月の話ばかりするな
衞藤萬里
悠君って変なやつだ
しょっちゅう月の話ばかりしている。
うん? そっか、何で月かっていうと、少し説明が必要だね。
あたしも悠君も短距離をやっていた。中学から高校まで、ずっと。
実力の方はと云うと、オリンピックはもちろん、国体に出場したり実業団でやっていくのも、とても無理ってレベルだ。実際、最後の大会の予選では、自分よりずっと早い何人もの背中を見ながらゴールをした。悔しいが、それがあたしたちの実力だ。
でも、決められた距離を可能なかぎり早く走る。ただそれだけのことだけど、あたしたちは真剣だった。
部活が終わると、自然と帰宅時間が遅くなる。身体の中のパワーを全部しぼり出して、へとへとになって汗の匂いを気にしながら、きゅうっと鳴るお腹をなだめつつ、わいわい騒ぎながらの帰路。
いっしょに帰るのは、同じ陸上部だったり部活で遅くなった同士だったり、男女混合だったり女子だけだったり、そのときそのときで顔ぶれは違う。だから悠君も、いたりいなかったりだった。
曲がり角でひとり分かれ、ふたり分かれすると、最後の数百メートルの隣を歩くのは、だいたい悠君だった。
最後の曲がり角でさよならをする間に、悠君は月の話をはじめる。
「今夜は月がきれいだね」
まず必ずそう云う。
目玉焼きの黄身みたいな満月の夜も。
それをおはしで半分食べちゃったような半月の夜も。
ゴンドラみたいな三日月の夜も。
必ず云うんだ。
でも、月が出ているときならわかるけど、雲で月が見えない夜も新月で真っ暗な夜も、今夜は月がきれいだね――と必ず云う。
ね、変でしょ? 月も出ていないのにきれいだねなんて、意味がわかんない。
あたしがふぅんと答えると、なぜか笑いをこらえるような、すごくおかしそうな表情をした後、本題に入る。
月のクレーターの名前とその由来だったり。
月に住む兎の影がよその国では何て云われているかとか、そして由来する神話の話だったり。
初めて月面に到達したアポロ十一号の話だったり。
月の話ばかり、よくそんなに知ってるなぁって感心してしまう。なんでそんなに月に執着するんだ。かぐや姫か、君は。
あたしは月になんか、これっぽっちも興味ないから、やっぱり聞き流しているけど。
それでもあきずに、毎回悠君は云う。
「今夜は月がきれいだね」って。
ね、変ねやつでしょ、悠君って。
* * *
部活を引退したあたしたちは、今度は高校の次、という問題に直面した。
あたしが直面した相手は、最初が「じゅ」ときて、最後が「けん」とつく例のやつだ。たまに頭に「お」がついたりすることがある。
グラウンドで大きな声を上げている後輩たちをしり目に校門を出るのにも、少しづつ慣れていった。時どき、あたしたちを見かけた彼女たちが、ぶんぶんと手を振ってくれる。
補講やら塾やらで急に忙しくなったあたしは、もうめったに悠君といっしょに帰ることはなかった。
そんなある夜、たまたま塾帰りのあたしは、多分向こうもそうだろうと思う悠君とばったりいっしょになった。学校とは反対の駅近くからだから、いつもと違うこれまで体験したことのない悠君との帰路だ。
悠君はからからと自転車を押しながら、自転車のかごにバッグも入れてくれたのであたしは手ぶらで、おしゃべりをしながらいっしょに歩いた。
遠くのコンビニの灯り。
ライトを点けて交差する自動車の群れ。
駅の方から、そして駅へと向かう制服やスーツをまとった人の流れとざわめき。
そんな光や話声につつまれて歩くと、やがて人通りが少なくなって街の灯りも落ちついてきた。
頭の上には、半分だけの月がぽっかりと浮かんでいた。
「今夜は月がきれいだね」
やっぱり悠君はそう云った。
「何で、いつも月の話するの?」
その夜は、どういうはずみか、悠君に訊ねてみた。
不意をつかれたような表情をして、それから悠君の眼鏡――部活が終わってから、かけるようになった。なまいきだぁ――の奥の眼がいたずらっぽい光をうかべた。
「教えてやんない」
「何でよ」
「教えてやんない」
いくら訊ねても、かたくなに教えてくれない悠君の口許は、必死でおかしさをこらえているように見えた。
* * *
その悠君の話をしたら
どういう反応だ、そりゃ?
ノーベル賞をとった物理学者、あの江崎玲於奈から名前をつけられたという彼女は、その名に恥じない才女だ。あたし十人分ぐらいの知識が、頭の中につまっている。彼女なら、悠君の話の意味がわかるんじゃないかって思った。
案の定、どうやら心当たりがあるようだ。
「玲於奈、意味わかる?」
「ググれ」
ただ一言。
あ、それでわかるの?
あたしは云われたとおり、スマホを取りだして、そして……
あ……
じわじわと、頬が熱くなるのがわかった。
眼の前の玲於奈をにらむと、彼女はこれ以上ないぐらい意地悪な表情で、にやにや笑っていた。君っておばかだねって笑いだ。ちっくしょう!
* * *
補講の終わりの時間が重なったその日のグループに、悠君もいた。
たった数か月前は部活やスマホのアプリの話ばかりだったのに、今は塾や判定の話、それに今日の補講で意味がわからなかった箇所についての意見交換。部活の道具で重たかったあたしのバッグは、今は参考書の重さに変わっていた。
やがて少しづつ人がばらけて、以前のように最後の数百メートルを、悠君とふたりで歩いた。
昨夜の満月が今夜は一方が少し欠けて、いびつだった。これ、
びっくりするぐらい月が明るくって大きくって、夜空には雲ひとつない。
あまりの明るさに、あたしたちが歩いている路面は銀色に輝いているようだった。
両側の家の窓にはオレンジ色の灯りが見えるけど、しんと静まりかえって、人の気配は感じなかった。テレビの音も、夕食を作っている音も聞こえない。
まるでこの通りには、あたしたちしかいないみたいだった。
街灯がときどき、思いだしたようにあたしたちを照らす。
あたしたちの他に人影もなく、そっと振りかえると、おとぎ話の挿絵のように、ふたりの影がくっきりと長くのびている。
月の魔法の中に、あたしたちはいるみたいだ。
悠君があたしの名前を呼んだ。そして今夜も云った。
「今夜は月がきれいだね」
あたしは空を見上げた。月が笑っていたような気がした。
そして彼の顔を、下から見上げるようにして答えた。
「あたしも君と同じだよ。今夜は月がきれいだね」
悠君の脚が止まった。あたしも止まる。
月明りの下で、悠君の顔がみるみる赤くなっているのがわかった。
意味がわからなかったあたしを、ずっとおかしそうに見ていた君。よくも長いこと、からかってくれたな。許さないぞ、反撃だ。
あたしは悠君の真正面に立ち、彼の顔をまっすぐ見つめた。
月の光を真正面からあびているので、いたずらを見つかってしまったような悠君の表情がよくわかる。真っ赤だ。
勘違いされないように、あたしはもう一度はっきりと云った。
「今夜は月がきれいだね」
(了)
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