池のほとりで絵を描く女
烏川 ハル
池のほとりで絵を描く女
僕が彼女に出会ったのは、学校から帰る途中だった。
特に理由はないけれど、その日はいつもと違う道を通りたい気分で、細い水路の横を歩いていた。緑の木々に囲まれたそこは、一応『自然公園』という名称になっており、水路に沿って進めば、小さな池のほとりに突き当たる。
池まで行ったら、さすがに遠回りになるのだが……。ふと目を向けると、そこでキャンパスを広げて、絵を描いている女性が視界に入った。
三つか四つほど年上、つまり女子大生くらいの年齢だろう。遠くからでも目立つのは長い黒髪であり、艶やかな美しさを感じさせられた。
切り株を模した椅子に座っており、水際に設置された木の柵も、足元に広がる土の地面も茶色。彼女が着ているカーキ色のシャツと、妙にマッチしていた。
「女子大生なら、こんなところで絵を描くより、もっと他に楽しいことがあるだろうに」
と思うと同時に、そんな女性に不思議な魅力を感じて、僕の足はフラフラと引き寄せられてしまう。
ただし、たとえ近づいても、じっくり観察することは出来なかった。
彼女にとって、僕は見知らぬ男子高校生に過ぎない。立ち止まって若い女性を眺めるのは失礼だろうし、歩きながらでもジロジロ見てはいけない、と感じたのだ。
だから足を止めたり露骨に視線を向けたりせず、ただ視界の隅で様子を確認するに留めた。
年頃の女性の香りだろうか。すぐ後ろを通ると、ふわりと甘い芳香が鼻をくすぐる。ほのかな幸せと共に、僕の目が捉えたのは、彼女の手がキャンパスに池の自然を描き出す様子だった。
ゴツゴツした男の手と異なるのはもちろん、クラスの女子たちの華奢な手とも違う。絵筆を握るのは、なめらかでありながら力強さも備えた指先だ。そんな細かい部分にも、大人の女性の魅力を感じてしまうのだった。
それ以来、僕は自然公園を通って帰宅するようになった。
ただし毎日ではなく、一週間に二回か三回程度。もちろん目的は彼女だったけれど、いつも池のほとりに座っているとは限らず、彼女を目に出来るのは半分くらい。それでも、僕にとっては十分だった。
だから今日も、また池の近くまで歩いて行ったのだが……。
ある程度の距離まで近づいたところで、彼女が振り向いた。目が合った僕は、驚いて立ち止まってしまう。
「あ、あの……」
何を言っているのか、自分でもわからないまま、動揺が声になって飛び出す。頭と口は困っていながらも、僕の目は、彼女の顔に釘付けになっていた。
今までは斜め後ろからチラッと目にするだけだったので、こうして正面からハッキリ見るのは初めてだ。
すらりとした美しい顔立ちであり、小説などで読んだことのある「目鼻立ちが整っている」という言い回しが頭に浮かぶ。あれは彼女みたいな女性に使うべき表現だったのか、と実感できた。
目は細めであり、穏やかで柔らかい印象。普通にしていても、笑みが浮かんでいるように見えるくらいだ。唇は少し厚めだが、それも不恰好ではなく、むしろ色気が滲み出ているという意味でプラスポイントだった。
そんな彼女の口から、涼しげな声が聞こえてくる。
「あなた、この辺りの高校生?」
「はい! 万木南高校二年三組、高橋健太郎です!」
「あらあら。そんなに畏まらなくても大丈夫よ」
あまりにも元気いっぱいに返事したので、軽く笑われる。
少し恥ずかしかったけれど、こうして彼女と話が出来るだけで、天にも昇る気持ちだった。
「私はマキ。あなたのこと、よく見かけるから声をかけてみたんだけど……。迷惑だったかしら?」
「いいえ、全然!」
迷惑なわけがない。声をかけたかったのは、こちらの方だ。
ナンパと思われたくないから僕は躊躇していたけれど、マキさんは自然に出来てしまうのだから、さすが大人の女性だ。
彼女の方から距離を縮めてくれたので、僕も正直に打ち明けてみる。
「むしろ嬉しいくらいです。僕も気になっていました、いつも絵を描いている素敵なお姉さんがいる、って」
「ありがとう。こっちこそ嬉しいわ、『素敵なお姉さん』なんて。若いのに、あなた、口が上手いのね」
「いえいえ、ただ本心を言っただけで……」
「その素直さが大切なのよ」
ここで彼女は、描きかけの絵に視線を戻す。
これで会話は終わりというサインかと思って、僕は一瞬がっかりしたが、それは誤解だった。
すぐに彼女はこちらに向き直り、言葉を続けたのだ。
「じゃあ、素直な高橋くんに聞いてみるね。この絵、どう思う?」
今までは、歩きながら背中越しにチラッと見るだけ。だからマキさん本人だけでなく、彼女が描いている絵についても、じっくり眺める機会はなかった。
池を描いている、という程度の理解だったが……。こうして改めて拝見すると、池を中心とした自然公園全体の絵であることに気づく。
もともと散歩者も多くない公園だが、奇妙なことに、現実とは比べものにならないほどの賑わいが描かれていた。
しかも、女性や中高年、年寄りは皆無。十代や二十代の若い男性ばかりだ。現実の自然公園を描いているのに、何となく非現実的な光景になっていた。
「……面白い絵ですね。男の人もたくさんいて」
そう答えてしまった僕は、絵の中の男たちに少々やきもちを感じていたのかもしれない。
同時に、初めて彼女を見かけた時の疑問が蘇る。
マキさんみたいな女子大生ならば、こんな公園の絵を描くよりも、他に楽しいことがあるのではないか。それなのに、頻繁にここで絵を描いているのは、一体なぜなのだろう?
口には出さなかったけれど、顔には出ていたのかもしれない。
「こういう絵って、描いていて本当に楽しいのよ。私はこの子達と戯れるだけで十分。大学の友人もいらない、って思えるほどなの」
まるで僕の心を読んだかのように、彼女は答えてくれた。
しかし『この子達』という言い方には深い愛情が感じられて、僕の嫉妬心も強くなる。
それも彼女には見透かされていたらしく、マキさんは口元にコケティッシュな笑みを浮かべた。
「フフフ……。あなたも描いてあげるわ。この特別な筆で」
「是非お願いします!」
彼女が取り出したのは、黒くて太い、見るからに存在感のある絵筆だった。それをキャンパスに触れさせて、僕の姿を形にし始めた途端……。
僕はフッと意識を失った。
次に気が付いた時、目の前にはマキさんの顔があった。
真剣な表情をこちらに向けて、一心不乱に絵を描いている。その様子を、僕は彼女の真っ正面から眺めていた。
初めて見る角度であり、その珍しさを嬉しく思った直後、違和感を覚えた。慌てて周りを見回そうとしたけれど、首どころか、視線の向きすら動かせない。
この段階で、ようやく僕は悟るのだった。自分が絵の中に閉じ込められている、ということに。
マキさんの口元に、再び魅惑の笑みが浮かぶ。
「高橋くん。これであなたも、ずっと私と一緒よ」
甘い声で囁かれて、僕は「それもいいかな」と思ってしまった。
(「池のほとりで絵を描く女」完)
池のほとりで絵を描く女 烏川 ハル @haru_karasugawa
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