歓びの月

宮島ミツル

歓びの月



「興味のない相手から向けられる好意ほど、気持ち悪いものなんてないのよ」


  或る作家は、作中でキャラクターを通し、彼の酔いにも似た夢を破却した。


  彼は晩夏の或る夜半に、こんな科白と、それに酷似した己が過去を夢の中で想起し、大量の寝汗と共に目覚めた。乱れた自身の呼吸と、強設定の扇風機の音が部屋の中で行き場を失ったかのように、響き渡っていた。


 彼は騒音に堪えかねて、扇風機を止めて窓を開けた。


  九月の夜といえど、風はぬるかった。のみならず、湿気が高く、彼の汗はなかなか乾かなかった。これらの不快さや、手持ち無沙汰故に彼はセブンスターに火をつけて、悠然とそれをふかした。喉が渇いていたので、煙が普段以上に染みて空咳を二、三した。彼はアパート暮らしであったので、隣人に対してこの騒音を心中で、詫びながらも火を消すことはなかった。


 空を見上げると、半月が薄雲のベールを被り、弱々しい明かりを放っていた。近くに街灯があるため、辺りは然程暗くはなかった。この暗澹さが、今の彼の心傷を、彼自身が考察するのには丁度良い塩梅であった。


  彼は煙草の火を消し部屋に戻り、窓とカーテンを閉め、照明のスウィッチを押した。ぱちん、とした破裂音にも似通った音と共に、数回瞬いて蛍光灯が明かりを放つ。それは、先程の朧月とは違って、十二分に明るかったので、彼は目をしばたたかせながら顔を顰めた。


  冷蔵庫を開け、作り置きの茶を飲もうと思ったが、一昨日開けた正宗が目についたので、グラスに指四本程注ぎ、それを舐めるように呑みながら、夢の内容を頭の中で整理し始めた。「興味の無い相手から向けられる好意ほど気持ち悪いものは無い」、これは彼が高校生の時、つまるところ三、四年前に起こったある恋慕の顛末である。




***




 彼は地元の公立高校に入学した。偏差値は然程高くないが、大概の学生は就職を優位にするためであったり、モラトリアムを得るためであったり、その場限りの論理的思考、或いは自己弁護を発揮し大学受験をするのだった。斯くいう彼も周りと同じように、彼なりの最善を尽くし、地元から数県程跨いだ或る大学に合格した。


  それに至るまでの三年間、彼は幾人かの友人を作り、幾人かの女子を心の内で恋慕した。その中に椿村という姓の女生徒が居た。彼は、椿村に格段の恋愛感情を発露し、ついには告白した。が、一蹴された。只それだけの事である。


  彼が椿村に初めて会ったのは、二年生のクラスが一緒になったことによるものだ。椿村は、日が当たると茶色に見える、やや色素の薄い髪をボブカットにした快活そうな女子だった。加えて、黒目がちな瞳は大きく、二重の双瞼であり、面食いがちな彼が恋慕を寄せるには十分すぎる理由があった。


  彼は、グループ学習や、急な教室移動の際など声をかける機会があれば、度々彼女に話しかけた。椿村はこのように面倒な彼の付き纏いに近い行動を、最初のうちは表面上の笑顔で対応していたものの、次第に彼を鬱陶しく思い、心中では常に彼のことを軽蔑するようになった。が、彼の鈍感さと、椿村の八方美人な性格が災いとなり、数ヶ月経っても、彼は椿村のことを諦めなかった。


  或る日の放課後のことである。彼は男友達の、安岡、永沢と、椿村、そして彼女の友人の女子と共に街を遊び歩くこととなった。彼は安岡、永沢に己が意中の相手を明かし、協力を仰いでいた。彼は、恋愛ごとになると、気色の悪い行動を取る男であったが、同性の友人との付き合いには慣れていて、この三人の関係こそは良好であったことは付け加えさせて貰いたい。


  五人は街を散策し、街頭販売の菓子やら、タピオカミルクティーなどを買い、悠然とした足で、表通りのアスファルトを踏んでいた。椿村は、彼がいることには嫌悪感を抱いていたが、友人の女子、安岡、永沢のことは嫌いでなかったので心持ちは穏やかであった。殊に、永沢は、身長が一七〇センチ後半あり、運動部に所属していることによる精悍な肢体の持ち主であり、椿村は深層心理的に永沢のことを心良く感じていた。


 椿村は、反対通りに最近開店した有名なフランチャイズの雑貨屋を見つけた。それと同時に横断歩道の青信号がもうすぐ点滅しようとしていることもわかったので、彼らにその旨を伝え、急いで渡ろうと試みた。


  五人はやや駆け足で横断歩道を渡っていたが、中程で信号は赤になってしまった。すると、向かいから、左折してきたトラックが進行してきた。前方不注意のようであった。位置合いからいって椿村が最も危険だと判断した彼は、咄嗟に反応して彼女を突き飛ばし、自分が身代わりになった。


  スピードこそは出ていなかったが、トラックに轢かれたので、彼は左上腕を骨折し、幾つかの擦り傷と打身を受けた。椿村は、彼に突き飛ばされたので、軽く転び、膝と掌に軽微な擦過傷を負った。彼らは病院に行かなければならなくなったので、放課後の遊びもこれで幕切れとなった。




  それから数週間ほど経ったことである。この日彼は腕の具合を確認するために病院に再び行かねばならなかったので学校を休んだ。




或声「つばきちゃんさ、この前『彼』に突き飛ばされて、怪我したんでしょ。ほんと酷いよね」


「ほんとそうだよ。学校の先生にチクんなかったの?」


椿村「うん、事情がちょっと複雑でさ…面倒だし、特に何もしなくてもいいかなって」


或声「つばきちゃんってほんとお人好しよね」


「うんうん、あんなやつのこと庇わなくても良いのに」



 こんな会話が、昼休みの喧騒の最中にあったらしい。が、尾鰭のついた話と椿村の複雑な心情による沈黙は、事実の断片が歪曲するのみで、後は喧騒の中で泡沫に帰した。従って一部の人の間でこの話は止まるのみとなり、「彼」にも、「彼」の友人にもこのことは伝わらなかった。



  それから又、数カ月が経過した或る日、彼の高校では文化祭が開かれた。彼は勇気をだして椿村に告白した。


「ずっと前から好きでした。付き合ってください」


丁度、こんな具合の極めて愚直な告白であった。喧騒とは一歩遠ざかった、静けさの中に、微かに風に揺れる葉音が霧散する詩的な空間であった。恐らく、双方が恋慕を持っていたのなら申し分ない要素が揃っていた。が、


「ごめんなさい。他に好きな人がいるので」


と、椿村は普段の如くの八方美人的な微笑を浮かべ、至極ありきたりな断り方をした。

「俺、どうしても諦めきれないんだ。だからさ、誰が好きなのかだけ、教えてくれないかな」


彼は、引き下がれず、こう問答した。それが、同時に椿村の限界でもあった。彼女は、初めて彼に本心を語った。


「そんなの、どうだっていいでしょ。少なとも、私はあなたのことが嫌いなの。夢を見過ぎなのか、都合の良いフィクションを見すぎたのか知らないけどさ、――――――――――


興味のない相手から向けられる好意ほど、気持ち悪いものなんてないのよ」


椿村はこう一言吐き出し、踵を返し、彼から離れていった。彼は、普段の彼女の態度が、好意によるものではなく、優しさ、或いは狭義の平和主義的な思考によるものであったとその時、痛感した。


  一陣の風が吹き、木々が揺れた。その日、彼の姿を見たものはいなかった。







***




  彼は、夢の内容を整理すると共に、懐古をしていた。又、過去の己を憎んでいた。どうしようもない程、彼は、過去の彼を憎んだ。下賎な感情を隠しもせず、相手の気持ちを考えなかった己をひたすら憎んだ。恋慕のベールを被っただけの醜い性欲を御しえなかった自分をひどく憎んだ。


  たまらなく、彼は彼自身のことが嫌いで、居た堪れない気持ちになった。


 そこで、ふと気がついた。彼は、当時の椿村と共感できていたのだ。彼は、恋慕する相手との唯一の共感する手段が、自己嫌悪であることを閃いた。彼も彼女も、彼が嫌いだと言う点においてのみ、感情が一致していると彼は考えた。


  彼は微笑を浮かべながら、部屋の明かりを消した。暗がりに目が慣れなかったが、外を見ると、雲が晴れていて、月が煌々と輝いているのを見た。こんな激しい自己嫌悪のなかでも彼の心持は自然と弾むようだった。



 彼は人生で一番月が綺麗に思えた。のみならず、世界を愛していた。





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歓びの月 宮島ミツル @miyajima_mituru

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