エピローグ

エピローグ 落日の有明

 東京ビッグサイトが海の中に沈んでいた。

 特徴的な三角錐の集合体だけが海面から覗くだけで、その下はすっかりと薄汚い海の中に身を浸し様子をうかがい知ることもできない。

 静かに凪いでいたお台場の海がやがて、遠くバラバラという羽音とダウンウォッシュの波しぶきに波立つ。

 お台場パレットタウン乗船場に立つフェリクスと史香、そして幾人かの自衛官がこちらに飛来してくる海上自衛隊の輸送ヘリ〈MCH-101〉を見上げていた。

 東雲並びに有明エリアが海の底となったのは、フェリクス達が臨海副都心奪還作戦を遂行した一ヶ月後のことだ。

 司千歳が率いる秘匿部隊が再度秘密裏に展開した後に、東雲並びに有明エリアの埋立地の地下構造体が爆発炎上。地面の液状化と共に海水が流れ込み、構造体が完全に崩壊したことで東雲と有明は海に沈んだ。

 臨海副都心に巣食うオルタネーターの排除の達成という日本人が東京奪還の大いなる第一歩を踏み出すことができた。その矢先の大事件、あるいは大事故。だがフェリクスはおろか史香にもその首謀者の顔は容易に思い浮かんだ。

 おそらくは新型爆薬〈シディム〉の実地テストも兼ねていたのだろう。だが誰が現場で作業にあたったのか。おそらくは司の子飼いの部隊だろうが、思い当たる顔は新崎悠矢しか思い浮かばない。そしていつ実行したのかということも皆目検討はつかなかった。計画遂行の際の情報秘匿性に関しては司千歳の手腕は完璧だった。

 あの女は本気で東京を海の底に沈めてやろうとしているのだ。話を聞いただけでは実感は湧かなかったが、いま水没した都市を目の当たりにして興奮とも躊躇にも似た怯懦ともつかない感情がフェリクスの中に波立っていた。地図と世界を変えてしまうほどの大きな計画の第一歩。その踏み出した足は、もう二度と引き返すことの許されないルビコン川を渡る第一歩だ。

 国土の一部を失うという失態を晒した政府に対しマスコミは過熱した世論を作り上げてはみたものの、これほどの失態を晒しても政権交代はあり得ないというのが冷めた世間の見方だった。与党が国力たる一般市民の日々の生活までも搾取する既得権益の亡者であるならば、一方で野党連合は現実を直視できず与党の逆張りしかできない無能揃いというのが、現状把握ができる人間たちの共通見解だった。なにせ国土の一部が海に沈み、パンとパスタとガソリンが高騰し、円安が危険水域まで到達している中で野党が声高に叫んだことと言えば、アダルトビデオを法的に禁止しようということくらいだった。

 今日も今日とて与党も野党も議員先生がたは議員バッジを外したくないがための醜態を晒している。

 旧東京二十三区を海に沈める〈E計画〉。これが漏洩してしまえば、自分たちオブジェクターとエフェクターは、おそらくオルタネーター以上に〝化け物〟と誹りを受けることになるだろう。その予測にフェリクスは強く拳を握りしめた。

 一度でもわずかにしくじれば全てが台無しになる。

 その途方も無さに、フェリクスは僅かながらも身震いを禁じ得なかった。

 ふと、傍に立つ史香に目を向けてみた。

 この気が狂いそうな世界でギリギリ正気を保っていられているのは、彼女達のおかげなのかもしれない。

 彼女達を守っているようで、その実彼女達に守られてもいるのだろう。

 そして何より……。フェリクスは胸の内に宿るものに意識を向ける。

 そこには小島蜜李のカケラのようなものが存在する気がしてならなかった。そう思わずにはいられなかった。

〝オーバーレゾナンス〟――それは蜜李による加護だったとしても言い過ぎではない。事実、フェリクスが今日まで生き残れたのは、間違いなくオーバーレゾナンスのおかげなのだから。

 だから――

「俺は君たちに、頼っていいのだろうか……」

「……? 何か言いましたか、フェーリャさん?」

 呼ばれたような気がして、史香が首をかしげてみせる。

「いや、なんだか史香も頼もしくなってきたなって、そう思っただけだ」

 にぱっ、と史香の顔が昇る太陽のように明るくなる。

「フェーリャさんにそう言ってもらえると、わたしも嬉しいです! わたしにできることなら遠慮なく頼ってください」

 だって……、と史香は弾む声で続けた。

「だって、わたしたちはパートナーなんですから!」

 二人はまた改めて陽の沈みかけた有明の海を目にした。陽は随分と西に傾いていた。ヘリ立てる波に、西日に煌めく水面が揺らめく。

 見渡せばビッグサイトだけでなくワシントンホテルをはじめとした高層ビルのいくつかも、その足元を海の中に沈めて頭頂部だけを海面から生やして、茜色に染められていた。

 かつて未来型の水彩都市とされたこの街の一角が海に沈んでいる光景を見て、美しいと思ってしまうのはきっと東京と縁深かったか、それとも大して東京に愛着を持っていなかったかのどちらかだろう。

 自分はどちらなのだろうと、己に問う。愛していたとは決して口が裂けても言えないが、呪いめいた因縁のようなものは既に自分の中に醸成されている。

「本当に……やってしまったんですね」

 海の底に沈んだビルの頭頂部を目にしながら、史香が静かに口にする。

 今日のフェリクスたちの任務はお台場エリアを哨戒する自衛官たちの護衛だった。先日の東雲と有明エリアの海没を受けて、政府と防衛省側は少しでも情報を集めたいのだろう。無駄なことをと、フェリクスは胸の内でほくそ笑むと同時に自衛官たちに同情も禁じ得なかった。彼らも命令で行動をしているのだ。

 案の定、オルタネーターの姿は全く見受けられなかった。当たり前だ。自分たちオブジェクターの仕事に抜かりは無いという自負があった。今はこうして、誰一人欠けるどころか怪我一つせず帰還中である。

「わたしたち、自衛官さんに嘘ついちゃってたってことになりますよね」

 史香が苦笑いを浮かべる。

「適当に散歩しただけでお仕事したってことになるから良いことじゃねえか。仕事ってのは楽な方が良い」

 ふと高田のことを思い出した。北千住で救出して何故か有明で再会し、共に戦った若い自衛官。いつかオルタネーターがいなくなったら、ビッグサイトで催された大規模イベントにまた参加したいと言っていた。

 残念ながらあの男の願いはもう二度と叶わない。

 そうだ。この東京に想いを残している者、オルタネーターがいなくなった未来に想いを馳せている者も存在することもまた事実だ。東京という自分の故郷を追われ、思い出や思い入れに焦がれる者も少なくないだろう。

――だとしてもだ。

 自分たちオブジェクターとエフェクターが自分の人生の一部を贄として差し出すことを強いられているように、この国に住む人間もまた〝東京〟を差し出さなければ釣り合わない。オルタネーター殲滅のためにこちらは命を賭けているのだから、お前たち日本人も大切なものを差し出してもらう必要がある。

 ダウンウォッシュに頭を叩きつけられる感覚。輸送ヘリが頭上まで来ていた。やがてゆっくりと降下し始めると、ランディンギアを軋ませ着陸する。ローターの回転が落ち着き、機体後部のカーゴが開かれると、自衛官たちが続々と装備やら機材やらを降ろし、代わりに〝サンプル〟と称したオルタネーターの遺骸である塩の塊や液状化した有明の大地の欠片を積み込んでいく。

〝ゆらぎ〟は依然、健在しており、ヘリコプターはそのまま東京湾を出ることはできない。そのため一旦、沖に控えている輸送艦〈おおすみ〉に帰投する必要があった。

 なお、臨海副都心が奪還されたことで「〝ゆらぎ〟の中であれば電子制御に支障は無い」と調子に乗った政府は、国土交通省と防衛省のヘリを旧二十三区内へ調査のために進入させたが、一機たりとも帰投することは無かった。

 自衛官たちの荷物の積み込み完了まで、せめて一服するくらいの時間はまだあるだろうとフェリクスは〈敷島〉とプリントされた煙草のソフトパックを取り出した。中にはまだ数本の煙草が残っている。一本を摘み取ろうとするが、その手を止めた。二度、三度、煙草と海面に視線を言ったり来たりさせると、そのまま波立つお台場の海へと思いっきり放り投げていた。

「あぁっ! なにポイ捨てなんかしてるんですかフェーリャさん!」

 突然のマナー違反に史香が声を上げた。

 ヘリの巻き起こす風に吹かれて煙草の空き箱がひらひらと舞う。やがて波紋を一つたてて水面に落ちると、水を含んだ重みで沈んでいった。

「いいんだ」

「えっ?」

 どこか遠い目をしながら、まるで自分に言い聞かせるように言う。

「これで、いいんだ」

 もうそれはフェリクスには必要のないものとなった。もたれかかる必要も無い。それが無くても、一人でちゃんと立てると思えた。誰かを支えることができると思えたから。

「良くないですよ、ポイ捨てなんて!」

「あぁ、わかってるよ。次から気をつけるって」

「……何か、あったんですか?」

「んー? 禁煙チャレンジ。やってみようかなーって」

 彼女の顔を見て禁煙するのも悪くないと思えた。

 何より、子供の前でぱかすか紫煙を燻らせるような真似をしてきた自分のバカさ加減にようやく気づけたこともあった。

「そうですか。良かったです」

 やはり煙たかったのだろう。史香も明るい笑みを向けてきた。

 とはいえポケットに手を突っ込めばオイルライターの感触しかなくなり、やはり名残惜しそうに口寂しくなる。

「そいやさ」何かを思い返すように史香に声をかける。

「はい?」

「いつから俺のこと、『フェ―リャ』って呼ぶようになったんだ?」

 途端に史香の表情が茹でダコのように紅潮する。

「……えっと、いやぁ、そのぉ……」

 駄目ですか? と上目遣いにフェリクスを見る史香。あまり歳相応の我儘を言わない史香が、数少ないおねだりをする時の表情だ。

「別に駄目とかそういうのじゃないけど、なんか気になっただけ」

「だって朝希ちゃんや厚治さんばかりずるいじゃないですか。わたしだけ仲間はずれみたいで……」

 ぶすっと唇を尖らせて変わらず上目遣いの目を向けてくる史香に、フェリクスは困ったように頭をぽりぽりと掻いた。

「いやずるいとかじゃなくて……まあ、お前の好きにすれば?」

 そんなことにいちいち許可を求めてくる史香がなんだかいじましく思え、フェリクスは苦笑を漏らした。

「それじゃあ、改めて……フェーリャさん」

「んだよ」

「えへへ、フェ―リャさん、禁煙がんばってくださいね」

 なんだか体中がむず痒くなってきた。

「だったら俺も史香のことなんて呼ぼうかね? 『ふみふみ』とかか?」

「やっ、普通に史香って呼んでください! なんですか『ふみふみ』って」

「そっちがニックネームで呼んでるんだから、こっちもニックネームで呼ばないと不公平じゃん、ふみふみ?」

「やめてください〜! やぁだぁ〜! んもー!」

 そんな二人がじゃれ合ってるところに「お二人さん、ちちくり合ってるところ悪いが、そろそろヘリに乗る準備をしてくれ」と遠く後ろの方から自衛官が呼びかけてきた。

 ちちくり合ってなんかねえよ……とフェリクスは胸の内で呆れ半分で否定する。

「フェ―リャさん、早くいきましょ! 今日の晩ごはんはなんですか? わたし、フェーリャさんのオムライスが食べたいです!」

「お安いご用ですよ、お嬢さん」

 弾んだ歩みで前をゆく史香に続いて、フェリクスも歩き出す。

 ヘリのランディンギギアに足をかけて、フェリクスはふと背後を振り返ってみた。

 視界にはビッグサイトをはじめとした海に沈んだ有明の街並み、そしてまだ健在だが薄汚れた旧フジテレビの社屋とお台場の繁華街。遅かれ早かれ、あのお台場も海に沈むことになるだろう。

 ようやく事態が動き出した。あの日、オルタネーターから僅かな面積ながらも東京を奪還するという功績を成し遂げながらも、その矢先に海に沈むという憂き目に遭い、海外ではそれなりに話題になったようだが国内ではこのニュースはもちきりだ。社会衛生庁と政府は、先の大地震で地下共同溝の破損したパイプラインから漏れ出て溜まったガスが、オルタネーターとの戦闘で引火、炎上し埋め立てた構造体が崩落したとの見解を出したが、こんなものは司が書いたシナリオに過ぎない。ネットではそれが少しでも世の中を良くすると盲信して犯人探しに大勢が躍起になっており、テレビのワイドショーでは門外漢の専門家と何もわかっていないような芸能人のコメンテーターが的外れなことを知ったかぶりで語っている。

〝東京〟に対する眼差し。俺たちオブジェクターとエフェクターに対する眼差し。

 結局、〝東京〟もオルタネーターも、俺たちオブジェクターとエフェクターも、日本人にとって全てが他人事に過ぎない。

 そうやって、お前たち日本人が他人事でいられるのも、今のうちだ。

〝東京〟という甘美な過去の幻想に囚われている日本人。〝東京〟という今この時の悪夢の中に縛り付けられ、そして踊らされているオブジェクターとエフェクター。救われるべきはどちらか。

 老いさらばえ、死に損なったこの〝東京〟という都市が俺たちを、そしてこの世界の誰も彼もを縛り付けている。

 そのせいで、俺と史香が前に進むことができないのなら――

〝國中史香〟と無理矢理に名乗らされている少女が、いつか近い日に〝金築史香〟に戻られるのなら――

 お前たちの〝東京〟に対する憧憬など、俺の知ったことではない。

 さぁ――

 東京を、殺そう。

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東京イリーガル・レゾナンス 桃李 @tohri_kazu

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