60cmの初恋

川添春路

60cmの初恋

 今から十数年ほど前のことだ。当時小学生だった僕は、両親に連れられて六本木に来ていた。


 美術館を歩く両親の後ろを、退屈だと思いながら、しかしそれを態度に出すこともなくただ静かについて回る。時折振り返ってこちらの様子を伺う母の視線に、仕方なく、ふむふむと展示に興味を持つような仕草を取り繕った。


 展示場の出入り口が再び立ち現れる。順路を一巡したらしい。


「こんなに歩いたのは久々だな。足が痛いよ」


 デスクワークで運動不足の父が座りたそうにするので、僕たちは近くのカフェまで移動した。


 三人で軽食を取る。先程見た展示の感想もそこそこに、話題はこれからの段取りに移った。あらかた用事は済ませたため、予定ではもう帰るはずなのだが、どうやら母にはまだ寄りたいところがあるらしい。父はあからさまに疲れた様子で今すぐにでも帰りたそうにしていたが、せっかくだからと言う母の勢いに圧され、結局付き合うことになった。


 母曰く、今日は展望台でドールの展示会が行われているらしい。会場には人気ブランドの人形が勢揃いしており、中には世界に一つしかない貴重なものも展示されているそうだ。


 エレベーターに乗り込む。ドアが閉まり、しばらく無言の時間が訪れる。神妙な面持ちで荷物を持つ父親の隣で、機嫌の良い大型犬のような表情の母が階数表示の光を目で追っていた。


 展示会場はエレベーターホールのすぐ隣だった。


 大人の背丈よりも高いパステルカラーの飾り棚。その上で、思い思いの衣装を纏ったいくつもの人形たちがそれぞれポーズをとっている。女の子がおままごとで使うような着せ替え人形、やたら目が大きな三頭身の女性、耽美な化粧を施された少女……それらは色とりどりのお菓子が入った箱のように、視界を眩しくした。造形のテーマはてんでバラバラなはずなのに、飾り棚全体としては、少女的なかわいらしさを軸に調和を保っている。


 別に後ろめたいことなど何もない。そのはずなのに、まるで女性用の下着売り場に誤って入ってしまったような、恥ずかしさの混ざった妙な居心地の悪さがある。並んだ人形を一つも直視できない。なぜか照れのようなものを感じてしまう。


 この動揺が両親に悟られることを想像して、恐ろしくなった。


「すごい……ちゃんと見たいな」母が突然口を開く。「別行動にしよっか」


「んーおっけー」父が力なく答える。体力的に限界のようだ。「俺は奥のカフェで休んでるよ。じゃ、雄一も適当にやってな」


「あ、うん。わかった」


 母はそさくさと飾り棚へ近づき、父はのそのそと奥の通路へ消えていった。二人に内面を悟られる危険がひとまず去り、密かに胸をなでおろす。


 さて、これからどうしよう──両親がいなくなったからといって、この場の居心地の悪さは変わらない。

 辺りを見回す。奥のフロアへ続く通路沿いに見晴らしの良さそうな窓を見つけ、近寄る。

 眼下には落ちかけた日に照らされるミニチュアのような都心が広がっていた。敷き詰められた人工物の情報量に圧倒される。これを見ているだけでいくらでも時間を潰せそうだ。


 しばらくぼんやりと景色を眺める。


 ふと、母がこちらに近寄ってくるのを目の端で捉えた。

 なんだろう?──そう思って振り返るが、母は特にこちらを気にすることもなく通路の奥へと進んでいく。僕に用事があったわけではなく、隣のフロアへ移動したかったようだ。

 メインの展示場に一人残される。父と母がいなくなった室内を、見るともなしにちらりと見やった。


 ふと、一つのガラスケースに目が留まる。


 透明な境界によって隔てられたその内側で、60cm程度の少女が控えめに首をかしげていた。淡い水色と薄桃色が、スカートの重たいドレス上で溶け合っている。ノースリーブの肩口から伸びる肌は人工的な清潔さを纏っており、ほのかに暖かみを持った色合いの照明がその表面へ温度を与えていた。こちらから見える横顔は、その大半を、羽のような質感の髪飾りに隠されている。


 ふわふわとした装飾の隙間から覗く、頬の紅み──それを意識した瞬間、心臓が強く跳ねた。


 見てはいけないものを見た気がして思わず目を逸らす。胸がバクバクする。壊れそうだ。全身を鳥肌が覆っていく。髪の根本の一つ一つが一斉に燃えあがったように、チリチリと熱を持つ。


 初めて経験する気分──僕は一瞬で、それが誰にも悟られてはいけないものだと直感した。


 逃げ場なく内側を反響する興奮が体中がそわそわとさせる。ぶらついた手元の自然な状態が分からず、動揺をごまかすためにポケットへ突っ込んだ。


 もう一度見たい──裏側で何かが暴れるような感覚をなんとかやり過ごした後で、その衝動は強く現れた。でも、こんな気分で展示を鑑賞しているなんて、家族はおろか、見知らぬ誰かにだって絶対に知られたくない。自分がその人形を見ていることすら、誰にも気づかれたくない。


 でも、やっぱり見たい。どうしても、見たい。


 誰にも悟られぬよう、何食わぬ顔で、ただ順路を歩くふうを装いながら目的のガラスケースの前へ向かう。ようやく接近した所で、さりげなく、時計か何かを探すように首を動かし、ほんの一瞬だけ、彼女の顔を、今度は正面から、ちらりと見た。


 雷が体の中心を通り抜けた。


 アイボリーのショートボブに、光が天使の輪を描いている。髪と装飾がつくりだす小さな額縁の中で、少女と少年の中間にあるような造形の顔が、何か言いたげに口元を緩ませていた。夜の水面に似た青い瞳は、冷たくもなく、暖かくもない、謎めいた視線をこちらへ向けている。彼女に心は存在しないはずなのに、僕は無意識に内面を探ろうとして、その青の深くへ引き込まれそうになった。


 胸が痛いほど強く鼓動を打ち、全身へ興奮を押し流している。もう狂ってしまいそうなほど、頭の内部が得体の知れない快感で水浸しになっていた。


 繰り返しそれを求めて、何度も、何度も、本当の目的をごまかすために展示会場を歩き回っては、横目に彼女を盗み見た。その姿を網膜に映すたびに、体はビリビリとした興奮に震えた。


「雄一」


 突然後ろから声をかけられる。口から心臓が飛び出そうになるのをぐっと抑えつけ、平静を装った。

 振り返る。父だ。


「……なに? おとうさん」

「帰るぞ。母さんの気が済んだらしいからな」

「うん、わかった」


 足元が震えているのを悟られまいかとヒヤヒヤしながら応答する。


「ごめんな雄一」父が言う。「つまらなかっただろ、こんな所」

「……うん、正直退屈だった。でも大丈夫、おかあさんにはそんなこと言わないから」


 僕は男の子だ。だから、人形の展示を楽しいと思うのは、あってはならないことだ。僕はこの場所にいることをつまらないと感じなければいけなかった。


 遅れて母がやってきた。親子三人で、もと来たエレベーターへと向かう。


 最後にもう一度彼女を見たいと思った。でも、両親にそれを知られるのが怖くて、とうとう、一度も振り返ることなく会場を後にした。


 これが、誰にも言えない、僕の初恋だった。


     *


 その日の夜も、興奮の余韻は体に残ったままだった。あれからずっと彼女のことを考えている。その姿を心のうちに反芻するたび、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。


 シャワーを浴びながら、鏡に映った自分を見る。どこか彼女に似ている部分はないかと、体の色々な部分をチェックする。肌の色味は近い気がした。華奢な腕の感じも、どことなく惜しい気がする。顔は……全然違う。化粧がしてみたいと生まれて初めて思った。


 彼女の着ていたドレスを、この身に纏うことを想像する。露出した腕の肌にあたる照明の温感を想像する。自分があの、人を吸い込みそうなほど深い瞳で、誰か、男の人を見つめることを、想像する。思い描く感覚が鮮明になるほどに、何か冷感を伴った気持ちよさが体の中心から生まれ、手足の末端へと走っていった。


 不思議なことに、彼女の隣にいるような存在になることへの憧れは全く感じなかった。僕を高揚させる想像は、彼女そのものになることだった。


     *


 時の流れは、この体へ残酷に作用する。


 中学に上がると声が低くなり、高校に上がる頃にはうっすら髭が生え始めた。骨は太くがっしりとし、脂肪は落ちて、体全体がみるみるうちに直線的な輪郭を持ち始めた。一秒、また一秒と経過するごとに、この身体は自分の理想像から離れた形へと変貌していった。


 恋人ができたこともあった。その誰もが、体のどこかに〝あの人形〟と似た場所を持っていた。かつての僕は、相手から受け取る印象の中に〝あの時の感覚〟を見つけることが、誰かを好きになることだと無邪気に思っていた。


 しかしそうした恋の認識について、段々と違和に気づきはじめる。


 自分という存在が女性に作用して起こる反応の一切は、いつでもその人を、件の人形が纏っていた美のイメージから遠ざけた。この心は血流の増大によって染まった頬の赤みよりも、化粧によって描かれた頬の紅みを求めていた。温かく湿った肌よりも、寂しげで清潔な肌を求めていた。


 そしてとうとう決定的な気付きを得る──僕は女性的な美を愛でることよりも、自身が女性的な美を備え、誰かに鑑賞されることを求めていた。


 自分にとっての恋とは、他者が、僕がそうなりたいと願う憧れの姿を所有しているということだった。よく語られるような、互いに寄り添い合って体温を交換したいという感情はそこに含まれていない。どうやら自分とこの世界とでは、恋というものについて、その定義の時点からかなり違ってしまっているようだ。


 あの人形と出会ったことで自分の形が歪んでしまったのか、もともと歪だった自分の形を認識させられただけなのかは分からない。どうあれ、自分の恋愛感情が正しく機能しておらず、その気分を向けた相手を傷だらけにしてしまうということだけは、揺るがない事実だった。


 他者と関わり合うほどに、絶望はその像を鮮明にしていき、とうとう恋愛という営み自体を諦めた。僕はいつのまにか、初恋の相手に、一生孤独であれという呪いをかけられていたのだ。


 月日が経つごとに、彼女は僕の内側で美の完全さを増し、その呪いを強めていく──


     *


 仕事を終えて帰宅し、ベッドに横たわってスマホでSNSを眺めていたときのことだ。


 ふと、見覚えのある顔が画面に流れてきた。あの日の人形だ。

 別にそれを写真で見るのは特別なことではない。彼女の写真は当時からネット上にいくつも出回っていた。違っていたのは、その写真が十数年前の六本木で撮影されたものではなく、最近撮影されたものだったことだ。


 場所は京都にある展示会場らしい。あの日とはライティングが少し違う。透明な白さを纏っていた肌も、今では少し日焼けしたように黄色がかっている。それでも、魔性の概念に形を与えたような顔の造形は、その魅力を少しも損なっていない。


 写真の説明を見て、はっとする。なんと彼女は今まさに、その会場で販売されているらしい。

 彼女と同形のモデルはとっくの昔に生産が終了していた。だから就職してある程度お金が自由になった後も、彼女を手に入れることは叶わないと諦めていた。


 想像する。彼女を自室に飾り、誰にも邪魔されずに鑑賞することを。


 僕はすぐに連絡を入れた。彼女はすでに生産が終了していたから、値段が相当な額につり上がっていることを覚悟していたが、幸いにも貯金で十分手が届いた。その場で案内された手続きに従い、購入を進める。彼女が家に届くのは展示の会期が終了した後、丁度今から一週間後だ。


 次の日は仕事が手につかず、結局早退した。


 その足でドールの専門店へ向かい、ガラスケースや照明、小物、手入れ用品などを買い漁る。大物は家に配送されるよう手配したが、それでも帰宅するときには、両手いっぱいに袋をぶら下げていた。

 購入物を検め、再び手持ち無沙汰になる。頭が強く覚醒して体をそわそわとさせるので、いてもたってもいられず、まだ手を動かせることはないかと自室を見回した。

 彼女を家に招くとなると、これまでは気にしなかった部屋の汚れが途端に気になりだす。結局その日は一晩中掃除をし続け、翌日途切れるようにベッドへ倒れた。仕事は休んだ。

 夕方に呼び鈴の音で目が覚める。目蓋を開けた瞬間から心臓がランニングした後のように鼓動を打っていたため、起き上がるのに普段のような苦労はなかった。呼び鈴を押したのは、台座とガラスケースを届けに来た配達員だった。

 すぐさま彼女の居場所づくりを再開する。昨日いくつか家具を移動させて作ったスペースに台座を設置し、その上にガラスケースを乗せて固定した。底面にいくつかの造花を散りばめ、内部に二つの照明を取り付ける。

 遮光カーテンを閉めて部屋を暗くし、ケース内の照明を点灯する。仄かな暖かみを帯びた光に照らされ、透明な直方体の空間が闇に浮かび上がった。


 それを見て思う──彼女の姿をここへ飾り、照明を点けたその瞬間に、僕は彼女と再会するのだ。



 落ち着かない数日が過ぎ、ついに彼女を家に迎え入れる日がやってきた。


 届けられたのは、二つの箱だった。


 片方の箱を開く。

 ドレスや靴、ウィッグ、髪飾りなどが、それぞれ個別に包装されてまとまっている。


 もう片方の細長い箱を開く。

 ベッドを思わせるクッション材の中で、彼女が横たわっていた。表情は、あの日のままだ。


 一つの、予感。


 手のひらが汗をかくのを感じ、精密作業用の手袋を準備していたことを思い出す。すかさずそれを手に装着した。不潔で無骨な男の手は、彼女の肌に、決して触れてはいけなかった。


 服を着せるため、指先を覆うウレタン越しに彼女の肌へ触れる。薄膜に隔てられた内側は熱を持ち、ベトベトに濡れていた。


 ドレスを着せ、靴を履かせ、装飾を取り付けていく。彼女があの日の姿に近づいていくごとに、予感が強まり、張り裂けるような胸の痛みが増していく。ウィッグを頭に取り付けた瞬間、心の根本に近い場所がぶちぶちと破断していくような喪失感を確かに覚えた。


 ガラスケースの中に彼女を立たせる。首を控えめに傾け、手元をスカートの膨らみに沿わせる。一度全体のバランスを確認した後で、再度髪飾りや服の細部を調整し、ケースの扉を閉めた。


 部屋を暗くする。


 右手の中に、照明のスイッチ。親指にかけたそれを倒せば、とうとう再会の瞬間が訪れる。

 遮光された暗闇の中心で、僕は予感が確信に変わるのを感じていた。この行為の先に何があるのかは、もうほとんど分かってしまっていた。

 不快な湿り気を帯びた手袋の中で指先が震えている。スイッチにかけた親指が石のように固い。頬を、熱いものが伝っていく。


 いつまでも動こうとしない親指。僕は叫ぶような気持ちで、それに思いっきり力を込めた。


 眼前の直方体が光を放つ。眩んだ視界の中に人影が浮かび、次第にその像を鮮明にしていく──



 あの日と同じ姿の彼女。

 その瞳には、大人になった僕が映っていた。



〈了〉

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