声乞うて恋となる

御角

声乞うて恋となる

 それは一瞬のことだった。き上がる歓声、会場をふるわせるほどの拍手の雨。演奏を終えた僕に誰もが賞賛のまな差しを送っていた。

 僕はゆっくりと立ち上がり、ピアノを背にして大勢の客と向き合う。そしていつものように深くお辞儀をし、感謝の意をべる。いや、述べようとした。

「——っ」

 声が、出ない。ありがとうございましたと、ただその一言を告げ立ち去ればいいだけなのに、のどに何か詰まったような、空気だけが喉を素通りしていくような心地がして一向に言葉が出てこない。

 最初は平然としていた客も、無言をつらぬく僕に違和感を覚えたのか、ざわざわとまどいの色を示している。客だけではない。会場のはしで見守る両親も、その異変に気が付きこちらをジッとにらみつけた。

「……」

 やはり出ない。このままこしを折り曲げ何も言わないのは流石に不味まずいだろうと思い、僕はもう一度 会釈えしゃくをし、そのままステージの端へ退場した。それでも客は、僕の演奏なんか忘れて相変わらずコソコソと何か話をしているようだった。


 コンクールが終わり、僕はまず一番に母にたたかれた。さすったほおが熱を持ち、血液のドクドクと脈打つ感覚が手の平ごしに僕をさぶる。

「なんで最後、挨拶あいさつしなかったの? いつもは出来ているはずでしょう」

 淡々と、しかし鋭い声で母は僕を責める。けれど今の僕では、それに反論することさえ出来なかった。

「なんとか言ったらどうなの? ねぇ、無視はよくないっていつも言ってるわよね?」

 今度は逆の頬を叩かれる。痛くはない。決して痛みはないけれど、何故か目からは涙があふれて止まらなかった。

「あなたも見ていないでなんとか言ってちょうだいよ」

 母は口を開かず仁王立ちする父にもその矛先ほこさきを向けた。

「……いやになったか? ピアノが」

 父が発したその思いもよらない言葉に、僕はあわてて首を振った。そして、その大きな手にひら仮名がなを一文字ずつ指で書き、なんとか今の状況を伝えようと試みた。

「こ、え、が、で、な、い……? 母さん、どうやらコウは、しゃべれなくなってしまったらしい」

「……本当なの? コウ」

 僕は思い切り首を縦に振る。その必死さがようやく伝わったのか、僕はコンクールの結果を待つことなく、すぐに病院に連れていかれた。


「原因はわかりませんが……恐らく心因性の失声症でしょう」

 医者は僕達の顔を一瞥いちべつしそう言った。難しい言葉はあまりよくわからなかったが、その人によれば、ストレスなどが原因で声が出なくなってしまうことはしばしば起こるらしい。だが、大抵たいていは自然に治ってしまうものだとも聞かされた。

「とりあえずしばらくは通院していただく形になります。カウンセリングなどもありますので……」

 両親は何も言わず、まるで他人ひとごとのように医者の言葉を聞き流していた。


 声が出なくなってからも、僕はピアノを止めることはなかった。カウンセリングではピアノがストレスになっているのではないかと聞かれたこともあったが、それはむしろ逆で、僕はピアノをいている瞬間がどんな時間よりも幸せだと、ストレスの発散にもなるのだとカウンセラーを説得した。

 実際、鍵盤けんばんの上に指を走らせるあの時間だけが僕の心をいやしてくれたし、頭を空っぽにして自分のかなでる音色に集中している間だけは、家や学校で自己表現することもままならない、そんな自分の姿を忘れられるような気がした。


「はい、今日のレッスンはここまで」

 透き通ったその声で、僕は我に帰った。時計を見ればすでに午後7時。どうやら目の前のがくに夢中になりすぎたようだ。

「何回も声をかけようとしたんだけど、あまりにも集中して弾いてるものだから……つい聞きれちゃった」

 そう言って先生は笑った。先生は僕が小さい頃からピアノを教えてくれている、いわば僕の師匠だ。今はしがないレッスン教室の先生だが、昔はプロ顔負けのピアニストでいくつもの賞を取っていたらしい。

「遅くなっちゃったし、家まで送って行くよ」

 彼女は僕の返事を待たずに、玄関から出て行ってしまった。それでも僕が動けずにいると、先程出て行った扉からその小さな顔だけをのぞかせて

「早く、早く!」

 と僕を急かした。


 本当はもう少し、いや、いつまでもあの空間で、先生のとなりでピアノを弾いていたかった。車の助手席でクラシックをきながら、僕は先生の横顔をじっと見つめていた。

「中学校はどう、もう慣れた?」

 その世間話に苦笑しながら僕は首を振る。

「そっか、まぁ忙しいもんね……」

 喋ることの出来ない僕相手では、他愛のないやりとりもすぐに底を尽きてしまう。だがそのしばしの沈黙ちんもくを、彼女はまたも破った。

「そういえば、コンクール……残念だったね」

 彼女はただ真っ直ぐに前を見据みすえ、なんでもないことのようにつぶやいた。

「あ、いや、嫌味とかじゃなくて。コウ君ぐらい上手かったら絶対いけるって、金賞を取って海外に行けるって思ってたから、その……」

 僕の沈黙に耐えかねたのか慌てて彼女は付け加える。そんなこと、僕は気にしていないのに。

「……声、なんで出なくなっちゃったのかな」

 ショパンの“別れの曲”が二人の間を静かに流れる。

「私のせい、なのかな……」

 そのおだやかな旋律せんりつまぎれ、彼女の呟きは僕の耳には届かなかった。


 いつの間にか僕は眠ってしまっていた。車のブレーキ音でハッと目を覚ますと、そこは僕の家ではなく、さざなみの音だけがこだまする海辺の砂浜だった。隣に座る先生の表情は、夜のやみに包みかくされ、何も読み取ることは出来ない。

「話したいことがあるの。来て」

 そう言うと、先生は車から降りて、そっと僕の手を引いた。温かく、細いしなやかな手。鍵盤の上なら、きっともっと綺麗きれいに、その美しさがきわって見えるだろう。

 僕は言われるがまま彼女についていき、砂が服に付くのも気にせず、波打ちぎわに二人並んでこしけた。月が、波の中でらめき踊る。

「あのね、これはコウ君が金賞とったら言おうと思ってたんだけど」

 彼女のひとみにも、小さな三日月が揺れている。手はずっと、つないだままだ。

「……私、ピアノの先生、辞めようと思ってるの」

 その言葉に体が一瞬でこわる。僕は、目を見開き、必死に声を出そうとした。嘘だ、なんで、どうして……。僕を、見捨てないで。どれも言葉にはならなかった。ただただぬるい空気が、その喉元をかすめていくだけだった。

「実はね、ピアニストとして復帰しないかって、昔の仲間から誘われていて。最初はあまり乗り気じゃなかった。でも……」

 彼女は僕の手を一層強く、優しく両手で握りしめ、僕の目の前にかかげた。

「あなたが演奏する姿を見て、勇気をもらった。私もあんな風に自由に、思い切り自分を旋律に乗せて人に届けたい。もう一度ピアノが弾きたいって、そう思った」

 彼女の目に映る僕の顔は、それはもうひどいものだった。いくら彼女にめられても、彼女が手を握ってくれているとしても、この胸でうず巻くどうしようもない感情は、ただ延々と僕の内側で暴れ回り抑えようがなかった。

『いかないで』

 僕はもう片方の手で必死に、砂浜を穿うがった。でも彼女は足元を見ようともせず、ひたすら遠い水平線に思いをせていた。

「小さい頃からあなたをずっと見てきて、一緒にピアノを弾いて、とても楽しかった。私にとってあなたは、一度諦めたピアノをまた好きにさせてくれた天使だったの。あなたと過ごしたかけがえのない時間……多分私、先生を辞めても一生、忘れないよ」

 こんなに近くに、そばにいるのに、先生が今にも駆け出して遠くに行ってしまいそうで、僕はその希望をまとう両手を強く強く握り、抱きしめた。

 生温かい水滴が、僕らの手の甲にはじかれ、砂浜に小さな花を咲かせる。雨が降っているわけでもないのに。

「泣かないで……あなたなら、あなたの実力なら、きっとまたいつか会える。だって、あなたのピアノが私の人生を動かしたんだから。あなたの親には、私から話しておくから。だから……」

 僕は涙でぐしゃぐしゃになった顔を見せまいとなんとか下を向いて、砂浜にありったけの思いをつづった。

「どうか辞めないで、諦めないでね。ピアノ」

 その呟きは僕に届いた後、波の音にまれかき消されていく。


 今思えばきっと、僕の声は出なくなったのではなく、僕が無意識のうちに押さえ込んでしまったのだろう。

 コンクールで無我夢中でピアノを奏でて、金賞を取るあと一歩手前のところで先生の顔が頭をよぎった。海外に行ってしまえば、もう先生と一緒にはいられない。隣でピアノを弾くことは二度と出来ない。そんな考えが胸の奥底から泡となって溢れ出し、僕の喉をふさいだのだ。

 僕は自分の声をだいしょうに、彼女を、先生と共に過ごし続ける未来を手に入れようとしていた。


「さ、遅いし帰ろうか」

 彼女はきびすを返し、夜空の月に背を向ける。

『あなたがすきです』

 砂浜になぐり書きされた思いも、僕の望んだ未来も、波が全てをさらい、残らず水平線に弾けた。

 その後、帰り道で彼女は決して口を開くことはなかった。夜の車内に、ツェムリンスキーの“人魚姫”だけが悲しく響き渡り、そっと僕の体を震わせた。


 先生が先生でなくなってからも両親は相変わらず僕にピアノを続けさせた。一時期はひかえていたコンクールにも段々出場するようになって、その頃にはすっかり喉の調子も良くなっていた。

「次、出番です」

「はい」

 元気よく喉を震わせ、僕は会場へと向かう。いつかまた、あなたの隣でピアノが弾けるように、あなたに僕の思いが伝わるように。一瞬一瞬の旋律に、僕の全てを乗せて、その重い鍵盤を叩く。

 どうか、遠く前を見据え歩み続けるあなたに、あの日の言葉が届きますように。

「次は、エルガー作曲、愛の挨拶。演奏者は……」

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