第2話

 哀れにもセリヌンティウスの心は残酷な気持ちに染まっていた。世の中の正直者という奴輩に絶対に見せつけてはならないほどに黒く染まっている。

 時は無情にも過ぎ去った。

 車軸を流すような大雨が降り、灼熱の太陽がかっと照り、赤く大きな夕陽が地平線に沈む。

 セリヌンティウスの処刑の刻が迫る。

 刑吏に連行され、刑場には群衆が大挙し、セリヌンティウスは縄で打たれ、高々と磔にされた。

 セリヌンティウスは改めて実感した。

 王よ。貴方はやはり、そこまで嫌われてはいない。

 人望が無いのであれば、これほど足元の悪い夏の日の夕暮れ過ぎに、これだけの市民が呼びかけに応じて集まるわけがないのだ。

 反面メロスは間に合わなかった。逃げたのだろう。

 もしくは10里の道のりの天気の変化を考えずに、妹の結婚式でのんびりを過ごしていたに違いない。

 諦めと怒りは既に通り抜け、セリヌンティウスの心は幽かに消えかかっていた。


「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」


 かすれた声で精一杯に叫びながら、メロスは磔台に昇り、セリヌンティウスの足に齧りついた。

「あっぱれ」「ゆるせ」

 詳細な経緯を知らぬ群衆は、どよめき口々にわめいた。

 セリヌンティウスの縄はほどかれたのである。

 無事の友を前に、メロスは眼に涙を浮かべ言った。

「セリヌンティウス。私を殴れ。力一杯に頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ」

 抱擁する資格? 殴れ? どの面さげて?

 セリヌンティウスは頷き、戯言をほざくメロスの右頬を、刑場一杯に鳴り響くほど音高く殴った。

『少々、思いが出ちゃったか?』

 心配になりながらもセリヌンティウスは満足感から微笑みをこぼした。そしてすぐにメロスの剛腕を思い出して後悔し、どうにか取り繕うと口を開いた。

「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない」

 本気では殴ってほしくない。

 同じくらいの音が出る程度に手加減してくれ。

 具体的に言わねばメロスには伝わらない。

 理由もつけねば納得すらしない。

 弁明をせねば殺される。

 嘘をつかねば生き延びられぬ。

 その想いが叶い、メロスは腕に唸りをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。セリヌンティウスは凄まじい痛みに襲われながらも生き延びた。

「ありがとう、友よ」

 メロスはセリヌンティウスをひしと抱きしめ、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。セリヌンティウスの目は涙を止めることができなかった。

 群衆の中からも歔欷の声が聞こえた。

 暴君ディオニスは群衆の背後から二人の様をまじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき顔をあからめてこう言った。

「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい」

 つい3日前にメロスと殺す殺されるを睨みあった王ですら、この盤面に騙されて勝手に感動して頭を垂れている。

 セリヌンティウスは思った。

 王ディオニスよ。貴方はただ純粋なのだ。

 この王を暴君であると噂した町の老爺こそ殺すべきだ。もはや老害どころの騒ぎじゃない。今回の黒幕だ。噂だけで国を傾かせる黒幕を見つけ出さなければ。第二のメロスが誕生するであろう。

 だがもう遅い。

 王ディオニスが第二のメロス化を宣言してしまっている。

 メロスが王の仲間となったら、いつか他国の暴君にまで喧嘩をふっかけて、この国をさらに傾けるであろう。


 セリヌンティウスは最後に決心した。

『メロスの知らない僻地に引っ越そ。明日にでも』

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セリヌンティウスは激怒した @luckyclover

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