くの兵を配置できるよう幅広に作られた回廊で、ノエミが言う。

「こっちにも同じだけいるじゃないか」

 同じ城壁上で待機している兵たちを眺めてマルトが笑うと、ノエミは首を振った。

「三千というのは、要塞の中の雑用まで含めて盛った数字ですよ。国軍と魔学校と呪術院の混成ですし」

「今になってそんなこと言わないでくださいよ」

 珍しくカレルが苛立った声を上げた。

「カレル、怖いのか? 君はパンノニアでも戦ったろう。今の四倍くらいは敵がいたぞ」

「あの時は、こっちから攻めてたから怖くなかったんです。敵が来るのをじっと待ってるのって、嫌な気分ですね」

 緊張でこわばったカレルの肩を、マルトはぽんと叩く。

「攻める側、守る側、それぞれの気持ちがあるさ。そんなのを知ることを成長っていうんだ」

 負け戦も知ればさらに成長するわけだが、それが今回であってほしくはない。

「それにしても、キメラの姿が見えないのが気になりますね」

 ノエミは周囲を見渡して首を傾げた。

「だが、予言を成就させるために、キメラは絶対に来る。おそらくこちらに悟られないよう擬装しているんだ」

「擬装? どうやって?」

 ノエミは首を傾げる。

「そこまではわからないよ」

 とマルトが答えた時、遠くから小さな地鳴りが聞こえた。

 風向きが、不意に変化する。

「来たな」

 地鳴りは急速に大きくなった。

「何だ?」

 マルトは目を擦った。彼方の空が、不自然に歪んだように見えたのだ。

「見えない何かがいます」

 ノエミが額の汗を拭った。

 風に乗って、めきめきと木のきしむ音が伝わってきた。目を凝らすと、最前歪んで見えた空の下の緑が、次々と白っぽい荒れた色に変わっていく。木々がなぎ倒され、折れた幹や地面が露出しているのだ。

 カレルが、腰の収納具から半分に割れたシュトゥーラー・エミールの魔導器を取り出した。マルトは魔力を注ぎ、話しかける。

「こちらマルトだ、聞こえるか」

「はい、聞こえます。エリシュカです」

 やや声が遠いが、はっきりと答えが聞こえた。

「リーグニッツにキメラが現れた。もうすぐ戦いが始まる」

「こちらは、まだ敵軍に動きはありません」

「先にリーグニッツを攻めさせてから動くつもりだろう。警戒は怠るな」

「了解!」

 マルトは通信を止めて立ち上がり、魔導器をノエミに手渡した。

「ここの指揮官はノエミだ。だからこれは君が持っていてくれ」

「わかりました。でもマルトさん、自分が指揮しないからって、一人で無茶しないでくださいね」

 ノエミは魔導器を自分の懐にしまってから、副官を振り返った。

「準備はできてるな」

 その時、敵軍から鬨の声が上がった。キメラと足並みを合わせ、一斉に攻め寄せるつもりだ。

 城兵たちも、弓に矢をつがえ始める。その横で、魔導士や呪術士も配置についている。

「キメラとは戦うな。おそらく通常攻撃は効かない。敵兵を狙うんだ」

 ノエミが腕を上げて指図する。

「皆、信じているぞ。戦い抜け! 星々はあまねく我らの道を照らさん!」

 唱和の声がどよめき、うねる。

「ノエミも大した役者になったな」

 マルトは感心してノエミを見た。

「内輪話をしている場合ではないですよ」

 しかしノエミの視線はマルトの背後に向かっている。振り返ると、空の一点に奇妙な黒い歪み、いや、歪みというよりはひびが入っていた。

「――出てくる!」

 カレルの言葉に合わせるように、一気にひびが広がったと思うと、次の瞬間空が割れてこぼれ落ちた。その向こう、黄金色の異様な怪物の姿が露わになる。

「でかいな……。ここまでとは」

 体高は、おそらくシュトゥーラー・エミールの二倍はある。要塞の城壁をしのぐほどの高さから、巨大な頭部がこっちを見下ろしていた。

 頭には、巨大な真円の赤い目が一つだけあった。口は鰐のように長く、前向きに湾曲した細い角が二本伸びている。頭のすぐ下、胸の上のあたりには、骨が密集したような硬質な塊が飛び出していた。

 足は、前足しか見えない。それもひれの形に変化しているが、コウモリの羽のように筋張っており、先の方には鋭い爪が見えた。下半身は腹が地面についていて、前足で胴を引きずって歩いている。魚の尾びれを思わせる鎌のような形の尾、その一部が途中で分岐し、細い四つの触手になっていた。ドレスデネーで見たのはこの触手だ。

「手はずどおりに」

 ノエミが言ってマルトを見る。

「わかってる。カレル、行くぞ」

「はい!」

 マルトはカレルとともに、魔導士たちが待機している城壁の一角に走る。

 その間にも、キメラは近づいてくる。

 キメラは要塞の南側に向けて進んでいる。それに対してコトブスから来たリブシェの軍勢は、北側を狙っているようだ。

「見た目より速いですね」

 城壁に身を隠しながらカレルが言う。

「ああ、他の敵兵より先に射程に入りそうだな」

 マルトも城壁の影に入り、顔だけ出して敵の様子をうかがった。

「しかし、オンディーヌはどこにいるんだ? 必ずどこかからキメラを操っているはずなんだけど」

「オンディーヌって魔人、怪我をしてるんですよね? 森か何かに隠れてるんじゃないですか?」

「そうだな……」

 ノエミに撃たれたオンディーヌの姿が頭に浮かぶ。

 あの時、最後の最後で、オンディーヌはヴィビイを助けた。まだ話し合って軍を退かせる余地が残っているのではないかと、それが楽観的な希望とわかっていても、マルトは思ってしまう。

 しかし、オンディーヌの傷はかなり深いものに見えた。キメラの指揮などできるのだろうか。いや、目の前にキメラがいるのだからできているはずだが。

「マルトさん!」

 つい取り留めのない考えを巡らせている間に、キメラはかなり接近している。四つの触手が宙に吊り上げられるように持ち上がった。

「隠れろっ」

 ドレスデネーと同じ、曲がりくねった黄金色の光線が放たれる。敵兵に備えて城壁の前に用意した柵や逆茂木が、甲高い音響とともに弾き飛ばされる。だが、すぐに音はごく小さくなった。城壁に込められた呪術が機能している。

「うまくいってるな」

 城壁の影からマルトは身を乗り出す。が、すぐに体を引いた。その顔をかすめて、敵の矢が飛んでいく。と思う間に、今度は頭の上を味方の矢が飛び越していった。本格的に、戦いが始まった。

「光線が止まりました――あっ」

 カレルが慌てて身を隠す。キメラが、今度は顔面から火を吹いた。炎の舌が城壁上の回廊をなめ、何人かの兵が火だるまになった。

「気をつけろ! 城壁が攻撃に耐えても、人間は生身だぞ」

 マルトも身を伏せながら叫ぶ。

「魔導隊は攻撃準備。まだ撃つな」

 今回マルトが従えるのは三十名弱の魔導隊。目標は敵兵ではなくキメラだ。

 マルトはノエミに向かって振り返った。城壁上に設置された大きな石造りの部屋の前で、ノエミは指揮を取っている。その顔がこっちを見て頷いた。

「よし、そろそろだ。攻撃開始!」

 合図と共に、魔導士たちがキメラに魔法を放つ。カレルも、多少はそれらしい形になった火球をキメラの一つ目を狙って撃ち放った。すぐにキメラの皮膚の上で、大小の爆発が起こった。シュトゥーラー・エミールのような防御性能は持っていないようだ。だが大して攻撃が効いているようでもない。

 キメラの顔がこちらを向いた。

「伏せて」

 カレルがマルトを引っ張る。刹那、四本の光線が浴びせかけられた。

「すごいな。さすがにこれだけ一遍に来ると隠れてるくらいしかできない」

 マルトは苦笑いしながら、再びノエミのいる方を見る。石の部屋に入ったのだろう、その姿は見えない。

 さらに見ていると、石の部屋の前面が少しずつ動いている。前の壁全体が、巨大な引き戸になっているのだ。

 しかし、その時光線の一本が石の部屋に向かった。

「しまった」

 カレルが舌打ちする。

 強烈な光が部屋を通過し、引き戸の動きが止まった。すぐに部屋の後ろの小さな扉が開き、ノエミが顔を見せた。

「こっちは無事です。だけどこのままじゃ撃てない。敵を引きつけて!」

「引きつけてますよ!」

 カレルが返した。四本の触手のうち三本は確かにマルトたちを狙っているのだが。

「減らすしかないか――」

 マルトはしばし考えて、

「カレル、例の剣は持ってるな」

「魔導鉄の剣ですね。もちろんここに。没収されそうになったけど、レオシュさんが助けてくれました」

 カレルは左の腰に下げた剣を叩いた。

「よし、ここからは予定外の行動だ」

 マルトは腰のケースから短銃を抜き取り、城壁から下の地面に向けて撃った。弾は煙の筋を引いて地面に着弾する。右手で銃を戻しながら、左手で小さな火球を作って放つ。空中で立て続けに小さな光が爆ぜて、瞬く間に白い煙が立ち込めた。

「これは? 魔装徹甲弾じゃないですね」

「魔導士用の煙幕弾だ。ノエミが考えたんだってさ」

「へえ、面白いですね」

 感心しているカレルにマルトは微笑む。

「じゃあ行こう」

「えっ? 行くってどこへ」

「キメラのところだよ」

 言うなりカレルの肩を抱いて、城壁から飛び降りる。

「え、うわっ、わーっ!」

 悲鳴を上げるカレルを強くかき抱きつつ、煙幕で距離感の把握しづらい地面を見透かす。左手で細かく重力を調整しながら、ふわりと着地した。

「と、飛び降りるなら先に言ってくださいよ。死ぬかと思った」

「悪いな。城壁は魔力が無効化されるから、直接地面と重力調整するしかないんだけど、うまくいくか微妙でね。いちいち説明すると余計に怖がらせるし」

「微妙って、冗談でしょう」

 カレルは今になって震え始めた。

「そうね」

 煙が薄らいできた。

「おっと、時間がない。あの妙なしっぽのところまで、急ぐぞ」

 マルトはカレルの腕をつかんで走り出す。

「あそこまで行って、次はどうするんですか」

 ばたばたとマルトの後を追いながら、カレルが聞く。

「決まってるだろ。切るんだ、君の剣で。少なくとも二本はやらないとな」

「ええっ、届かないですよ」

「さっきみたいに、私が重力を操作する。カレルは剣に集中しろ」

「は、はい!」

 話しながらキメラの右半身の横を駆け抜ける。間近で見れば、ますます大きい。ほとんど小山である。

「あったぞ。あれだ」

 右の触手の付け根の一つが、ちょうど尾の始まるあたりの胴体の上に見えた。

「準備はいいか」

「いつでも」

 カレルの剣が光り出した。

「よし、つかまれ」

 自分でもカレルの胴に右腕を回し、左手で重力を反転させてキメラの尾の方に跳ぶ。ところが、突然キメラが動いた。計算より早く、その背中が迫ってくる。

「離すなよ!」

 叫びながら、自分に向けて突風を起こす。風にあおられて揺れながら、巨大な鱗が並ぶキメラの背中に二人は危うく降り立った。

「カレル、前だ」

「はい!」

 剣を振りかぶり、光の軌跡を残しながらカレルが走る。そのままの勢いで、大人の二抱えはあるそうな触手に剣を振り下ろした。

「切れた!」

 ざっくりと、赤い切り口が見えた。次の瞬間、その切り口から火花を噴きながら触手が暴れる。カレルは慌てたようにその場に伏せた。

 マルトは左右両手を合わせ、真空の刃を作って撃ち出した。一発撃ってはさらに一発。カレルの作った切り口に次々と撃ち込んでいく。

 四、五発は撃ったところで、触手の動きが止まった。ゆっくり横倒しになったと思うと、地面に落ちる前に灰に変わって四散していく。

「よし、一本やった」

 カレルの顔が輝いた。が、それも束の間、キメラの背中が激しく揺れ動いた。

「カレル!」

 足元の鱗にしがみついたカレルに向かってマルトは走った。途中からは走るというより跳ね飛ばされるようになりながら、それでもあと一歩のところまで近づき、手を伸ばす。

 だがその手は空をつかんだ。激しく打ち震えた背中から、二人は空中に投げ飛ばされる。

「剣はしっかり握ってろ!」

 怒鳴りながら、カレルに向けて重力場を作る。見る間に近づいてきた体を右腕で抱き止めたところで、目の前に地面が見えた。全力で重力を操るが、勢いのついた体は止まらない。地面にぶつかると思った時、カレルが体をひねった。そのまま、カレルが下になって墜落する。

 マルトはすぐに起きて、カレルを抱き上げた。

「カレル! しっかりしろ」

「だ、大丈夫です。この前の罪滅ぼしになりました?」

 カレルは笑って見せた。が、すぐに表情がこわばる。

「マルトさん、キメラが!」

 はっとして振り返ると、触手の先端がまっすぐこちらを狙っていた。花弁にも見える鱗が放射状に開き、その中から、蓮の花の中心にある花托のような、たくさんの穴が空いた器官が姿を見せる。穴の奥から光がこぼれた。

 咄嗟に左腕が出る。目の前に、かつてジークリンデが使っていたのと同じ、四角い結晶のような透明な壁が現れ、触手から放たれた光線を弾いた。

 光線が止まり、マルトはよろけて地面に膝をついた。体が重く、目まいがひどい。あの防壁は急激に魔力を消費するらしい。軽々と使いこなしていたジークリンデは化け物だ。

「マルトさん、逃げましょう!」

「あ、ああ」

 カレルに肩を借りて二、三歩走り出したところで、しかしマルトは再びよろめいた。

「……すまない、先に行ってくれ」

「駄目ですよ!」

 カレルはマルトを背負って走り出した。背後からは触手が迫る。

 しかし、カレルは細い身体にかかわらず体力があった。マルトを背中に乗せたまま、かなりの速さで駆けていく。

「置いていけよ」

 そう伝えながらも、マルトの両腕はしっかりとカレルを抱きしめる。

「嫌です。離しません」

 カレルは短く答える。

 こんな時だというのに、それともこんな時だからこそ、マルトの中に一つの感情が芽生える。カレルの耳に口を近づけ、低声でささやいた。

「こんな時だってのに何言ってるんですか!」

 カレルは、慌てたような怒ったような口ぶりで声を上げた。くっくと笑って、そこで気がつく。

 キメラの魔力の気配が薄らいでいる。

「カレル、止まってくれ。様子が変だ」

「は、はい」

 ようやく目まいが治まり、カレルの背から降りて振り向いたマルトの目に、小柄な後ろ姿が飛び込んできた。

「ヴィビイ! 部屋にいろって言ったのに」

「敵が来る前にそこの森に隠れてた」

 ヴィビイはこっちに顔を向けずに答えた。次いで上を向いて、

「オンディーヌ、あなたに会うため。オンディーヌ!」

「オンディーヌ? どこにいるんだ」

 マルトは左右を見回す。しかし、その姿は見えない。

「うっさいなあ、聞こえてるよ」

 ところが、どこからかオンディーヌの声が響いた。

 キメラの動きが止まり、その上半身がゆっくりとこちらを振り向く。胸についた骨質の塊が幾枚も剥がれて、中からオンディーヌの上半身が姿を現した。

「よう、ヴィルベルヴィント。後で探すつもりだったけど、そっちから来てくれるとは好都合だぜ」

 やけに赤く見える唇の端を上げて、オンディーヌはにやりと笑った。次にマルトへ視線を移す。

「マルト、お前はすぐに殺してやろうと思ったのに、相変わらずしぶとい奴だ」

「オンディーヌ! どうしたんだ、その姿は?」

 マルトが言うと、

「もう忘れたのか、この前教えただろう」

 オンディーヌはますます唇を吊り上げて答えた。

「成体融合だよ」

 マルトは目を閉じ、うなだれた。

「あんた、自分の身体を――」

「ははっ、貴様、同情するつもりか」

 オンディーヌは嘲笑うように言った後で、マルトを睨む。

「そんなものはいらん。この体、ゼー・ユングフラウ。私が望んで手に入れたものだ。ジークムントのために」

「待て、オンディーヌ。違うんだ。この戦いは囮なんだ」

「知ってるよ」

 オンディーヌは低い声で言った。

「知ってる。ジークムントにとって、私は捨て駒に過ぎない」

「だったら、もうやめよう。私たちが戦う理由はない」

 マルトはオンディーヌに手を伸ばす。

「黙れ!」

 オンディーヌは怒鳴った。

「ジークリンデ、いや、マルト、どっちだって同じだ。貴様はいつも人を哀れみの目で見やがって。たとえ私の手が届かなくても、ジークムントはお前にだけは渡さん」

 キメラの触手が、再びマルトに向けられた。

「どうしても、戦わなければならないのか」

 マルトはオンディーヌと、その向こうの要塞を見た。城壁上の石の部屋が開け放たれている。部屋の中に、傘を逆さにして柄をこちらへ向けたような物体が見えた。

「当たり前だ」

 オンディーヌは吐き捨てた。

 マルトは要塞の上のノエミを見上げた。ノエミが頷くのがわかる。

「すまない」

 マルトが言った、その時。

 空気が一点に収束する感覚。次に明滅。さらにその次の瞬間、法外な光の束が一直線に放たれた。爆風でマルトは吹き飛ばされる。

 呪術院と魔学校が協働して作り上げた兵器、重力砲だ。

 要塞内に保管された魔導器の力を、漏斗状に配置された呪具にため込み、さらにそれを一気に解放して中央に配された砲身に集めることで、極限まで集約した魔力を重力に変換して射出する。

 低い轟音が鳴りやまず、太陽の色までくすぶって見える中、マルトは頭を押さえて立ち上がる。

「カレル! ヴィビイ!」

 返事の代わりにごほごほいう咳の音が二つ聞こえた。間もなく二人が起き上がる。

「良かった、無事か」

「はい……キメラは?」

 マルトはキメラの巨体を見上げる。左半身を中心に、白い煙がもうもうと渦を巻いている。

「直撃、でしょうか?」

 カレルがゆっくりと、前に一歩足を進めた。

「ああ。……だが」

「オンディーヌ!」

 マルトの脇を、叫び声を上げながら黒い小さなものが駆け抜けた。

「ヴィビイ! 駄目だ、まだ行っちゃいけない」

 マルトが言った時、キメラが動いた。

「くそっ! やってくれたな、貴様」

 怒りに燃える、オンディーヌの声。煙が晴れ、キメラの全身が明らかになった。後半身の左側がざっくり削れ、三本あった触手のうち二本が消し飛んでいた。

「オンディーヌ、もうやめて!」

 ヴィビイがもう一度叫んだ。

「ヴィルベルヴィント、まだそんなところに――」

 残り一本の触手がヴィビイに向かって動く。その先端が大きく広がり、真っ黒い穴になって、あっという間にヴィビイを飲み込んだ。

「ヴィビイ! オンディーヌ、やめろ!」

「黙れ! 貴様らにヴィルベルヴィントを預かる資格はない」

「マルトさん、危ないっ」

 カレルに突き飛ばされて、マルトは仰向けに倒れた。そのすぐ目の前を、触手が横なぎに行き過ぎる。

 立ち上がったところに、今度は光線が着弾した。必死で跳びのいた背中に、光線でえぐられた土砂が雨のようにかぶさる。

「貴様らも許さあんっ!」

 オンディーヌが絶叫し、キメラが城壁に向かって突進した。大音声と共に大地が立っていられないほど揺れ、城壁の一部、ちょうど重力砲のすぐ前の部分が崩壊した。

 ここぞとばかりに、リブシェの軍から要塞への攻撃も強まる。

「このままじゃやられる。もう一発、撃てないんですか」

 カレルがマルトの二の腕をつかんだ。

「そう簡単にはいかない。砲身を冷やさないといけないんだ」

「でも、待ってる暇は」

「ない」

 触手が、再びマルトたちを狙って動く。城壁を攻撃している前半身とは別の生き物のようだ。マルトはカレルに頷き、走り出す。

「こいつ、一本だけでもしつこい」

 右に左に、小刻みに方向を変えて逃げる二人を、触手はどこまでも追いかけてくる。

「らちが明かないな。カレル、別行動だ。君はあの触手をやってくれ」

 幸い、残された触手の付け根は地面に近い。カレルだけでもなんとかなるだろう。

「はい。マルトさんは?」

「私はオンディーヌをキメラから切り離す。それで制御を失うはずだ」

「わかりました! 気をつけて」

「お互いにな」

 頷き合って、二人は真逆の方向に走った。カレルが触手の付け根に向かうのを確かめて、マルトは左手で重力を操り、再びキメラの背中に飛び乗る。左右それぞれの手の魔力を確かめ、キメラの首に向かって駆けた。

 オンディーヌの体は巨大な首の前方についている。走りながら重力の向きを徐々に変化させ、マルトは首を回り込み、剣を抜く。

「くそっ、また来やがった!」

 マルトの姿を見るなり、オンディーヌは白い骨の膜を閉じ、殻の中に閉じこもった。一呼吸遅れ、マルトの剣が届く。が、剣は弾き返される。

 だが、それでマルトにはわかった。見た目は硬そうな膜だが、実際はかなり柔らかい組織を基に、強力な魔装で防御力を高めているのだ。

 ならば対処できる。マルトは右手に魔力を集め、共振波に変える。青い光を放つ右腕を、オンディーヌのこもる殻に打ち込んだ。

 一瞬で殻に無数のひび割れが広がり、ばらばらになって崩れた。両腕で頭を覆ったオンディーヌの姿が顕らかになる。マルトは剣を振り上げる。

 しかし、首を討とうとしてやはりためらい、その剣は空中で止まった。

「同情するなと言ったよな」

 腕の間から、オンディーヌの目が睨んだ。次の瞬間オンディーヌの体は、マルトと同じ高さまで持ち上がる。

 もはや人のものではない、キメラと入り混じり繋がったその下半身がマルトの目に入る。

 剣を振り下ろそうとしたが遅かった。オンディーヌは片腕で剣を押さえ、もう片方でマルトの首を締めつける。

「あんたのことは嫌いじゃない。だが私は躊躇しないぞ」

 より一層の力で、オンディーヌの細い指が食い込む。

 マルトの頬を、涙が伝った。

 左手に残るジークリンデの力で、剣を押さえるオンディーヌの腕を払いのける。剣を逆手に持ち替えて、オンディーヌの背と下半身の継ぎ目を刺し貫いた。

 オンディーヌが声にならない叫びを上げる。同時にキメラが激しく体をよじった。空中に投げ出された身体を操り、風に吹かれる枯れ葉のようにマルトは地面に降り立った。

 カレルを見ると、ちょうどこちらに走り出したところだった。その横で、半分千切れた触手が地面をのたくっている。

 次に、マルトは城壁を見上げた。同時に、苦し紛れか、キメラが重力砲に向かって炎を噴いた。わずかに速く、何人もの呪術士が、魔装した盾で砲の前に壁を作る。

 城壁の煉瓦が飴のように曲がるほどの火炎に、しかし呪術士たちは誰一人動かない。と、キメラの横面にいくつもの魔法が命中した。城壁に残した魔導士たちだ。

 ひるんだキメラの炎が止まる。

「どけっ! 速く」

 呪術士たちの後ろからノエミの声がした。重力砲の重たい砲身がせり出して、斜め下を向く。

「マルトさん、伏せて!」

 後ろから来たカレルが声を張り上げ、マルトは地面に手をついた。重力砲の発射音がして、光の束がキメラを貫く。光はそのまま地面に激突し、大地を揺るがした。

 地面に這いつくばった姿勢のまま、二人は手を握り合って、四方八方から押し寄せる爆風に耐えていた。

 爆風はかなり長い間吹きすさんだが、やがて唐突に収まった。

 見上げると、キメラは静止していた。角を一本えぐり取られ、半分になった顔面が、力なく城壁にもたれかかっている。マルトは立ち上がり、その真下に走る。

 オンディーヌが、頭を下にしてキメラの胸からぶら下がっていた。

「オンディーヌ!」

 真っ白い顔をこちらに向け、オンディーヌは静かに笑った。

「……はは、負けた」

「私だってあんたが嫌いじゃなかった」

 マルトはうなだれる。

「それなら一つ、頼みがある」

 オンディーヌは自分の胸に手をやった。

「私の魔導器は融合してない。本当ならあんたのものだ。でも、あんたが許すならジークムントに――」

 そこで言葉は止まる。次の瞬間、オンディーヌと共に、キメラの巨大な体の全てが灰に変わって崩れた。

 滝のように落ちてくる灰の中から、マルトの足元に、ルビーのような真紅の魔導器が転がった。拾い上げて、まだ体温の暖かさのあるそれを、マルトは両手で包み込む。

「あっ、ヴィビイ」

 カレルが声を上げた。灰の山に変わったキメラの中から、黒い塊が這いずり出て、こちらへ駆けてくる。

「ヴィビイ! 良かった……」

 走ってきたヴィビイは、速度を緩めずマルトに抱きついた。灰の中に転がり込んだマルトの胸でヴィビイは泣きじゃくった。

「オンディーヌが。止められなかった」

「君のせいじゃない」

 さっき、オンディーヌは、ヴィビイを吸収しようとしたんじゃない。今さらになってマルトは思う。ただ、連れ帰ろうとしただけだ。

「マルトさん、見てください。敵軍が退却してます」

 マルトは立ち上がった。カレルの言う通り、リブシェの軍勢は、こちらに背を向け去っていく。ただその整然とした歩みは、浮き足立って逃げ出すという風はなく、むしろオンディーヌのための葬列であるように見えた。

「終わった……」

 カレルがへなへなと膝をついた。ヴィビイが泣き止み、マルトの心も少しゆるんだ。

 しかし。

「カレル、まだ君の故郷のことがある。ノエミのところへ行こう」

 カレルもはっとして立ち上がった。


「二発目の発射はかなり無理がありました。砲身自体は無事でしたが、魔導器の力を伝える導線が焼き切れてしまって――」

 マルトの顔を見たノエミは、困ったように眉を下げ、やや傾いた重力砲を指差した。

「敵が退却してくれたのは幸いだったな」

 西の地平に去っていく敵を、マルトは振り返った。キメラとの戦いで自軍はかなり消耗した。要塞にこもっているとはいえ、このまま戦いが続いていたら、勝てていたかどうか、なんとも言えない。

「それより、早くアイゼンヒュッテンシュタットと通信を」

 カレルが急かす。ノエミは懐から半分の魔導器を取り出し、魔力を送った。

「エリシュカ、エリシュカ、マルトだ。聞こえてたら応えてくれ」

「マルトさん!」

 切迫したようなエリシュカの声が聞こえ、マルトたちは顔を見合わせた。

「エリシュカ、どうした?」

「敵軍が近づいてます。このままだともうすぐお互いの射程に入ります」

「なんだって? 早く止めないと」

 カレルの顔に焦りの色が浮かぶ。

「おい、そっちの状況はどうなんだ」

 レオシュの声が割り込んできた。

「キメラは倒した。敵軍も撤退してるぞ」

「そいつは良かった!」

 少しの間通信が止まり、やがて低い歓声が聞こえた。レオシュがこちらの戦況を伝えたのだろう。

「待たせたな。リーグニッツの戦勝は良かった。だがこっちは少々まずい」

「現状ならエリシュカから聞いた。手はずどおり、ジークムントと話したい」

「それが、駄目だったんです……」

 再びエリシュカの声が入ってくる。

「駄目? どういうことだ。何があった」

「こちらの魔導器でマルトさんと話してほしいと、既に二回申し入れました。でも二回とも断られたんです。向こうも戦況を把握してるっていわれて」

「そんな――」

 カレルが呆然と言った。

「撤退を薦めます。多勢に無勢です」

 冷静な口調でノエミが告げる。レオシュの唸り声が聞こえた。

「そうしたいところだが難しい。こっちの連中、血気盛んでな。死んでも街は渡さんと息巻いてる。パンノニアは他人事だったが、ここは自分たちが汗みどろで切り拓いた土地だからな」

「では、あなたたちだけでも戻ってきては」

「そうだな」

 レオシュの口調は暗くなる。

「じゃあエリシュカ、お前が戻れ。俺は残る。ここは俺の生まれ故郷だ」

「絶対に嫌です!」

 エリシュカの声が響く。

「私にはまだ教えることが山ほどあるって、レオシュさん言ったじゃないですか。全部教わるまでそばを離れません」

「おいおい、弱ったな……」

 レオシュとエリシュカのやり取りを聞いても、マルトたちは一言も出ない。このまま、街を見殺しにするしかないのか。

「マルト」

 その時、ヴィビイがマルトの裾を引っ張った。

「何だ、ヴィビイ?」

「マルトが直接行って、ジークムントと話せばいい」

「ヴィビイ、それじゃ間に合わないんだ。リーグニッツまで何日かかると思う」

 カレルがうつむいたままで言った。だが、ヴィビイは首を振って言いつのる。

「間に合う。ジークリンデと同じようにすれば」

「待ってくれ」

 マルトは思い出した。ジークリンデが戦場において神出鬼没と呼ばれていたことを。

「ジークリンデは何かの方法で、離れた場所同士を繋いで移動していたのか?」

「そう」

「どうやって⁉︎」

 カレルがヴィビイの両肩をつかんだ。ヴィビイは半分の魔導器を指差す。

「通信と同じ。半分ずつに割った魔導器に魔力をためて、空間を繋いでた。詳しい方法はわからないけど、マルトならできるかも」

 全員の視線が、マルトの左手に集まった。

「やってみるしかないか」

 マルトは頷いて、左手を魔導器に当てる。

「待ってください」

 しかし、ノエミがその腕をつかんだ。

「できるかどうかもわからないことのために、魔力を使うんですか。それよりも次の戦いのために消耗を避けるべきです」

「そうね」

 マルトは微笑む。

「ノエミのいうことの方が合理的かもしれない。だけど悪い、私は行き当たりばったりでいい加減なんだ」

 ノエミの手をそっとよけ、マルトは全ての魔力を左手に集める。そのまま魔導器に触れると、その周りに、陽炎のように揺らめく半透明のもやが立った。

 マルトはまだ見ぬ目的の場所を想像する。広い、黄金のライ麦畑。そこに渡る風。風の吹く先には、わだちの跡も新しい小道がある。道をたどるその向こうに、二本の川に挟まれた街。街の周縁は、ところどころ木の柵で囲われている。柵の内側には武器を手にした兵士と住民の姿。そして、半分に割れた魔導器を食い入るように見つめる、レオシュとエリシュカ。

「見えた!」

 カレルが叫ぶ。薄もやの中にはっきりと、エリシュカの顔が見える。

「マルトさん! 空間が繋がりました! もう少しです」

 エリシュカの声が届く。しかし、空間の接点はそれ以上広がらない。

「カレル! 切り裂いてくれ!」

 全身の力を魔導器に集中しながら、マルトは叫ぶ。

「はい!」

 カレルは切っ先を下にして剣を構え、わずかな時間でまばゆいほどに輝いたそれを空間の接点に差し入れたかと思うと、一瞬で切り上げた。

「開いた――」

 つぶやいたエリシュカの姿が間近に見えた。空間の接点は、予想以上に大きく、縦長に開いている。

 マルトは少しずつ、魔導器から手を離す。空間が少し揺らいだ。が、エリシュカが手を当てるとすぐに揺らぎは収まった。

「カレル、エリシュカ、悪いけど不安定にならないように見ていてくれ。私はジークムントに会う」

「行っては駄目!」

 突然ノエミが悲鳴のように叫んで、マルトの肩にしがみついた。

「おい、いきなりどうしたんだ」

 そう言いながらノエミの顔を見て、マルトは驚いた。

 ノエミは泣いていた。

「行ったらあなたは死んでしまう」

「危険がないとは言わない。けれど、そう簡単には死なないさ」

「違う!」

 下を向いたノエミの顔から、マルトの軍靴にぽたぽた涙が垂れてしみを作る。

「予言には続きがあるんです」

「何だと! 聞いてないぞ」

 レオシュが愕然とした表情で言った。

「ターリヒ先生は私だけに教えてくれたんです。あなたは魔王のために死ぬことになると。だから、行かないで」

 死、か。

 不思議に恐怖感は湧かない。もし、戦いを止めて死ぬのなら、ジークリンデからの借りをやっと返せる。

 マルトはノエミの長い赤毛をゆっくりと撫でた。

「予言なら、どのみち変えられない。私は、私のできることをするよ」

「変えられます、きっとなんとかなる。時間を稼げば、何かいい方法が」

 マルトはノエミから手を離し、接点の向こうを見た。

「そのために、関係ない街の人たちを犠牲にするわけにはいかない」

 ノエミは腕をだらりと垂らし、マルトから一歩離れた。マルトは軽くその肩を叩き、静かに歩き出す。

 カレルの横を通り過ぎた時、小さな声がした。

「マルトさん、さっきの返事――」

「全部終わったら聞くよ。君の故郷で」

 そのまま接点をくぐる。接点の向こうとこっち、両方ともよく似た天気だったせいか、部屋から部屋へと扉を抜けた程度の感覚しかない。

 それでも、レオシュとエリシュカ、それにアイゼンヒュッテンシュタットの人たちの眼差しを受けた時、自分がまったく新しいことを成し遂げに来たと、心の深いところで感じた。

「あれか、リブシェは」

 目の前の柵の間から、低い丘陵を下った平地に陣取る敵軍の様子が見える。既に、お互いの弓矢、魔法が届きそうな距離にまで近づいている。

「さっそく交渉に行きたい。エリシュカ、危険かもしれないが、途中まで魔導器を持ってついてきてくれるか」

「もちろんです」

「マルト、これを使え」

 レオシュが長い木の棒に括りつけた白旗を差し出した。

「ありがとう」

 マルトは受け取ると、エリシュカの細い胴に腕を回す。

「すぐに出る」

 言い終わった時には、既に柵の上に立っている。さらに、柵の前の川を飛び越えてその外へ。これで、マルトとリブシェをさえぎるものはなくなった。

 マルトは白旗を掲げ、振り回す。

「ジークムントはどこだ! 私はマルトだ、話し合いに来た」

 敵軍の中に動きがあった。やがて騎乗の長髪の男が姿を現し、こちらに向かってくる。ジークムントだ。

「やあ、マルト。挨拶もなしにいなくなるから驚いたぞ」

 ジークムントは顔に微笑を貼りつけて言う。マルトは、ジークムントを正面から見すえて答えた。

「すまなかったな。だけど私は戦争を止めたかった」

「本当かな?」

 ジークムントは肩をすくめてみせた。

「リーグニッツの報告は聞いた。君がいなければ、オンディーヌは死ななかったのではないか? 要塞もさっさと降伏して、無駄な血は流れなかったのでは?」

「あるいはそうかもしれない。だが、仮にそうでも、相手を力で支配するあんたのやり方では、平和は訪れない。戦争はやまないんだ」

「あの時も、同じような話をしたな」

 ジークムントの瞳が、まどろむような穏やかさをたたえた。

「ああ。私はあんたに、優しくあってほしいと伝えた。今、それを実行してくれ。この街への攻撃をやめてくれ」

 ジークムントは空を仰いだ。うっすらと雲のかかった、淡い晴れの空である。

「ああ、そうありたい。そうありたいよ」

 目を閉じ、そして再び見開く。

「だが、この場を支配するのは力だ。君のいう優しさは、残念だが力を止められないよ」

 ジークムントは、その後ろに控える軍勢を振り返る。

「この完全に優位な場で、仮に私が撤退を指示しても、それを承服できない兵もいる」

 何人かの兵が、ジークムントの横に進み出た。それぞれが矢筒に一本だけ入った矢をつがえる。

「魔装通しの矢だ。たとえジークリンデの防壁があっても、これだけの数は防ぎきれまい」

「マルトさん、もう駄目です! 戻ってください!」

 エリシュカが半分泣き声で叫んだ。

「頼みは聞き入れてもらえないのか」

 マルトは持っていた棒を離した。がらがらとやたらに威勢の良い音を立てて棒は転げ、白い旗が土に汚れた。

「ジークリンデが捨てたもの、それはリブシェそのものだ。私まで捨ててしまったらどうなる? 私はジークリンデと決別しても、リブシェを守らねばならない」

 言い終わると、ジークムントは手のひらをこちらに向けた。途端に身体が重くなる。逃がさないつもりだ。

「さらばだ、マルト君。そしてジークリンデ」

 ジークリンデと戦った時に感じた死の恐怖も陶酔も、今度は来なかった。それよりも己の無力さ、不甲斐なさが悔しくて、涙があふれ、止まらなくなった。

「予言は当たったよ。エリシュカ、逃げろ」

 はらはらと泣きながら、マルトは言った。返事は聞こえない。

 涙で歪んだ視界が、ジークムントから伝わる絶望感で灰色に濁る。


 最期の風景が、これか。

 あの子と、ライ麦畑が見たかった。


 つがえた矢の放たれる、ひょうという音を、マルトは聞いた気がした。

 目の前が真っ白になる。次いで、身体の重さがなくなった。

 死とは、こういうことか。五感で認識していたものが一つずつ消えていく。その全てが消えれば、意識もなくなったのと変わらない。

 ところが、すぐに背中と後頭部に何かがぶつかった。衝撃で目から火花が飛ぶ。

 気がつけば、マルトは寝転がって空を見上げている。

「大丈夫ですか!」

 カレルとエリシュカが、二人でマルトを覗き込んでいる。

「死んでない……のか?」

「矢は当たってません。重力砲で消えました」

 マルトを抱きかかえながら、エリシュカが言う。体を起こすと、マルトとリブシェの軍を切り分けるように、地面が深く削れ、長く続く溝になっているのが見えた。

「重力砲? 壊れたんじゃないのか」

「ノエミさんの指示です。リーグニッツから、空間の接点を通して撃ったんです」

「今のを見ただろう!」

 先に立ち上がったカレルが、リブシェに向かって叫んでいる。

「立ち去れ! 次は警告じゃすまないぞ」

「マルトといた子供か。君は誰だ」

 ジークムントがカレルに尋ねる。

「ここの領主の息子、カレル・アイゼンヒュッテンシュタットだ」

 カレルは胸を張って答えた。

「リブシェの王よ、交換条件だ。今撤退するなら、僕たちはリブシェへの鉄の供給を止めない。もちろん魔導鉄もだ」

「ええっ⁉︎」

 と、驚いたのはエリシュカである。

「カレル、そんなこと勝手に――」

「待て、エリシュカ。いい考えかもしれない」

 マルトはエリシュカを制して、カレルの隣に立った。

「今のカレルの言葉、この左手、ジークリンデの魔導器にかけて誓う。ジークリンデが約束を破ったことはないはずだ」

 リブシェの兵たちがざわめき出した。ジークムントは振り返ってその様子を見た後、腕を組んで考え、しばらくしてその腕を上げた。

「この者たちの言葉が本物か、一旦コトブスに戻って状況を見る」

 リブシェの兵たちは、一斉に足で地面を叩いた。それが了解の合図らしく、その後は隊列が崩れ、思いおもいという具合に、きびすを返して去っていく。

「あっ、待ってくれ」

 同じく背を向けたジークムントに、マルトは呼びかける。

「何だ」

 重力砲でできた溝を飛び越えて、馬を降りたジークムントの前に立つと、腰の収納具からオンディーヌの魔導器を取り出した。

「これ。オンディーヌから、あんたに渡してほしいと頼まれた」

 塵一つ混じってない、純粋な赤である。

「魔導器か」

 ジークムントは受け取って、目の高さまで持ち上げる。

「オンディーヌは残念なことをした」

 そう言ってうつむき、魔導器を無造作に服の内に入れた。

 マルトはジークムントの、灰色の瞳を見る。

「おい」

「まだ何かあるのか」

 こっちを向いたその頬を、マルトは思いきりぶん殴った。ジークムントはもんどり打って転がった。

「泣けよ! オンディーヌは体を捨ててまであんたに尽くしたんだぞ! せめて泣いてやれよ」

 頬に手を当てて起き上がったジークムントは、何事かを思い出すようだったが、やがて一言、

「そうだな」

 とだけつぶやいて、馬に乗った。

 マルトがもっと何か言ってやろうとした時、カレルがその腕を引いた。

「マルトさん、来てください。ノエミさんが――」

 カレルの表情からは、只事ではない雰囲気が感じ取れた。マルトはジークムントの後ろ姿を一睨みして、カレルの指差す空間の接点をくぐる。

 リーグニッツ側に出た途端、異変に気づいた。重力砲の収まっていた部屋が崩れたらしく、城壁の上は瓦礫の山だ。砲自体も半壊し、もうもうと黒煙を噴き上げている。これでよく三発目を撃てたものだ。

「マルトさん、こっち」

 瓦礫の向こうからエリシュカの声が聞こえた。

「どうした、エリシュカ――」

 声のする方を覗き込んでマルトは絶句した。

 エリシュカの膝の上に頭を乗せて、目を閉じたノエミが横たわっている。軍服は焼け焦げ、肌も、特に両手は真っ黒だ。

「ノエミ!」

 マルトの声に気づき、ノエミは両目を開いた。

「マルトさん、敵は――」

「撤退したよ。ノエミのおかげだ」

「良かった」

 ノエミは大きく息を吐いた。

「ノエミ、どうしたんだ。一体何があった」

 膝をついて、マルトはノエミの手を握る。

「ごめんなさい、もう動かなくて」

 静かに笑ったその顔には血の気がない。

 エリシュカが目を伏せた。

「ノエミさんは、自分の魔導器を使って切れた導線を繋いだんです」

「めちゃくちゃだ! そんなことをしたら」

「このざまです」

 体を動かそうとして、ノエミは苦痛にうめいた。

「静かにしてろ。今、医者を呼んでくる」

「待って!」

 エリシュカがマルトの腕をつかんだ。その目を見て、マルトは悟る。

「これで……予言は成就しました」

 荒い息をつきながら、ノエミは言った。

「成就? 私が死ぬんじゃなかったのか」

 ノエミは首を振った。

「予言はこう言いました。戦いにて魔王のために指導者の女は命を落とし、新たな導きの星が照らす、とね」

 初夏の風が硝煙を散らし、どこからか青くさい若葉の匂いを運んでくる。

「だから、私がリーグニッツの指揮官になって死ねば、あなたを守れると思った。もう会わないつもりだったけれど、我慢できなくなって一目だけ見ようとあなたを呼んでしまった。それからのあなたの行動が予想外すぎていろいろ焦りましたけど、最後はうまくいきました」

「うまくいってないだろ!」

 マルトはノエミの胸に顔を沈める。

「うまくいってないよ……」

「人間は変わるものです」

 ノエミは誰ともなしにつぶやいた。

「私たちがお互いを必要とする時期は終わりました。あなたはこれからも変わっていく。私は、一足先に上がりです。それで満足……いや、忘れてた」

 ノエミの瞳には青空が映っている。

「マルトさん、あの子を放してあげてください」

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