わたしの恋はトコトコと歩く
鞘村ちえ
わたしの恋はトコトコと歩く
午後五時を知らせるチャイムが公園のスピーカーから流れている。大きな鳴き声で何かを叫ぶ黒いカラスたちを見上げつつ、わたしは家にトコトコと帰っていた。トコトコトコ。私の足音が本当にトコトコだったら可愛いのに、と思いながら、すれ違った散歩中の見知らぬトイプードルに手を振った。
高校一年生になった私は、ほとんど毎日午後五時のチャイムをこの道路で聞いている。部活が終わるのが四時ちょっと前なのだ。部活は演劇部に入っていて、毎年9月に行われる文化祭で新入部員を主演にした舞台をすることになっている。明日がその本番、私は主演として舞台に立つ。毎日のように空調の効かない蒸し暑い体育館の舞台に立って練習をしていると、自分がコンビニの中華まんになった気分になる。涼しい顔で発声練習する先輩たちを見ていると、経験の違いを肌で感じた。
部活の先輩は四人いて、そのうち女の先輩が二人、男の先輩が二人いる。女の先輩は二人とも大人っぽくて、とても優しい。この前も一緒に帰っていたら、コンビニに寄って好きなアイスを奢ってくれた。私は溶け続ける棒に刺さったアイスをぺろぺろ舐め、知覚過敏と戦いながらスキップで帰った。男の先輩は一人はぼうっとしていて何を考えているのか全くわからないけど、お芝居だけは本当に上手な人。もう一人はとにかくお喋りで、女の子に好かれそうな要素がたくさん詰まった人だ。例えば、昨日は少し練習が長引いて帰るときには外が真っ暗だったので「送っていくよ、女の子に一人は危ないもん」と、街灯に照らされながら一緒に帰ってくれた。うちのアパートに着くまでの間、長く揺れる二つの影が近付いたり離れたりして胸がどきどきした。
一緒に帰ってくれた先輩の名前は「ミチ」さんだ。本当の名前はカズミチさんだけど、みんながミチさんミチさんと言っているので自然にミチさんと呼んでいる。ミチさんは呼ばれるたびに「な~に~」と優しくやわらかな声で返事をする。私は陽だまりみたいなその声が大好きで、意味もなくミチさんを呼びたくなるけれど、恥ずかしいから呼べない。同じ部活の同級生の女の子はミチさん! ミチさんってばー! とただ名前を呼んだりしているけれど、私にはそんな勇気はなくて、ただその様子をぼうっと聞き流しているだけだった。
そんな私とミチさんは、明日の舞台で恋人役を演じることになっている。恋人役がミチさんだと決まったとき、ミチさんは部内でいじられキャラなので、女の先輩たちに「ミチと恋人役とか新人なのにかわいそうじゃーん」と言われ、ミチさんは「えー!? 俺と一緒で嬉しいってことにしてよ! いいじゃんいいじゃん、ね」と笑っていた。ね、と言ったときに私の顔を覗くように言ってきたので、恥ずかしくなってハハハと乾いた笑いをしてしまった。同級生の女の子が女の先輩たちに混ざって盛り上がっていて、気軽にミチさんをいじれる性格が羨ましかった。けれど、ミチさんはそんな私のことを「もーほら、困っちゃってるじゃん」と優しくフォローしてくれた。
劇の台本が配られたその日、初めてミチさんと二人で帰った。今日はバイトが休みだから一緒に帰れる、となんだか嬉しそうに言っていた。帰る途中、街灯がたった二本しかない小さな公園に寄った。二人掛けのベンチにちょこんと座り、台本をぱらぱらとめくっていると「今日から恋人役よろしくね」と握手を求めてきた。特になにも考えずそっと手を差し出すと、ミチさんは私の手を握って「手、ちっちゃい。女の子の手って感じで、可愛いね」と言った。手を褒められたのはおばあちゃん以外初めてだったので、おどおどしながら「ありがとうございます」と握り返した。街灯が少ないおかげで、顔が赤いところを見られなくてよかったなと安心した。ミチさんの顔は暗くてあんまり分からなかったけれど、いつもより落ち着いていて、ワインのような声(ワインを飲んだことはないけれど、きっと甘くて芳醇だ)にうっとりした。公園を出ると、住宅街に浮かぶ月に照らされながら、その日の私とミチさんの影は少し距離をあけてゆらゆらと歩いていた。まだほんの少し人見知りしていた。
次にミチさんと帰ったのは先週、全員で通しリハーサルをしたときだ。私と同じ方面で帰るのはミチさんしかいないので、いつも一緒に帰るか、一人で帰るかの二択になる。一人で帰るのは寂しいので、ミチさんが一緒に帰ってくれる日は少しうきうきした。その日は土砂降りの雨が降っていたのに、ミチさんが傘を忘れたと言うので、私の傘に一緒に入って帰った。濡れた靴がズブズブいうのも気にならないくらい、私の心臓はどんどん心拍数を上げていた。生まれてから雨に感謝したのは、小学生の夏休みにアサガオの水やりを忘れて「水やりしたー」と嘘をついたとき以来だ。ミチさんは普通の男性よりも少し背が低いほうらしいけれど、私より10センチも背が高いことに男の人を感じた。私のほうへばかり傘を傾けてくれるので、ミチさんの肩は雨に濡れてシャツの色が白から灰色へ透けだしていた。「濡れたら風邪ひいちゃいますよ」と言うと、はっとしたような顔をして私に身体を寄せて「くっついたらぎりぎり、濡れないかも」と微笑んだ。急にミチさんの体温に触れた私は叫びたい衝動でいっぱいだったけれど、なんとか無事家まで帰ることに成功した。
舞台は順調にリハーサルを重ね、最初の頃よりは声が出るようになり、目線もしっかりと真っすぐ見据えられるようになってきた。ただ問題が一つだけあった。練習を重ねるたびに、ミチさんのことを本気で好きになってしまうのだ。演技だと分かっているのに、言葉や仕草にときめいて、スキップで帰ってしまう。部員にばれて冷やかされるのは嫌なので絶対に話さなかったし、優しい先輩たちにもずっと黙っている。もしかしたら私の表情や声色で気付かれているかもしれない。あいつは浮かれポンチだと思われているかもしれないと考えて、少しぞくぞくした。何より私とミチさんの舞台上での感情が変わってしまってはいけないのだ。演技派女優のように、私は本番が終わるときまでこの気持ちを隠し通すと決めていた。
そして、私は明日の本番が終わったらミチさんに告白しようと考えている。今日はミチさんがバイトの日でよかったなーと思う。一緒に帰っていたら、告白してしまったかもしれない。遠くまで反響して何も聞き取れない地域放送のように、私の気持ちも遠くまで反響して消えてしまえばすっきりするのに。無意味にミチさんの名前を呼ぶことは出来ないくせに。アパートの廊下では切れかけた白熱灯がちかちかと点滅を繰り返し、うちのキッチンについた小窓から野菜を炒めたような匂いが漂っていた。カレーかな。夕方の住宅街はおいしい匂いで満ち溢れている。ミチさんもおいしいご飯を食べていたらいいなと思いながら、うちのドアを開けた。明日は幸せになることを祈りながら。
緊張してなかなか寝付けなかったせいで、次の日の顔はふっくらと浮腫んでしまった。せっかく初めての主演舞台だというのに、これでは台無しだ。冷たい水道水で勢いよく顔を洗っても、可愛くない顔になってしまったことが残念で、重い足取りで学校へ向かった。ミチさんは誰よりも先に学校へ着き、照明を担当する生徒と最終チェックをしていた。
「おはようございまーす」
「お! おはよう、今日は頑張ろうね~」
笑顔で振り向いたミチさんの顔も、気のせいか少し浮腫んでいた。可愛い。控室になっている教室へ向かう私はもう、トコトコと歩いていた。誰にもいえない恋は、今日で終わりだ。
わたしの恋はトコトコと歩く 鞘村ちえ @tappuri_milk
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