第十一章 楽園への小道
南東、とにかく南東だ。
マルトは走る。
背中のエリシュカが重い。重力制御の効果が切れかけているのだ。もう魔力はほとんど使い果たしてしまった。
森を抜けると沼沢地が広がっている。踏み込んだ足が、ずぶりと膝まで沈んだ。
「どうして君と一緒の時は沼地ばっかりなんだ」
「もう置いていってください。元々私じゃ力不足だっんです」
エリシュカは背中で泣き言を漏らす。
「できるわけないだろ。一緒に行くんだ」
しかし、次の一歩はさらに深く沈み込む。腿まである長靴に、泥水が入り始めた。
「まずい!」
引き抜こうとしても、足はまったく動かない。
「背負ったのがカレルなら良かったのに。私でごめんなさい」
「こんな時に何をわけのわからないことを」
マルトはあたりを見回す。
「誰か! 誰かいないか。助けてくれ」
「怒鳴らなくても、ここにいますよ」
目の前の倒木の上に、ノエミが立っていた。
「ノエミ。良かった、まずエリシュカを」
マルトはぐったりしたエリシュカを持ち上げる。
受け取りながらノエミは、
「マルトさん、どうして私があなたを助けに来たか、わかっていますか」
微笑を浮かべて聞いてきた。
「えっ? それは、長い付き合いだし」
「相変わらず鈍感ですね」
嘲るように言いながら、ノエミはエリシュカを沼の上にぽいと放り投げた。エリシュカはものも言わず沈んでいく。
「おい! 何をするんだ。エリシュカ――」
もがいても、腰まで沈んだ体は動かない。
「無駄ですよ。その子、自分で言ったじゃないですか。置いていけと。あなたも捨てたかったんでしょ」
「違う」
「もしかして、内心では気づいてたんじゃないんですか。あの時のカラスだってその子と同じように――」
「嘘だ!」
マルトは耳を塞ぐ。
「私は、いつだって私の手で、あなたを助けたかった」
急に口調が変わり、ノエミは寂しそうな表情になった。
「あなたはいつも私を頼りにしてくれましたよね」
「そうだよ、ノエミは相棒だったじゃないか」
ノエミは目を伏せた。
「それもあの時までです。あれ以来、あなたはいつもその場その場の感情に流されて、余計なものばかり連れてくる。ジークリンデも、今の子も、あの半獣人も。私も所詮はそんな、大勢の中の一人なんですね」
ノエミの表情には覚えがある。あの時、初めて会った時の顔だ。
「でも、あのカレルって子は何ですか? なぜあの子は、あんなに私と似ているの?」
寝台の上で目を開けると、ノエミは両腕をついてマルトの顔を覗き込んでいた。わずかに開いていた口元が閉じられ、その後で再び開いた。
「お目覚めですね。いい夢を見られましたか」
相変わらず感情のない声で言う。
「ひどい悪夢だったよ」
マルトが体を起こすと、ノエミは窓に向かい、鎧戸を開けた。
「どうしてノエミがここにいるんだ?」
白くて新しい朝日に目を細めながら、マルトは聞く。
「朝が遅いようだから、見にきただけです」
「みんなは?」
「起きてますよ。朝食後に作戦会議です」
リーグニッツの街の前に建てられた要塞の、士官用の真新しい個室である。
ドレスデネーからなんとか逃げ延びたマルトたちは、途中で用意の馬に乗り、乗り換えを繰り返して五日でリーグニッツにたどり着いた。かなりの強行軍である。
昨夜の到着時はさすがに疲労困憊して、あてがわれた部屋で寝入ってしまった。とはいえ安心感というものはほとんどなく、ドレスデネーで垣間見た怪物、おそらくはオンディーヌの作り上げた新たなキメラがいつ襲ってくるか、焦燥ばかりが心に膨れ上がった。結果、寝ては起きの繰り返しで、朝方のあの、とびきりの悪夢にいたる。
焦燥感はキメラを見た誰もが同じらしく、広い食堂の端の方で同じ卓を囲んだ面々は、皆が目の下にくまを作っている。
要塞詰めの兵士たちはなんとなく距離を置いて座っている。しかしマルトたちは、常にどこからかの視線を感じた。
兵士たちの様子を知りたかったので食事は一緒に取ろうと考えたわけだが、むしろこちらが好奇の目に晒されている。こうなると、空元気でも出していないと士気に関わる。
それで食卓を見ると、戦に備えて体力をつけさせようという配慮か、肉ばかりの品揃えである。干し肉を戻したスープ、レバーの腸詰めと酢漬けキャベツを混ぜたもの、ビーバーのしっぽなど。ビーバーはねっとりと脂の強い肉で、体調が万全なら美味に感じるのだろうがとにかく胃にもたれ、しかし食材の調達に苦労しただろう料理人のことを考えて、皆無言で腹に詰め込んだ。
食事を終えると別室で打合せだ。用意された小さな部屋の円卓に、ノエミ、レオシュ、カレル、エリシュカと、敵の事情を知っているというわけでヴィビイも顔を並べた。
「ノエミの他に、要塞の関係者は来ないのか」
マルトが聞くと、
「そうすると、どうしても呪術院の人間も呼ぶ必要があります。腹を割って話せる我々で、先に考えをまとめましょう」
言外に、だから隠しだてするなとノエミは言っている。
「そうね」
マルトは曖昧な返事をした。心なしかノエミの視線がきつくなる。
レオシュが咳払いした。
「まずは、マルトのために、お前がさらわれた直後の話もしておこう。ライヒェンベルクから、エリシュカはフンデルトヘルメに戻り、カレルはリーグニッツに向かった」
「私の言った通りにしてくれたんだな」
カレルは笑って頷いた。
「それでノエミは、リーグニッツの仕事を全部すっぽかしてお前を助けに来た。お前の預けてくれた魔導器で、俺たちと連絡を取りながらな。俺の方は、緊急で救援隊を組織して、ライヒェンベルクでノエミと合流した。その後は知っての通り、ドレスデネーですったもんだの後、まあ結果としてここにいるわけだ」
「本当に、みんなには感謝する」
ここにいない人間たちに対しての意味も含め、マルトは頭を下げた。退却の際に命を落とした者もいる。
「それで、だ」
顔を上げると、レオシュは改まった態度でマルトを見ていた。
「お前の方もそろそろ話してくれないか。なぜお前がさらわれたか、それにドレスデネーで何があったか」
全員の視線がマルトに集まった。
「それは向こうの連中に聞いてくれ……とも言えないな」
覚悟を決めて、マルトは話し出す。ジークリンデを倒した時にその魔導器を受け取ったこと、魔王ジークムントがジークリンデの兄だったこと、シュトゥーラー・エミールがライヒェンベルクを襲った理由、キメラの正体、オンディーヌの研究。
ただ、ジークリンデの願いだけは話さなかった。それはジークムントとジークリンデの、あるいはジークリンデと自分自身の、秘密だったからだ。
語り終えてマルトがほうと息を吐くと、皆がつられてため息をついた。
しばらくの沈黙があり、その後で最初に口を開いたのは、意外にもエリシュカだった。
「その……ライヒェンベルクでキメラと戦った時、どうしてマルトさんはジークリンデの力を使わなかったんですか?」
「お見通しか、さすがだね。私がジークリンデの力を使ってないと、どうしてわかった?」
エリシュカは少し笑って答える。
「あの後、ジークムントの魔力から私を助けてくれた時のマルトさんの力は、それまでと明らかに異質でした」
「そうか。確かにあの時初めて、自分の意志で力を使った」
マルトは少し目を伏せる。
「単純にどうやって力を使えばいいかわからなかったのもあるけど、それまでは……怖かったんだ。だって、私より強い他人が私の中にいるんだ。いつ自分自身が乗っ取られるかわからない。心の中の、なんだかわからない火が消えないのが怖かった」
ヴィビイが、握りしめたマルトの左手に自分の手を乗せた。マルトは目で頷く。
「だけど、もう大丈夫だ。オンディーヌとやり合った時から、だんだんわかってきた。一つの体に二人の心があるというんじゃなくて、私の意志や感情自体が既に、ジークリンデと一体になっていたんだ。ずっと自分の影に怯えていたんだと、今では思うよ」
「精神論はそのくらいにしておきましょう」
ノエミが握り拳で円卓をとん、と叩いた。
「私が知りたいのは戦力です。マルトさん、あなたの持っている力を、リブシェとの戦いに使ってもらえるんですね」
「少なくとも、今度の戦いではそうだ。ジークムントとオンディーヌを止めなければならない」
ノエミは目を合わせないままで腕を組んだ。
「わかりました。それでは我々の戦力についてお話ししましょう」
ノエミは立ち上がり、マルトの後ろにある窓まで歩いていくと、彼方の地平線を見すえた。
「リブシェが兵を集めているという情報はありましたから、こちらもここに兵力を集中していました。総兵力は三千。元は五千集まるはずだったんですが、ズデーテンのせいで予定を大きく下回りました」
ノエミは悔しそうに口元を歪める。
ズデーテンの暴動の裏では、リブシェが糸を引いていた。マルトをライヒェンベルクに誘導するためだとジークムントは言っていたが、リーグニッツの弱体化も合わせて狙っていたのだろう。
「三千のうち魔導士は三百と少しです。これに、呪術士を訓練した即席魔法使いが百名ほど加わります」
「魔導士が多いな」
マルトは驚いた。万単位の兵力を集めたパンノニアでも、魔導士は二百強だった。
レオシュが答えた。
「それだけこの要塞に賭けてるのさ、王国は。カレル、お前もう見たか?」
「えっ、見たって何を?」
「見せてないですよ、そんな簡単に」
ノエミが話を引き取る。
「じゃあ後でマルトと見せてもらえ。ここには秘密兵器があるんだぜ」
「わ、私も見たいです!」
エリシュカが手を上げた。レオシュはひやりとした視線でエリシュカを見て、
「駄目だ。お前には、これから俺が特訓をつける」
「え?」
「お前は能力があるのに魔法の使い方がなってない。戦力にするために、俺がみっちり仕込んでやる」
レオシュの目が輝いている。それを見たノエミも、自席に戻りながら微笑んだ。
「久しぶりに良い獲物が見つかったようですね」
「ええ?」
「ノエミ、お前以来の教えがいになりそうだ。といってもお前は途中で逃げたから、いまだに乗馬が下手だが」
「あんな特訓受けたら、人より先に馬が死にますよ」
「えええ?」
エリシュカは泣きそうな顔でマルトを見た。
「エリシュカ、安心しろ。馬の持久力は、実は人間より低い。だからノエミの分析は正しい」
「そんなことは聞いてません」
「話がそれたな」
恨めしそうにこちらを見るエリシュカから目をそらし、マルトはノエミに向き直った。
「味方についてはわかった。敵の情報は入ってないのか」
「それこそ、そこの毛羽毛現に聞いたらどうですか」
「私はヴィルベルヴィントだ!」
ヴィビイはノエミを睨みつけた。
「まあまあ」
マルトはヴィビイをなだめて、
「ヴィビイ、コトブスにどれくらいの兵がいるのか、何か知らないか?」
ヴィビイは考え込む仕草を見せた。
「細かい話は知らないけど……。五、六千はいるってジークムント様が言ってるのを聞いた」
「六千と見て、こっちの二倍。それとキメラか」
マルトは窓の外を見る。
「見ておわかりでしょうが、だだっ広い平原ですよ。敵を遮るものがないから、打って出ても勝ち目がない。ここに閉じこもって戦うしか、方法がありません」
ノエミが言った。
「要塞もキメラに破壊されないでしょうか。ドレスデネーの城壁のように」
カレルが聞いた。マルトは脱出の時の出来事を思い出し、暗澹とした気分になった。が、ノエミは首を振る。
「しばらくは持ちこたえるでしょう。要塞の外壁には、魔装に加えて、魔力を抑制する呪術がかなり強力にかかっています」
「それはドレスデネーも同じじゃないのか」
マルトが尋ねると、エリシュカが話に入ってきた。
「確かにドレスデネーの城壁にも呪術がかかってましたが、それほど強くはなかったです。呪術に関してはヴィシェフラトの方が進歩してるって聞いたことがあります」
そういえば、オンディーヌも同じようなことを言っていた。
「城にこもって戦う、か。でも、援軍の当てもないのに大丈夫かな」
マルトはまだ気になった。通常、籠城戦は、味方の援軍があることが大前提だ。
ノエミは小さく首を振ってマルトを見る。
「長期戦にはならないでしょう。今回、リブシェの切り札はあのキメラです。敵はキメラに要塞を破壊させて、短期で決着をつけようとするはず。こちらも切り札の新兵器で対抗する」
その時、部屋の扉が叩かれた。ノエミが出ると、やってきた副官らしき兵が何か耳打ちする。ノエミは頷いて扉を閉め、こちらに振り向いた。
「皆さん、今報告が来ました。三日前に、リブシェがコトブスを進発したそうです。ここまで来るのにはあと四、五日。敵の数は約三千です」
レオシュが首を傾げた。
「三千? そこのもじゃもじゃから聞いたのより少ないな」
「私は――」
と声を上げるヴィビイの口を押さえて、マルトは聞く。
「コトブスに留まってる兵もあるのかな」
ノエミは頷いた。
「はい。リーグニッツに向かったのは軍勢の約半数らしいとの報告です。毛羽毛現の情報は正しかったようですね」
マルトはヴィビイの口を押さえたまま、考え込んだ。
「――おかしい。なぜ全軍を出さないんだ」
「ええ、そこが気持ちの悪いところです」
そう答え、ノエミも腕を組む。
エリシュカが言った。
「背後に不安があるのでは? 反乱とか」
しかし、レオシュは首を振る。
「その考えじゃ、ドレスデネーを空けてることの説明がつかん」
「コトブスには行ったことありますけど、そんな大きい街じゃありませんよ。長い間軍隊が駐留できるのかな?」
カレルが独り言のようにつぶやく。
「ちょっと待って」
マルトはあることに気がついた。
「行ったというのは、アイゼンヒュッテンシュタットからコトブスまで?」
「は、はい。そうですけど」
「二つの街は、そんなに近いのか」
「ええ。馬なら二日で着く距離です」
マルトは思わず立ち上がった。
「魔導鉄だ!」
「そうか」
レオシュが手を打つ。
「敵の本当の狙いはアイゼンヒュッテンシュタットだ。リーグニッツは囮か」
「そんな!」
ノエミが卓をどんと叩いた。
「考えられません。だって予言があります」
「ああ。だが予言の内容を思い出せ。敵の主力がリーグニッツを攻める、だろう」
卓に両手をつき、マルトはノエミに顔を向けた。
「だから敵軍の半分とキメラがこっちに来る。残り半分がアイゼンヒュッテンシュタットを攻める」
「キメラの力を考えれば、主力がリーグニッツを攻める、に違いはない。くそっ、リブシェの奴ら、きっと予言の中身をつかんでたんだ。それを逆手に取りやがった」
レオシュが握り拳を震わせる。
「でも、どうして? どうやってリブシェは魔導鉄の存在を知ったんですか?」
半信半疑といった表情でノエミは聞いた。マルトはレオシュに目配せする。レオシュが渋い顔で頷くのを確かめてから、ノエミに向き直った。
「アイゼンヒュッテンシュタットでは採掘した鉄鉱石の一部をリブシェにも流してたらしい。その中に、それとは知らずに魔導鉄を混入させてしまったんだろう」
「大変だ」
カレルが勢いよく立ち、椅子が派手な音を立てて倒れた。
「早く戻って知らせないと」
小走りに扉へ向かうのを、マルトは両肩をつかんで止めた。
「カレル待て! 気持ちはわかるが、動くのは対策を考えてからだ」
「離してください」
思いがけない強さで突き放され、よろめいた足が椅子に引っかかる。マルトは無様に転がった。
すぐに駆け寄ったヴィビイが助け起こす。
「痛っつ――」
腰をさすりながら上体を起こすと、呆然と見ていたカレルはそこでやっと我に返り、
「ごめんなさい」
としゃがみ込んだ。と、ノエミがその後ろに立った。
「何やってんのよ、あんたは!」
思いきり背中を蹴飛ばしたので、カレルもマルトの横に転がってしまった。
「どうした、ノエミ?」
マルトはカレルよりノエミの様子が気にかかった。
「ちょっと腹が立っただけです!」
ノエミは乱暴な動作で自分の椅子に戻った。マルトも腰を押さえながらそれに続き、しおれてしまったカレルも席につく。
「しかしな、カレルの気持ちもわかるぞ。こっちは完全に後れを取った。対策といっても、一刻も早くこのことを知らせて、非戦闘員を避難させるくらいしかない」
珍しくレオシュが弱気な発言をした。
「アイゼンヒュッテンシュタットの防御は?」
ノエミが聞いた。
「それらしい防御なんかありません。川に囲まれているのと、橋の周りに多少魔獣よけの柵があるくらい」
カレルは両手で頭を抱えて、卓に突っ伏した。
「一体どうしたら。こうしてる間にも敵が攻めてくるかもしれないってのに」
カレルの故郷、夢に見たライ麦畑がマルトの脳裏によみがえる。
「カレル、大丈夫。リブシェは自分たちの真の目的がリーグニッツでないと、ぎりぎりまで気づかせたくないはずだ。アイゼンヒュッテンシュタットへの攻撃は、リーグニッツと同時か少し後だろう」
「それでも残りは五日程度。たとえリーグニッツを捨てて全兵力を移動させても間に合いません」
ノエミがきつい表情のままで告げる。マルトは小さく頷いた。
「もちろん全軍は無理だ。だが少人数で馬を替えながら行けば間に合う」
「何のために? その程度の援軍、焼石に水です」
だんだん感情が昂ってきたか、ノエミは詰問口調で聞く。
「私が行く。ジークムントは真の目標に向かうはずだ。行って説得する」
「絶対に駄目です。マルトさんはここにいてください」
ノエミは言下に否定した。
「どうして?」
「どうしても駄目です」
「何だそれ? 理由がないなら無理にでも行くぞ」
「リーグニッツの指揮官として命令します。あなたはここにいなさい」
「だからどうして――」
「マルト、待て」
レオシュが割って入る。
「お前はリーグニッツに残った方がいい。キメラとの戦い方を一番よく知ってるのはお前だ。たとえ新兵器があっても、お前なしではこっちで勝てるかどうかもおぼつかん」
「だけど、それじゃアイゼンヒュッテンシュタットが見殺しだ」
唇を噛むマルトを見て、エリシュカが発言した。
「まずリーグニッツで勝って、その情報をアイゼンヒュッテンシュタットに来る敵に教えれば、敵は動揺して撤退するかもしれません」
「だが、攻撃がほぼ同時に行われるなら、たとえ勝ってもそれを伝えている時間がないぞ」
レオシュが腕を組む。
「大丈夫です。これを使いましょう」
そう言ってエリシュカが足元の鞄から出したのは、半分に割れたシュトゥーラー・エミールの魔導器だった。
「これをアイゼンヒュッテンシュタットに持っていって、リーグニッツに置いたもう一つから戦況を伝えてはどうでしょう」
「二つ疑問があります」
ノエミが言った。
「一つは、魔王にこちらの情報を話しても、それを信じるかどうか。もう一つは、そもそも囮だったリーグニッツで負けたところで、リブシェは第一目標のアイゼンヒュッテンシュタットを諦めるのか」
「最初の一つは、マルトの話なら向こうは信用すると思う。問題は次だ」
レオシュは天井を見上げて考え込んだ。
「今回、囮の方が戦力が大きいって変な事態になってるから、敗戦を知ればそれなりに動揺はある。しかし、それで軍を退くかは……」
「退かなかったらどうなるんですか」
恐るおそるといった風にカレルが聞くと、レオシュは目を閉じた。
「アイゼンヒュッテンシュタットは間違いなく陥落する。そしてヴィシェフラトはリーグニッツの全軍をアイゼンヒュッテンシュタットに差し向けて、決戦になる。どちらが勝っても、相手に魔導鉄が渡るのを少しでも遅らせるために、負けた方が街も畑も焼き払うだろうな」
「そんな……」
「確かに不安は残る」
迷いを吹っ切るように、マルトは立ち上がった。
「だけど、今はできる最善を尽くすしかない。エリシュカの考えが、多分その最善だ」
「行っちゃいましたね」
その日の午後である。
風に吹かれて、カレルがぽつりとつぶやいた。
土煙の遠のく北東の街道を見はるかすのは、マルト、ノエミ、カレルの三人。ヴィビイは疲れたらしく、自室で丸まっている。
アイゼンヒュッテンシュタットには、レオシュとエリシュカが向かった。魔導器を使った通信の手腕と、向こうで戦闘になった時の戦力を考えて、である。カレルも行きたがったが、戦いが始まったら冷静でいられなくなると思って、マルトが止めた。
「そこに林があります。ちょっと歩きませんか」
ノエミが意外な発言をした。
「こんなところにいても暑いだけです」
言うなり歩き出した。突然の行動に少し驚いたが、マルトもカレルに頷いて、後ろ姿を追う。
小さな林の中に入ると、木漏れ日が風ではらはら流れ、静かなようで、それでいて留められない時間、その抗いがたい流れの中で移ろっていく自然、そして自分というものを感じた。
「あっ、小川がある」
カレルが道を外れた。
「カワセミがいます」
ノエミの指差す方を見ると、翡翠色の小鳥が、川辺の枝でじっと動かず、水面を見ていた。
「きれいだな」
マルトが見とれていると、
「あなたもきれいですよ」
ノエミが突然告げた。
「え?」
「あなたもきれいだと言ったんです。だから、あなた自身にも止められずに、いろんなものを引き寄せる。カラスとかね」
話し続けるノエミの横顔に、かつてのその姿が重なって見えた。
「でもカラスと違って、カワセミは魚を食いますね。はたして魚を食う残酷さに、カワセミは気づいているでしょうか」
ちらりとマルトに向けた眼差しには、一種の憧憬が含まれている。
「もちろん気づきません。しかし、だからこそ強い。だからこそ美しく閃めく」
ノエミはカワセミから目を離し、宙の一点を眺める。
「私もそうなりたかった。だけど、なれないことはわかっていた。なら次に、一番近くで独占しようと思って、それも途中でうまくいかなくなって。何なんでしょうね、私って」
「ノエミ、何の話だ――」
「私の話です。それで、先生からここのことを聞いた時、やっと自分の役割がわかりました。私にはあつらえ向きの場所です」
カレルが近づいて、カワセミが飛び立った。川面の上をすいと流れるように、一際強い青緑の輝きが行き過ぎる。
「さあ、これで話は終わりです。あなたはこれからも、たくさんのカラスを惑わしなさい。その光は、我々を導く新たな星の光です」
「なんだか難しいけれど」
こちらを見つめるノエミの瞳の中に、ある予感を覚えたから、マルトは答えた。
「これからも、ノエミも一緒に来てくれ」
「私の場所はあの子に譲ります」
ノエミは少し翳のある笑いをして、背中を向けた。
「帰りましょう。呪術院と魔学校が協力してやっと完成した、我々の新兵器を見せてあげます」
マルトは林を透かして見える地平線に目をやった。
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