佳琳は鈍い子だ

 佳琳かりんは鈍い子だ。あきれるほど。


「今夜は月がきれいだね」


 何度、そう彼女に伝えたかなぁ?


 そのたびに佳琳はふぅんって興味のない返事。その口許があんな風にとがると、ますます色の黒い金魚みたいだ。でも云ったらきっと、無茶苦茶怒るんだろうなぁ……


 何で月かっていうと、こういうわけだ。


 ぼくも佳琳も短距離をやっていた。中学から高校まで、ずっと。


 実力の方はと云うと、残念ながらお粗末なものだった。あれだけ練習してきたけど、ぼくなんかより早いやつは山ほどいた。それが実力だと思うしかないが、それでも悔しいものは悔しい。


 それでもやめなかったのは、自分の力だけをエンジンにして、自分の身体を一瞬でも速く前にすすめるという単純な行為が、とても価値のあるものに思えていたからだ。



* * *



 きっかけは、やはりあの帰り道だろう。


 高校に入ってしばらくたったその日。梅雨に入るにはまだ早く、でもこれから少しづつ、確実に熱気が増していくんだろうなって予感させる季節のことだった。


 他の部のやつらもいっしょになって、その日はいつもより多くの帰り道のグループで、やがてひとり別れ、ふたり離れして、いつものようにぼくと佳琳は、最後の数百メートルを並んで歩いた。


 まだ夕方の気配をのこしている空に大きな満月が浮かんでいて、その光と街の灯りとで、ぼくらの影はじぐざぐだった。


 街の灯りが途切れた。


 不意に、月の光が形を持ったかのように、ぼくの意識を刺激した。思わず見上げると、満月はさっきよりも大きくなっているように感じた。脚下の影も濃くなったような気がした。


「どうしたの?」


 佳琳が立ち止まったぼくに訊ねる。首をかしげるようなその仕草。


 その瞬間、スタートラインで凛とゴールを見すえる佳琳のまなざしが、ぼくの中で鮮やかにまたたいた。


 その仕草と部活で見た彼女とそして月の光とが、同じ混じりけのないまばゆいものに突然感じられた。


 自然と、ぼくの口が動いていた。


「今夜は月がきれいだね」


 佳琳は大きく眼を見開いてびっくりしたような顔をして、空を見上げた。そこにはやっぱり大きな満月。


 初めて気がついたんだろう、彼女は驚いたようにきゅっと唇をとがらせて、そして笑った。


「本当だ、すごくきれい。大きな満月だね」


 これがはじまりだった。その日からぼくの中で、佳琳と月は同じものになった。


 でも、それは内緒だ。決して気づかれてはいけないもののように、ぼくは感じた。


 口にしたら、気がつかれてしまったら、この水晶の玉のように気持ちにひびが入ってしまって砕けてしまうような……それが怖くって、だったらこの感覚を、自分ひとりがいつまでもこっそり隠し持っておけば……?


 うまく説明できない……何て云ったらいいんだろう?


 気がつかれてはいけない、でも気がついてほしい。


 ものすごい矛盾だったけど、本音はどちらだったんだろう?


 伝わっても伝わらなくても、ぼくは怖かった。


 意気地がないって方が正解かもしれないけど。


 それでも、帰り道でふたりきりになるたびに、ぼくは佳琳に伝える。それだけが、ぼくと佳琳をつなぐ、たったひとつの手段のように感じたからだ。

 

 平気な顔をしていたとは思うけど、気がつかれるのが怖かった。本当はいつもどきどきしていた。


「今夜は月がきれいだね」


 だから、そのセリフでごまかしていたんだ。


 不思議そうな佳琳。きっとわからないんだろうな。いつも、ふぅんと、気がのらない風だった。


 その後、ぼくは月にまつわる、いろいろな話をする。小さいころから星座や星が好きだったので、その方面に関しては意外に話題豊富なことを、自分でも初めて知った。


 何度も何度も、ぼくはあのセリフを伝える。だけど、まったく気がつかれないままだ。本当に鈍い子だ、佳琳は。


 やがてぼくらは部活を引退した。そして、彼女といっしょに帰ることもなくなった。


 

* * *

 


 その日の塾の帰り道、偶然だけど佳琳といっしょになった。おたがい別の塾なのに、珍しい。彼女にあわせて自転車を押しながら、ぼくらはいつもみたいに、とりとめのない話をした。


 この帰り道を、佳琳といっしょに歩いたことはない。少しづつ人通りが少なくなる。


 頭の上には、半分だけの月だ。


 いつもみたいに、ぼくはあのセリフを口にする。


 すると、不意に彼女が訊ねた。


「何で、いつも月の話するの?」


 ぼくは一瞬どきりとした。見透かされたかと思った。部活を引退してからかけはじめた眼鏡が、追及する佳琳の視線の鋭さを、少しだけ軽減したと思う。あってよかった。


 でもぼくを見上げる佳琳は、不思議そうな表情だった。本当に気がついていないんだ。だから、もうちょっといじわるをしたくなった。


「教えてやんない」


 ぼくが云うと、佳琳は唇を尖らせた。


「何でよ」


 その仕草がおかしかったけど、ぼくは吹きだしそうになるのを我慢した。


「教えてやんない」


 教えてあげないよ、内緒だ。



* * *



 補講の終わりの時間が重なったその日のグループに、佳琳もいた。


 騒ぎながらの帰り道。


 ほんの数か月前は部活やスマホのアプリの話ばかりだったのに、今は塾や判定の話、小テストでできなかった問題の評価ばかり。すべての体力をしぼり出した後の汗だくの帰路は、もう遠い日だ。


 やがて少しづつ人がばらけて、以前のように最後の数百メートルを、ぼくらはふたりで歩いた。


 びっくりするぐらい月が明るくって大きくって、夜空には雲ひとつない。

 

 満月じゃない。ほんの少し欠けていた。これは十三夜じゅうさんやだったっけ、それとも小望月こもちづきってやつだっけ? 古典で習ったような気がする。


 あまりの明るさに、ぼくらが歩いている路面は銀色に浄化されているようだった。


 周りの家の窓からは屋内の灯りが見えるのに、なぜかしんと静まりかえって、人の気配を感じなかった。


 まるでこの通りには、ぼくらしかいないみたいだった。


 街灯がときどき、思いだしたようにぼくらを照らす。


 他の人影もなく、そっと振りかえると、おとぎ話の挿絵のように、ふたりの影がくっきりと長くのびている。


 月の魔法の中に、ぼくらはいるみたいだ。


 ぼくは彼女の名前を呼んだ。そして今夜も云う。伝わらない言葉を。


「今夜は月がきれいだね」


 佳琳は空を見上げた。そして月から眼を離して、ぼくの顔を、見上げるようにして答えた。


「あたしも君と同じだよ。今夜は月がきれいだね」


 思わず脚が止まった。佳琳も止まる。


 月がきれいって彼女は云った……え? それって……?


 自分の顔が、熱をおびていくのが感じられた。うろたえたことが、きっとはっきりわかったろう。


 佳琳がぼくの真正面に立ち、まっすぐ見つめてくる。


 はにかんだような、でもちょっと怒ったような佳琳の表情は、グラウンドでゴールを見すえるときの、あのかげりのないまなざしに、よく似ていた。月の光の下、それはとてもきれいに感じた。


 きっと自分の顔は真っ赤なんだろう。こんな風に佳琳に反撃されるなんて思ってもみなかった。ぼくはいたずらを見つかってしまったような気分になってしまった。


 佳琳がもう一度はっきりと云った。


「今夜は月がきれいだね」



(了)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月の話ばかりするな 衞藤萬里 @ethoubannri

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る