世界で一番簡単な魔法

風嵐むげん

世界で一番簡単な魔法

 卒業証書、鳥栖彩乃。校長先生から渡された賞状は、私が中学校生活を無事に過ごした証だ。本来であれば達成感を持って受け取り、次に待つ高校生活に希望を抱くべきなのだろう。

 でも、とてもじゃないがそんな気持ちにはなれない。目の前に広がる景色が、どんどん色褪せていく。


「さてと、そろそろ時間だな。改めて皆、卒業おめでとう。高校でも元気に、勉強や部活に励めよー!」

「えー! これでお別れなのに、玉木先生ってば泣いてくれないのぉ?」

「ふふん、残念だったな。先生は大人だから泣かないんだ」


 女子の声に、玉木先生がニヤリと意地の悪い顔で笑った。卒業式らしくない、いつも通りの表情は何よりも色鮮やかに見える。

 いつもだったら、そんな先生を見られれば嬉しくて仕方がないのに、どうしても気持ちが沈む。

 今日は卒業式。中学校に来るのは、今日で最後。玉木先生に会えるのも、これで最後なのだ。

 ズキズキと痛む胸を慰めるように撫でる。生徒と友人のように言葉を交わす玉木先生は教員の中でも若手で、背が高くて爽やかな顔立ちで人気な先生だ。

 そして私が、片思いをしている人。


「どうしたんだ、鳥栖」

「え?」


 先生に名前を呼ばれる。気がついたら、最後のホームルームが終わってしまっていた。クラスメイトは皆、廊下や他の場所に行ってしまったらしい。

 教室には私と、玉木先生の二人だけ。


「友達に呼ばれても気が付かないくらい、ぼーっとしてただろ。最後だから思い出に浸ってたのか? ま、三年間も通ってたら色々あるよな」

「そう、ですね」

「鳥栖とは、よく放課後に居残り勉強したな。第一志望の高校に合格出来たって聞いた時は、俺も自分のことのように嬉しかったよ」


 玉木先生が前の席に腰を下ろした。見慣れた光景に、目の奥が熱くなる。

 担当教科だけでなく、他の教科でも先生は毎日のように日が暮れるまでこうして勉強を教えてくれた。模試で思うような結果が出せなくても、先生が励ましてくれた。合格発表の時、誰よりも喜んでくれた。

 そんな先生が、私は好き。家族や友達に対する好きとは、別物の好きだ。温かくて、でも痛い。教えてもらわなくてもわかる、これが恋という感情なのだろう。

 それなのに、今日でお別れなんて。


「あの、先生」

「ん? どうした」


 声が震えて、言葉が詰まる。話したいこと、伝えたいことがたくさんあるのに。頭の中に居る『良い子』の自分が邪魔をする。

 私は子供で、先生は大人だ。この気持ちを伝えたいけれど、迷惑なだけだ。いや、適当にあしらわれるかもしれない。

 実らないだけならまだしも、互いに傷つけるだけなら言わない方がいい。俯いて、言葉を飲み込んでいると、大きな手がぽんぽんと私の頭を撫でた。


「……不安に思うのは仕方がない。慣れた場所、仲のいい友達と離れることになるからな。でも、鳥栖なら大丈夫だ。お前が頑張り屋なのは、俺が一番よく知ってる」

「先生……私は、」

「そろそろ行こう。お前も、友達と写真撮りたいだろ」


 そう言って、先生が立ち上がる。二人の時間が終わってしまう。引き止めるなら、これが最後のチャンスだ。

 邪魔する自分を押し退けて、勢いよく立ち上がる。驚いたように振り返る先生に、私は顔を上げた。


「先生、私……あれ」


 でも、視界に入ったものにまたもや言葉を噤んでしまう。


「これは……桜の花びら?」


 小さな薄桃色の花びらが、ひらりひらりと目の前で踊る。反射的に両手で包み込むようにして捕まえる。本物の花びらだ。

 でも、今は三月の中旬。私たちが暮らす地域では蕾が膨らんできたものの、開花するまではまだ十日以上かかるだろう。

 それなのに、どうして、どこから。不思議に思って顔を上げると、困ったように笑いながら先生が視線を逸らした。


「あー、それはその……俺の家の近くに、もう咲いてる桜があるんだよ」

「そうなんですか?」

「そう。夏休みに課外活動で、海岸のゴミ拾いをしただろ? あそこから近くにある丘の上の公園。毎年早咲きするから、今日も学校に来る前に眺めてきたんだ。その時に、スーツの袖にでも入り込んでたかな」

「先生って、あの辺りに住んでいるんですね。初めて知りました」


 先生が担任のクラスで一年間過ごしていたのに、私は彼がどこに住んでいるのかも知らなかった。二人の間にある見えない壁が、どんどん分厚くなっていくようだ。

 もう、無理だ。このままお別れになるのは嫌だけど、思いを告げることが怖い。


「彩乃ー、先生ー。一緒に写真撮りましょー!」

「お、いいな! 行くぞ、鳥栖。悔いが残らないよう、たくさん写真を撮ろうぜ」

「……はい」


 先生に促され、教室を出る。その後のことは、よく覚えていない。友達と写真を撮って、後輩たちに見送られて。私は先生に何も言えないまま、中学校を後にした。



 あの日から、あっという間に三年が経った。私は高校で充実した日々を送ることが出来て、大学への進学も叶った。

 今日は高校の卒業式。友達はそれぞれの目標に向かって、離れ離れになる。それなのに、私はどこか上の空だった。

 卒業証書を受け取っても、友達と一緒に思い出を振り返っても、心は揺れない。卒業の実感がない、とは少し違う。

 思えば、私が高校で過ごした三年間はずっと灰色だった。楽しいことも、悔しく思うことはたくさんあったけれど。ずっと、心は沈んでいた。

 沈んだ底で考えることは一つ……いや、一人だけ。


「彩乃はクールだよねぇ。まさか、卒業式でも泣かないとは……大人だねぇ」

「そ、そんなことないよ」


 友達にからかわれて、思わず首を横に振る。全然大人なんかじゃない。私はこの三年間で、少しも成長出来ていない。

 玉木先生への恋心を、未だに引きずっている。中学を卒業してから一度も会っていないのに、頭を撫でてくれた大きな手の温かさを忘れられずにいる。

 友達は皆、前を向いて歩いているのに。私だけはずっと、同じ場所から動けない。


「あーあ。明日からは皆バラバラになっちゃうんだねぇ。ねえ皆、時間あるならファミレス行こうよ。お昼食べ損ねちゃったから、お腹ぺこぺこだよ」

「お、いいねぇ。行こう行こう」

「カフェにも行きたいなぁ! 甘いもの食べたいよー」


 スマホで時間を確認すると、すでに午後四時を過ぎていた。卒業式が終わってからも、皆で過ごしている内に時間はあっという間に流れてしまう。

 確かに、お腹が空いた。皆と一緒に食事をするなんて、素敵な高校生活の締めくくりになるだろう。


「彩乃も行かない? お腹空いたでしょ」

「うん、行く。でもその前にお母さんに連絡しないと」


 友達からの誘いに頷いてから、私はスマホを取り出す。そこまで遅くなるつもりはないが、念のために連絡しておこう。

 でも、スマホケースから落ちたものに、メッセージアプリを起動させようとした指が止まる。


「あ……」


 慌てて拾い上げる。たった一枚の桜の花びらで作った、押し花のしおり。三年前、中学の卒業式で先生の袖から落ちたあの花びらだ。

 こんなものを未練がましく持っているから、成長出来ないのだ。それはわかっているけれど、どうしても捨てることが出来なかった。

 灰色の景色の中でも、この花びらだけはずっと色鮮やかだったから。

 ……そういえば、今は三月の中旬。校庭の桜はまだ蕾だ。花開くまでは、一週間以上かかるだろう。

 でも、もしかしたら。咲いている桜があるかもしれない。


「ごめん。私、行きたいところがあるから、先に帰るね!」

「え、彩乃!?」


 荷物を担ぎ、花びらのしおりを握り締めて、私は駆け出した。どうしてそうしたのか、自分でもわからない。

 でも、どうしても見たいと思ってしまった。早咲きの桜を。


「この辺に来るの、久しぶりだ……」 


 高校は家から電車とバスを乗り継いだところにある。そこからゴミ拾いをした海岸に辿り着いた頃には、すっかり日が暮れてしまった。

 丘の上に行くために、坂道を登る。街灯が少ない辺りは暗く、肌を撫でる夜風が冷たい。卒業式の後にそのまま来てしまったので、荷物も結構重い。それでも、私は歩き続ける。

 すると、視界の端に薄桃色の花びらが飛び込んできた。


「わあ……!」


 ベンチくらいしかない小さな公園だった。誰もいない。遊具すらないこの場所は、普通だったら見過ごすか素通りしてしまうだろう。

 でも、ちゃんと見つけられた。一枝だけだけれど、薄桃色の花が咲いていたから。

 そして、


「玉木、先生」


 そこに居る人に気がついて、呼吸を忘れるくらいに驚いた。


「ん? もしかして……鳥栖か?」


 夢だと思った。情けない私に桜が見せた幻だと思った。

 でも、違う。缶コーヒーを片手に桜を見上げていたのは、玉木先生だった。少し髪が伸びたけれど、三年前から全然変わっていない。

 思わぬ再会に怖じ気づくも、先生は立ち上がり嬉しそうに笑った。


「久しぶりだな! 背も伸びたし、大人っぽくなったな。何より元気そうで安心したよ」

「あ、ありがとうございます……でも、どうしてここに」

「どうしてって、前に話しただろ。俺、この近くに住んでるんだ」


 そういえば、言っていた気がする。どうしよう、頭の中がぐるぐるで何も言えなくなってしまう。


「それにしても驚いた、ここで鳥栖と再会出来るなんて夢みたいだ。それに、先生なんて久しぶりに言われたよ」

「え?」

「俺さ、鳥栖が卒業した後、教師を辞めたんだ。今はプログラマーやってる」

「どうして……先生、嫌になっちゃったんですか?」


 私が中学生の頃は、女子生徒はもちろん男子生徒にも慕われていた、頼りがいのある先生だったのに。


「いいや、そうじゃない。今でも教師は俺にとって天職だと思うぞ。中学生は人間が心身共に大きく成長していく時期だからな。一日ごとに成長していくお前たちを見ているのは楽しかった。でも、俺はもう先生でいられなくなった」

「先生でいられなくなったって……もしかして、何か問題を!?」

「うぐ、お前にそう言われると結構くるな。まあ、問題といえは問題か。一人の女子生徒に、魔法をかけちまったからな」

「え……ま、魔法ですか?」


 どうしよう、先生……変なものでも食べたのかな。

 それとも、まだ子供扱いされているのかもしれない。流石に十八歳にもなれば、現実的にもなるのに。


「そう。世界で一番簡単な魔法。俺のことを忘れないように。高校を卒業した後で、この早咲きの桜の元で再会出来るように」

「あの、先生……私、十八歳になったんですよ。流石に魔法なんて」

「早いよなぁ、お前も十八歳か……つまり、法的にも立派な大人ってことだな」

「そうですよ、もう大人なので」


 自分で言って、気がつく。そうだ、今は三年前とは違う。

 私はもう大人なんだ。


「前に読んだ本にあったんだ、世界で一番簡単な魔法のかけ方。魔法をかけたい相手に花を見せながら、この花が好きなんだーなんて話をして、自分のことを印象づける。そうすると、相手はその花を見かける度に自分のことを思い出す。俺の場合は、花以外に卒業式っていうアレンジも加えてみた。そうしたら、こうしてお前と再会出来た。お前も大人なんだから、あの時言えなかったことも気兼ねなく言えるな?」

「……待ってください、それって」

「言っておくが、俺はロリコンとかじゃないからな。ただ、大人でも泣きたくなるくらいの真っ直ぐな熱に当てられただけだよ。ここまで来てくれたのに、アラサーのおじさんは嫌だ、なんて言われたら真面目に泣くけど」


 そう言って、先生が私の前に立つ。ぽんぽんと、大好きな手が頭を撫でてくれた。顔が耳まで真っ赤になっているのが、鏡を見なくてもわかる。

 頭上からひらりと舞い踊る花びら。景色が色づいていく。


「色々話したいことはあるけど、もう夜だからな。駅まで送るよ。行こうぜ」

「……はい!」

 

 二人で並んで、公園を後にする。再会出来たことだけでも嬉しいのに、こうして一緒に歩けるなんて信じられない。

 もしかしたら、これは夢かもしれない。触れた手を捕まるようにして握り締める。見上げた先生の顔が夜でもわかるくらい赤くなっていて、思わず二人で笑いあった。

 

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