9. Conclusion

 明るい朝だ。新田は枕元のめがねを手探りしてかける。ヒカリはもう起きているようで、跳ね飛ばしたタオルケットと乱れたシーツだけが隣に残っている。枕のわきに見張りのように座す犬のぬいぐるみは、アカリからもらい受けて気に入っているものらしい。光山の寝室をもとに作ったふたりの寝室は、シングルベッドを二つ繋いで急造のキングサイズにしたものを壁に寄せて、傍らに衣装箪笥を置いた小さな部屋だ。東に向いた窓が朝だけ光を取り入れるので、この部屋を使うことにしたのだった。

 新田はキッチンに立ち、コーヒー用の口が細いやかんを火にかけた。食パン二枚をトースターに入れて焼きながら、冷やしておいたグレープフルーツを半玉ぶん剥いていく。フライパンを火にかけ、オリーブオイルを温めて卵を割り入れると、ひとつの卵から黄身が二つあらわれた。今日はこれで二人分としよう。新田は手早く胡椒を削って振りかけると、火を弱めてからコーヒーの準備に取りかかる。

 ガラスサーバーに三つ穴のドリッパーを載せ、その中へペーパーフィルターを折り入れる。コーヒーの粉は専用のメジャーに二杯。湯で粉の全体が湿らせたら、三十秒蒸らして浸透させる。そこから一投目、沸き立ての湯を注ぐいでいくのを、徐々に湯量を減らして繰り返す。

「よし」

 皿に盛った目玉焼きをグレープフルーツのガラスボウルと並べる。湯気のたつコーヒーをマグカップ二つへ注ぎ分けると、新田はキッチン脇の裏口から庭へ出た。

 光山とアカリが残していった前庭は、新品種作出のための大量の花卉が育てられ、六月の今はばらとクレマチスが盛りを迎えている。うすい桜色の八重のばらと、淡い薄紫の重たい花弁のばらの花群の間を抜けると、支柱に絡ませたクレマチスが白と藤色と濃い紅色の大きな時計のような花をいくつも咲かせている中に、ヒカリの姿はあった。

「ヒカリ、ご飯だよ」

 新田が声をかけると、しゃがみこんで花木へ水をやっていたヒカリはこちらを見上げてぴょんと立ち上がる。真っ白なワンピースの裾を両手ではたき、サンダル履きの濡れた裸足で駆け寄ると、ヒカリは新田を正面から見つめて大きく笑う。

「ヒデアキくん!」

 目頭が切れ込んだ両目をキュッと細めて頬をほてらせるヒカリにつられて新田も眉をさげて微笑む。自分たちが同じ表情をしていることは、今は他の誰にも見咎められることがない。

「おいで。コーヒーが冷めないうちに」

「はあい」

 ヒカリは新田の右手を強くひく。新田は明るい朝の光の中を、やわらかい露に濡れた草を踏んで歩き出した。




「本当にこれで大丈夫なの」

「問題ないだろ。記録上の新田とヒカリがいなくなれば済む」

 私の声-人間の女性を模した合成音声が不満気なのを聞き取って、出水倫治が低い声で答える。基礎研究チームのオフィスには今は出水ひとりしかいない。低すぎる設定温度のエアコンが最大風力で稼働する音が、出水のワークステーションの稼働音に重なっている。

「俺にも細かいところまではわかんないんだよ。新田の出自のこともよく知らん。でもまあ、あいつがヒカリと一緒にいられるならそれでいいよ」

「そのために私のプログラムを無理やり書き換えたり、出水は乱暴だ」

「ごめんごめん、俺が手塩にかけたHALだからさ。逆に下手に騙すのが無理だったわけ」

 私、HALはCeRMSの施設全体を見守るAIとしてプログラムされたが、ヒューマンインターフェイスとしてのわかりやすい「外見」は持っていない。物理的にヒト型のロボットを作ったり、ディスプレイ上で動く少女型のアバターをつけたりすることはできたはずだが、あえてそれをせずに音声だけでコミュニケートする仕様だ。

「俺、人工知能には物理的にアクセスできないほうが萌えるんだよね。HALはやっぱり声だけなのが最高にかわいい」

「そんなことを急に言っても無駄だからね。またなにか無理を通そうとしてるんだろう」

 私がそう言うと、出水はめがねを押し上げて小声で言い募った。

「そこをなんとか。新田の隠れ家と通信したいんだよ。外部にバレないようにするの手伝って」

 しかたない。私は合成音声でもそれとわかるように盛大にため息をついたあと、出水の書き換えていくプログラムに呼応して通信網を整備しはじめる。出水は片手に持ったゼリー飲料を吸い込んで、小さく口元だけで微笑んだ。



(終)

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The Hideout 森山流 @baiyou

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