3. 偶然

 それからしばらく、彼は架南かなんとは一度も遭遇しなかった。紛争地域は加速度的に増えていたし、それだけでなく、災害支援や途上国における感染症流行対応など、その活動範囲は多岐に渡っていた。どこが最も過酷か、とは定義できないほどに。

 全てを曖昧にしたまま、それなりに長い時が経っていた。だから、深い理由もなく訪れたとある病院でその姿を見かけた時、彼の心に去来したのは喜びや安堵よりはシンプルな驚きと、微かな不安だった。

「カナン、何でこんなところに?」

「ようやくお出ましか。随分遅かったな」

 日本のとある大学病院だった。臨床研究が盛んではあるものの、しがらみの多い場所。現場にこだわる架南からは、最も遠い場所であるはずだった。驚いたのはそれだけではない。戦地で会うときには常に緩い白シャツを重ね着していたから気づかなかったが、彼の目の前の架南は白衣を羽織り、燕脂色の体のラインがはっきりとわかるタートルネックの薄手のセーターを身につけていた。

「君、女性だったのか⁉︎」

「間抜けな死神もいたものだな」


 同年代の男性と比較すれば確かに細い方ではあったが、対等に渡り合えるだけの体力もあったし、何より口調も表情も一般的な女性のそれとはかけ離れていた。だが、振り返ってみれば、声はそれほど低くないし、女性だと言われてみれば、その顔は確かに十分美人の類に入る。

「てっきり口説かれているものだと思っていたが」

 呆れたような顔で、屋上のフェンスにもたれながら架南は懐から煙草を取り出すと、自然な動きで火を点けて咥える。ふうと、白い煙を吐き出しながら、彼を見つめる眼差しは、面白がるような、それでもどこかそれまで見たものとは違う、何かに安堵しているような色が見えた。


「……何があった?」

 端的な彼の問いに、架南は片眉を上げて器用に笑う。

「お前と最後に会ってからしばらくは、特に大きな厄介事トラブルもなく過ごしていた。だが、昨年二度ほど銃撃に遭って、死にかけた」

「何だって⁉︎」

「落ち着け、死ぬような傷じゃない。だが、搬送先の病院で念の為精密検査をしたところ、別の問題が見つかった」

 そう言って、架南は煙草を咥えたまま空いた手の親指で自分の胸を指差した。

「ステージⅡだと言われた」

 絶句した彼に、架南は薄く笑みをはいたまま話を続ける。肺に見つかった癌は転移は認められないものの、深く組織に入り込んでいた。他の部位のそれに比べて、肺癌のステージⅡの五年生存率は半分以下と極めて低い。


「でも、何で日本こんなところに? 君ならいくらでも海外でもっといい条件で働く場所を見つけられただろう」

「いつまで経ってもお前が迎えにこないからだ」

 銀縁眼鏡の奥で、いつかと同じように、淡い紺がかった瞳が真っ直ぐに彼を捉える。

「何、を……」

「お前が言ったんだろう。その必要がなくなれば、私を貰い受けにくると」

「今がその時だと?」

 問い返した彼に、架南が何かの数字の連なりを呟いた。決して小さくはないそれを、苦く、それでも噛み締めるように。その意味を、聞くまでもなく知っていた気がしたが、あえて尋ねる。その覚悟を問うように。

「何の数字だい?」

「救えなかった命の数だ。私が向かうはずだった場所で失われたものを足せば、もっと増える」

「だから、もう終わりにするのかい? この先、君が救えるかもしれない可能性を反故にして?」

「お前に何がわかる」

 静かな声で言いながら苛烈な眼を向けてきた架南に、けれど彼はただ静かに向き合う。

「私を守って両親とあの人は死んだ。彼らが救うべきものを救うことが唯一私に残されたものだった。私は神など信じない。信じてはいないが、これほどに現実は残酷だ」

 なあ死神、と架南は今まで見たこともない、泣き笑いのような顔で彼を見つめる。

「神はいるのか? いるならなぜ——」

「そんなものに縋るな。あるのは生者と死者、それだけだ。君は知っているだろう」

 腕を引き寄せて、その体を抱きしめる。初めて間近に触れた体は、驚くほど細く、そして女性らしい柔らかさを持っていた。そうして彼はもう自分の想いに気づいてしまう。


 どれほどそれが架南にとって辛いことであっても、どれほど架南がそう望んでも、もう彼は


「君は医師だ。ならば死者の数など数えるな。救った命を数えろ。死をはかるのは死神おれたちの仕事だ」


 戦地であれ、平穏な場所であれ、医療を必要とする人々に限りはない。生きとし生ける命が全て等しく尊いのなら、どこで誰を救おうとその価値に変わりはないはずだ。


「君はこれまで通り、君なりの信念で人を救い続ければいい。救えなかった命は、俺たちがありがたくいただくから、それも無駄にはならないしね」

 最後は笑って言えば、腕の中からごく嫌そうな気配がする。気に入らなかったらしい。

「まるで詐欺師のようだな。あるいは共犯者か」

「近いね、俺たちはそういう存在を死神のGrim Reaper's共謀者Collaboratorと呼ぶ」


 死神を視ることができるだけでなく、契約を交わすことで、死神に通常よりはるかに大きな力を与えることができる者。本人に自覚はなくとも、死神にとっては何にも代え難い、生涯に一度でも出会えれば僥倖ぎょうこうだと言われる貴重な存在。


 架南がだと、彼は本当はずっと知っていたような気がした。

 それでも、彼が彼女を必要とするのは、そんなことが理由ではないことも。


「カナン、もし君がどうしても戦地に赴きたいというのなら、俺と契約を。そうすれば、俺は君に続く未来と自由を約束する」

「何の契約だが知らんが、私は死神の片棒を担ぐ気などない」

 きっぱりと、怒りさえ滲ませて腕の中から抜け出そうとするその体をさらに強く抱きすくめる。この想いが確かに伝わるように。

 言葉より率直に、あっさりとそれは伝わったようだった。架南が動きを止める。

「約束しただろう、君が望まないことはしない。君が俺の片棒を担ぐんじゃない、、君の仕事の片棒を担ぐんだ」

 たっぷり数十秒。何かを考え込むようなその沈黙の先の答えは、疑いを多分に含む声だった。

「……死神が、命を救う?」

「君がそう望むなら」

「ひどい冗談だ」

「まあ、五百年も生きてればね、イレギュラーの一つや二つ、ねじ込めるようになるもんだよ」

 さらりとそう言った彼に、腕の中から架南が唖然としたように見上げてくる。完全に疑っているわけではなさそうだが、半信半疑といったところだろうか。

「ともかく、どうやら俺にとっては、何と十年越しの恋だったみたいだから、まずはゆっくり話そうか?」

 呆れたような気配は伝わってきたが、抜け出そうとする気配はない。


 そうして彼は、自身の一部だった孤独と気ままな自由さを、この時を境に手放すことになったのだった。

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