4. 約束

 契約を交わしてすぐ、架南は紛争地域へと舞い戻っていった。それから半年後、日本へ突然戻ってきた彼女は、彼を呼び出すなり、一枚の紙を彼に突きつけてきた。それも、かなり予想外なものを。

「お前、戸籍はあるのか?」

「ないけど、何とかはできると思う。けど、どうしたの急に? 俺への愛に目覚めちゃった?」

「必要に応じた合理的判断だ」


 婚姻届、と書かれたそれに、ただただ首を傾げていると、架南は察しが悪い奴だな、と鼻を鳴らした。そっと腹部に当てられた手でようやくその可能性に思い至る。


「……本気で言ってる?」

「何だ、心当たりがないとでも言うつもりか?」

 なくはなかった。ただそれはほんの一週間ほどの逢瀬で、それでも言われてみれば計算は合うし、架南がそんなことで嘘をついたり彼を騙す理由は何もない。

予想外Unexpectedly、じゃないよね」

「当然だ」

「で、認知しろって?」

「無理ならいい。もし可能ならその方がいろいろ利点も多いだろうと思っただけだ」

 この子のために、と言いながらも紙を下ろして踵を返そうとするその背中を抱きすくめる。

「あのねえ、カナン、俺が言うのも何だけど、もうちょっと他に先に言うべきことがあるんじゃないの?」

「言いたいことがあるなら、お前から言ったらどうだ」

 そっけない言葉は、けれど笑みを含んでいて、だからそれはもう彼女の本気なのだと理解せざるを得なかった。彼女は自分の目的を果たすためだけに彼と契約したのだと、あのひとときは気まぐれな幻のようなものだと思っていたのに。


「じゃあ、遠慮なく言うけど、君を愛しているよ、


 消えゆく命しかない大地で、ただ一人、それに抗うように立ち尽くしていた。幾度も死を身近に経験し、苦悩しながらも、救い続けることを諦めようとしなかったその真っ直ぐな魂に惹きつけられてしまったあの時から。


 ふと、架南が腕の中で身じろぎする。

「少なくともあと半年は動けない。それがどれほど私にとって大きな決断だったか、お前ならわかるだろうと思っていたが」

 ほんの少し昏い色が混じって、目を伏せたその顎を捉えて引き寄せる。

「言っただろう。死ではなく生を数えるんだ。いずれにしても、生者の命は死よりもはるかに重い。君の中に宿った命で、天秤はより生へと大きく傾くさ」


「まあ、契約だ。せいぜい付き合ってもらおう」

 皮肉げな言葉よりも、彼の背に回された腕の温かさの方が正直だな、と笑って、彼は愛しい相手のその素直でない告白を受け入れることにしたのだった。


 あれからおおよそ二十年。世界の状況はさらに混迷を極めている。新種のウィルスの感染拡大パンデミックにより、人間同士の争いなどしている状況ではないと誰もが思っていた最中、は起こった。

 彼が初めて架南と出会った頃より、情報伝達ははるかに早くなり、現地の悲惨な状況は次々と報じられた。どこに何が不足していて何が必要か、という詳細までは明らかではなかったが、すぐにでも差し伸べる手が必要なのは明らかだった。


 スーツケースを持ったその姿を見た瞬間、彼は半ば無意識に額を押さえていた。そんな彼の様子を見て、相手はただ肩を竦める。

「わかっていたことだろう」

 軽やかに笑うその姿を抱きしめて、閉じ込めてしまえたらいいのに、とほんの少しだけ考える。だが、そんなことをすれば、彼は。それがわかっていたから、決して口に出すことはなかったけれど。

「無理はしないこと。最悪の場合は、俺は遠慮なく君を攫ってしまうから、そのつもりで」

「それは困るな。化け物じみた評判が立っては仕事に障る」


 なら、無茶はするなと言いかけた口を柔らかいもので塞がれた。滅多にないそんな仕草に、喜びよりも不安が先に立つ。

「何だ、嬉しくないのか。あんまり不安そうな顔をするから励ましてやろうと思ったのに」

 不満そうなその顔を引き寄せて、今度は彼からもう一度深く口づけを返す。いつも通り、彼が彼女を送り出すときにそうしているように。

「普段と違うことをすると不安になるクチでね。これは俺のおまじない。いつも通り、ちゃんと無事に帰ってくるんだよ」

 わかっている、といういつも通りの無愛想にさえ聞こえる返事を残して、架南はあっさりと扉の向こうに姿を消す。

「さて、今夜くらいはあの子を食事に誘ったら、頷いてくれるかな」

 沈む気持ちを逆手にとって、そう呟く。


 ——どうか無事で。


 君を待っているのは、俺だけではないのだから、と。

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最果ての天秤 橘 紀里 @kiri_tachibana

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