トイレの中で

隠れ里

トイレの中で

 ある暗い小さな世界の話。


 この歳になって、トイレに閉じ込められるとは思わなかった。


 あのとき、すぐに出ていれば良かったのだ。そうしたら、このようなことにはならなかっただろう。


 上にも下にも、隙間はない。完全な個室だ。ドアは押しても引いても、開かなかった。


 一通りの抵抗のあと目眩が起きて、便器の上にへたり込む。


「あぁ、一生トイレには困らないけど……このままで餓死なんてことにならないかな」


 ここは、ある県の小さな街にある公園。その中の公衆トイレである。


 しかし、公園なのに遊ぶ子供はいない。訪れるのは、犬の散歩に来る人がいるぐらいだ。


「あぁ、どうしよう。この前も、美味しそうな匂いにつられて、会社の更衣室に閉じ込められたばかりなのに……」


 あのときは、かなり反省をした。それから、数日もたたずにこのざまだ。


 仕方がない。困ったときは、神頼みだ。手をこすり合わせて見えない神を拝んだ。


 無宗教。どこの誰に、拝めばいいのだろう。とにかく、必死に手をこすり合わせる。


 そのご利益だろうか、ドアの下側に小さな穴を見つけた。


 近づいてみてみる。何かが詰まってる。しかも、光っているのだ。


 せっかく見つけた穴も何かが詰まっていては、意味がない。


 天を仰いだ。


 見えるのは、薄汚い天井だけである。


 人間の声が聞こえる。微かにではあるが、子供の声のようだ。


 どこの誰かわからない神的な存在が、助け船をくれたのかもしれない。


 大きな声で叫んだ。本当に大きな声だ。便器を離れて、ドアの近くで。


 子供の声は、遠ざかっていく。遠くに、消えていった。残ったのは、カラス共の鳴き声だけである。


「あぁ、聞こえないのだろうか。こんなにも、必死で叫んでいるのに」


 ドアを開けようと試みる。押す。動かない。引く。動かない。


 疲れ果てて、便器の上にへたり込む。


 今までの生き様を考えた。


 生まれたときから、たくさんの兄弟に囲まれて、親に可愛がられた記憶はない。


 水遊びが大好きで、はしゃぎまくって気付けば、迷子になっていた。


 迷子になった記憶しかない子供時代である。


 ある日を境に、水遊びが嫌いになる。


 今度は、空を好きになった。一日中、見上げていられるほどである。


 雨は嫌いだ。雪も嫌いだ。晴れが一番いい。ちなみに、曇りも少しだけ好きである。


 最大の危機は、鎌を持った危ない奴に襲われたことだろう。


 どこかで聞いているかもしれない。名前すら言いたくない怖いやつだ。


 必死で逃げた。疲れてもへたり込むことなく、必死で逃げたのだ。


 絶対絶命も乗り越えて、この歳まで生き抜いたのに、最後はトイレの中とは笑えない。


 死にたくない。必死で、手をこすり合わせて拝む。誰でもいい気づいて欲しいと願う。


 犬の吠える声だ。走りながら吠えている。


 犬は、大好きだ。ただし、怖くもある。今は、関係ない。大声で助けを求めた。


 犬は、嬉しそうに吠えている。全く気づく様子もない。人間の声もする。


 やっぱり、気づいては貰えない。


 無駄な時間であった。犬の名前は、ラッキーということだけは知ることができたのだ。


 何が、ラッキーだ。どうせ、ところ構わずにトイレでもしたのだろう。


 トイレをするなら、トイレでして欲しかった。いや、それは勿体ないかもしれない。


 また、疲れてだるくなった。気力もなくなる。便器の上にへたり込む。


「あぁ、お腹が空いたなぁ。今日は、朝飯を食べてなかった。だから、昼飯を公園で食うつもりだったんだ……」


 今までに食べた一番のご馳走を思い浮かべた。アイスクリームであろう。間違いはない。


 そういえば、アイスクリームも公園で食べたのだ。冷たくて、甘くて、手についたものも舐めた。


 暑い夏の日、セミ共の愛や恋だのとつまらない歌の下での出来事だった。


 今は、セミ共の歌も、聞こえない。煩いだけなので、聞きたくもないが。


 子孫を残すために必死なのだろう。回りくどい歌で、主張するあたりが大嫌いだ。


 それにしても、空腹だ。


 満たされないお腹は、水分で膨らませよう。周りを見回す。下を覗いた。


 便器の中は、新鮮な水をたたえている。便器に頭をつけた。必死ですする。


 アイスクリームには、及ばない。だけど、空腹は満たされた。


「おぉ、美味い。はぁ、根本的な解決ではないけど。これで、しばらくは生きていけるなぁ」



 その後も、手をこすり合わせて拝むたびに人の声が、聞こえた。誰も助けてはくれないのだ。


 コオロギ共の鳴き声が聞こえる。いや、キリギリスだろうか。


 こいつらも、セミ共と変わらない。この鳴き声に癒やされるというやつもいるらしいのだが。


 こんな歌を聞いても……


「眠たくなってきたな……このまま、朝になる頃には死んでたりして……」


 もし、コオロギ共のような声で歌えたなら、こんな惨めな生き方も死に方もしなかっただろう。


 世の中とは、無情なものだ。


 トイレのドアにある小さな穴。そこに光る物体を見つめながら、眠りの中に落ちていった。



✢✢✢



 僕は、夢を見た。小さな頃の夢だ。


 僕は、スマホで動画を取るのが趣味だった。


 その時の夢である。


 この街の様々な人々を、スマホの画面に閉じ込めることができる。


 まるで、強大な権力を持った独裁者になった気分である。


 もっと、真実を。僕だけが知る世界の真実を閉じ込めたい。


 僕は、常に願う。そんな子供時代の夢だった。



✢✢✢


  

「ふぁあ。何も変わってないなぁ。今だに閉じ込められたままか……」


 どうしても、ドアは開かない。壊れているのだろうか。勢いよく、ぶつかってみた。


 弾き返されて、床に叩きつけられた。もう一度、とはとても勇気が出ない。


 やはり、誰かの助けを待つしかないだろう。子供の声が、やけに聞こえてくる。


 しかし、近くに来て遠くへと消えていくだけだ。そういえば、朝は子供が多い。


 昼は、犬が多い。夜は、コオロギ共が。何だか、おんなじことの繰り返しである。


 きっと、こうやって何時までもこのまま……


「ひゃー、漏れる。漏れる。おぉ、トイレだ。トイレ。間に合ったッ!!」


 男の声だ。こちらに近づいてくる。小走りに、でも不穏な足音がトイレの中に響いた。


「助けて、助けて」


 飛び跳ねて、ぐるぐる旋回。大声を出す。これが、最後のチャンスだ。


 男の悲壮感の滲み出た声は、ドアの近くか、前で聞こえる。


 ドアが開いた。日差しが差し込んでくる。美しい太陽の残滓に興奮して、男に飛びついた。


「うわっ!! 汚い。あっちにいけ、ほら失せろっ!!」


 男は、手を払う。何度も払う。ギリギリで、避けて開いたドアの隙間を目掛けて飛び抜けた。


「気色悪いなぁ。ハエがいるのかこのトイレは……ううわあ、漏れるぅ」


 男は、便器に座って安堵の表情を浮かべるのだった。


「おぉ、いかんいかん。ドアを閉めないと。うわ、クソ。ハエが入ってきた」


 男は、手で必死に追い払おうとする。しかし、このトイレは、完全な密室になっていた。


 ドアの下。小さな穴が光る。



✢✢✢



 小さな光の向こう側では、自らを街の支配者と名乗る孤独な青年が、玉座と名付けた椅子に座る。


 机に置かれたスマホの画面を見ながら、大きな独り言を呟いた。


「こいつらは、僕が代わりに喋ってあげないと話すこともできないからね。アハハ」


 画面の中にいる幸せそうな中年男性を見ながら青年は、彼に言葉を与えた。


「あー、スッキリしたなぁ」


 中年男性が出ていった後のトイレには、ハエが一匹取り残されていた。


「今度は、どんな設定にしようかな。面白いなぁ……アハハ」


 青年は、目を細めて画面に顔を近づけた。暗い部屋で、天井もわからない暗い部屋で。


 独裁者の笑い声が、反響した。


 【トイレの中で】完。

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トイレの中で 隠れ里 @shu4816

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