声乞うて恋となる
御角
声乞うて恋となる
それは一瞬のことだった。
僕はゆっくりと立ち上がり、ピアノを背にして大勢の客と向き合う。そしていつものように深くお辞儀をし、感謝の意を
「——っ」
声が、出ない。ありがとうございましたと、ただその一言を告げ立ち去ればいいだけなのに、
最初は平然としていた客も、無言を
「……」
やはり出ない。このまま
コンクールが終わり、僕はまず一番に母に
「なんで最後、
淡々と、しかし鋭い声で母は僕を責める。けれど今の僕では、それに反論することさえ出来なかった。
「なんとか言ったらどうなの? ねぇ、無視はよくないっていつも言ってるわよね?」
今度は逆の頬を叩かれる。痛くはない。決して痛みはないけれど、何故か目からは涙が
「あなたも見ていないでなんとか言ってちょうだいよ」
母は口を開かず仁王立ちする父にもその
「……
父が発したその思いもよらない言葉に、僕は
「こ、え、が、で、な、い……? 母さん、どうやらコウは、
「……本当なの? コウ」
僕は思い切り首を縦に振る。その必死さがようやく伝わったのか、僕はコンクールの結果を待つことなく、すぐに病院に連れていかれた。
「原因はわかりませんが……恐らく心因性の失声症でしょう」
医者は僕達の顔を
「とりあえずしばらくは通院していただく形になります。カウンセリングなどもありますので……」
両親は何も言わず、まるで
声が出なくなってからも、僕はピアノを止めることはなかった。カウンセリングではピアノがストレスになっているのではないかと聞かれたこともあったが、それは
実際、
「はい、今日のレッスンはここまで」
透き通ったその声で、僕は我に帰った。時計を見れば
「何回も声をかけようとしたんだけど、あまりにも集中して弾いてるものだから……つい聞き
そう言って先生は笑った。先生は僕が小さい頃からピアノを教えてくれている、いわば僕の師匠だ。今はしがないレッスン教室の先生だが、昔はプロ顔負けのピアニストでいくつもの賞を取っていたらしい。
「遅くなっちゃったし、家まで送って行くよ」
彼女は僕の返事を待たずに、玄関から出て行ってしまった。それでも僕が動けずにいると、先程出て行った扉からその小さな顔だけを
「早く、早く!」
と僕を急かした。
本当はもう少し、いや、いつまでもあの空間で、先生の
「中学校はどう、もう慣れた?」
その世間話に苦笑しながら僕は首を振る。
「そっか、まぁ忙しいもんね……」
喋ることの出来ない僕相手では、他愛のないやりとりもすぐに底を尽きてしまう。だがその
「そういえば、コンクール……残念だったね」
彼女はただ真っ直ぐに前を
「あ、いや、嫌味とかじゃなくて。コウ君ぐらい上手かったら絶対いけるって、金賞を取って海外に行けるって思ってたから、その……」
僕の沈黙に耐えかねたのか慌てて彼女は付け加える。そんなこと、僕は気にしていないのに。
「……声、なんで出なくなっちゃったのかな」
ショパンの“別れの曲”が二人の間を静かに流れる。
「私のせい、なのかな……」
その
いつの間にか僕は眠ってしまっていた。車のブレーキ音でハッと目を覚ますと、そこは僕の家ではなく、さざなみの音だけがこだまする海辺の砂浜だった。隣に座る先生の表情は、夜の
「話したいことがあるの。来て」
そう言うと、先生は車から降りて、そっと僕の手を引いた。温かく、細いしなやかな手。鍵盤の上なら、きっともっと
僕は言われるがまま彼女についていき、砂が服に付くのも気にせず、波打ち
「あのね、これはコウ君が金賞とったら言おうと思ってたんだけど」
彼女の
「……私、ピアノの先生、辞めようと思ってるの」
その言葉に体が一瞬で
「実はね、ピアニストとして復帰しないかって、昔の仲間から誘われていて。最初はあまり乗り気じゃなかった。でも……」
彼女は僕の手を一層強く、優しく両手で握りしめ、僕の目の前に
「あなたが演奏する姿を見て、勇気を
彼女の目に映る僕の顔は、それはもう
『いかないで』
僕はもう片方の手で必死に、砂浜を
「小さい頃からあなたをずっと見てきて、一緒にピアノを弾いて、とても楽しかった。私にとってあなたは、一度諦めたピアノをまた好きにさせてくれた天使だったの。あなたと過ごしたかけがえのない時間……多分私、先生を辞めても一生、忘れないよ」
こんなに近くに、そばにいるのに、先生が今にも駆け出して遠くに行ってしまいそうで、僕はその希望を
生温かい水滴が、僕らの手の甲に
「泣かないで……あなたなら、あなたの実力なら、きっとまたいつか会える。だって、あなたのピアノが私の人生を動かしたんだから。あなたの親には、私から話しておくから。だから……」
僕は涙でぐしゃぐしゃになった顔を見せまいとなんとか下を向いて、砂浜にありったけの思いを
「どうか辞めないで、諦めないでね。ピアノ」
その呟きは僕に届いた後、波の音に
今思えばきっと、僕の声は出なくなったのではなく、僕が無意識のうちに押さえ込んでしまったのだろう。
コンクールで無我夢中でピアノを奏でて、金賞を取るあと一歩手前のところで先生の顔が頭をよぎった。海外に行ってしまえば、もう先生と一緒にはいられない。隣でピアノを弾くことは二度と出来ない。そんな考えが胸の奥底から泡となって溢れ出し、僕の喉を
僕は自分の声を
「さ、遅いし帰ろうか」
彼女は
『あなたがすきです』
砂浜に
その後、帰り道で彼女は決して口を開くことはなかった。夜の車内に、ツェムリンスキーの“人魚姫”だけが悲しく響き渡り、そっと僕の体を震わせた。
先生が先生でなくなってからも両親は相変わらず僕にピアノを続けさせた。一時期は
「次、出番です」
「はい」
元気よく喉を震わせ、僕は会場へと向かう。いつかまた、あなたの隣でピアノが弾けるように、あなたに僕の思いが伝わるように。一瞬一瞬の旋律に、僕の全てを乗せて、その重い鍵盤を叩く。
どうか、遠く前を見据え歩み続けるあなたに、あの日の言葉が届きますように。
「次は、エルガー作曲、愛の挨拶。演奏者は……」
声乞うて恋となる 御角 @3kad0
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