悪魔と呼ばれた眼鏡
だいなしキツネ
眼鏡綺譚
俺の知り合いに齢6000歳の壺がいる。メソポタミア出身だそうだ。そいつはコレクターを蒐集することを趣味としていた。コレクターの蒐集だ。つまり、自分のことを骨董品として蒐める人間の目録を作っていたんだな。所有者一人ひとりに番号を振って、それがどんな人間だったのかを記録していた。なんとも几帳面な話だ。
俺がそいつと出会ったのは、もちろんコレクションルームでのことだ。俺もまた蒐集品だった。俺の生まれは13世紀後半のイタリアだ。俺は生まれたときから悪魔と恐れられた。その時代、人は視力を失って当然だった。徐々に物が見えなくなるのは、神の思し召しらしい。痴愚礼賛って知ってるかい。歳を取ると、愚かになる方が幸せなんだ。その頃の俺の身体は木製だった。鼻に乗っけることも難しいから、もっぱら利き手で支えられた。そうして人間から失われたはずの視力を補ってやっていたのさ。そう、何を隠そう、この俺こそが人類最古の眼鏡だ。
物が見える喜びというのは、物が見えなくなった者にしか分かるまい。神の思し召しに抗うことが悪魔の所業だと恐れられた時代に、俺を生んだのは一人の硝子職人だった。そいつはもともと船乗りでね。遠い水平線の果て、夕闇の中にうっすらと浮かぶ灯台を眺めることが大好きだった。いつしか視力は衰え、陸に上がり、手に職をつけた。硝子の加工だ。ルーペの類いは既に開発されていたからな。船上で覚えた簡単な木工とレンズを組み合わせるだけで俺は生まれた。そいつは喜び勇んで船に乗った。そして夕暮れの灯台を眺めた。その感動を覚えているのは、今となっては俺しかいない。
悪魔の片棒を担いだとされたそいつは、俺を仲間に託して亡くなった。仔細は知らない。無惨な最期でなかったことを祈るばかりだ。
悪魔だ悪魔だという割に、俺のクローンは大量に作られた。クローンたちは世界各地に散らばっていった。俺が世界最古の眼鏡だということを知る者は少なかった。しばらくはヴェニスの商人が俺を保管していた。俺が外に出る機会はめっきり減った。
いま思い出すと、俺の身体はダサかった。そして使いづらかった。まぁ、ダサさが逆にイカしていたのか、商人から商人の手を渡り、しばらくはパリのコレクションルームで展示されていたよ。例の壺と出会ったのもそこさ。いやはやコレクターの目録を作るだなんて発想、俺にはなかったな。だから俺はそんなに人間のことを覚えてないんだ。思い出せるのは、あの船乗りと、もう一人くらいのもんだ。
しかし、問題が生じたのはその後だ。コレクションルームに強盗が入りやがった。そいつらは煌びやかな宝石の類には目もくれず、クソダサフォルムの俺を盗んでいった。結構乱暴な奴だったから隣の壺を割らないかヒヤヒヤしたが、何とか無事に済んだ。壺とはそれきりだ。あいつ今頃どうしてるんだろうな。まだコレクターを蒐集してんのかな。
話を戻すと、俺を盗んだ奴らは俺を故買人に突き出した。故買人は何だかよく分からん地下のマーケットで俺を競売にかけた。すると俺は東洋人に購入されて、東回り航路ではるばる寧波まで連れ去られた。久々の船旅だ。俺はあいつを思い出した。俺を生んだあいつを。だが、灯台を見る機会は訪れなかった。
寧波で俺は更に売られた。何だかよく分からない海賊の集団が俺を護送した。俺はいつの間にか要人扱いされていた。もとはただの悪魔ですよ。
寧波から更に海を渡り、何だかよく分からない島々を経て、全く見知らぬ土地に渡った。極東。今でいう日本ってわけさ。
俺は結局、変な髪型の重ね着しまくった奴の手に渡った。そいつは俺に興味を示さなかった。俺と一緒に届いた鉄砲たちに夢中だった。だが、そいつの娘は俺に興味を示した。娘は俺と一緒に本を読んだ。外国の本。まぁ、俺にとっては母国の本だ。そう、何故かイタリアの本を、その娘は読んでいた。その時代、日本にはイタリアの本が少なかった。本の連中から聞いた話だから間違いない。娘はイタリア語が分からなかった。でも俺と一緒に読むと、雰囲気ぐらいは味わえたのだろうか。娘は、遠い、遠い場所に思いを馳せていた。遠く、夕暮れの灯台を眺めるあいつのように。
転機はすぐに訪れた。娘の父親が戦争に負けた。俺がいた城は焼け落ちた。娘は最期まで俺を手放さなかった。俺も娘の手を握り続けた。
しばらく瓦礫の中で過ごした。瓦礫が撤去され、娘の遺体が葬られたとき、俺は適当に捨て置かれていた。
近所の農民が俺を拾った。ガラクタ箱に俺を閉まった。真っ暗闇の中で時間だけが闇雲に過ぎていった。外はいつも喧しかった。人間が騒いでいるだけなら構わないんだが、鉄砲やら爆弾やらがドンチャン騒ぎを始めてしまうと、俺の心は掻きむしられる。悲劇は何度でも起こる。俺は悪魔だ。この世が地獄だということは理解している。それでも。あの男やあの娘が何度でも死んでいると考えると、どうしようもない気持ちになる。ガラクタ箱の中にいては何も見えない。あぁ、俺は初めて、物が見えないという気持ちを知った。
ガラクタ箱が揺れた。蓋が開いた。明るい陽射しが差し込んだ。そこはいつの間にか屋外だった。箱ごと運ばれていたらしい。俺はガラクタ箱から取り出されて、テーブルの上に並べられた。
近くにいた花瓶に話を聞いた。ここ、どこなの。花瓶は答えた。フリマだよ。フリマというのが何なのか俺は知らなかったが、まぁ、外気に触れられたのは嬉しかった。
ふと気づくと、不器用そうな少年が俺をしげしげと眺めていた。少年は近くの大人と会話して、二束三文で俺を買い取った。
変な少年だった。いつも何かを作っている。自分で弁当袋を縫っていた頃はまだ可愛げがあったんだが、長ずるにつれて、財布だとか鞄だとか、靴だとかを作り始めた。よく分からん工具を駆使して切ったり削ったり思いのままだ。工具の連中はいつも張り切っていた。裁断された革の連中も誇らしげだった。でも、少年の不器用そうな印象はずっと変わらなかった。
こいつは身なりを考えない。風呂には入るが、髪を切らないし髭も剃らない。滅茶苦茶だ。ただ、物は大事そうに扱っていた。俺は図工室の片隅でそいつのことを見守っていた。
残念ながら俺の身体は腐りかけていた。当たり前だ。木製だぞ。何年経ったと思ってやがる。もうたぶんこの少年が最後の主人なんだと気づいて、なぜか愛しい気持ちになった。すると、そいつは不意に俺の方を向いた。そして俺を手に取った。ぱきっ。俺は脆くも崩れ去った……
妙な音が聞こえる。金属音だ。摩擦音だ。俺は削られている。俺は曲げられている。俺は磨かれている。意識を取り戻すと、俺の身体は軽くなっていた。奇妙な感覚だった。生まれ変わったみたいだ。いや、生まれ変わったんだ。そいつは俺を、自分の鼻にかけた。鏡の前に立った。そいつが映った。俺も映った。俺は銀縁眼鏡になっていた。
何が起きたのかは工具の連中に聞いて分かった。要約すると、木製の身体が腐り落ちたので、俺の魂だけもぎ取って、銀縁眼鏡に作り直したそうだ。何でそんなことができるのかは知らないが、よく見ると確かに木製だった頃の名残がある。鼻当てにも耳当てにも木が使われている。それは俺の元の身体だ。満足げに頷いたそいつは外に出た。
久々の外出だ。俺は潮風が恋しくなった。それに気づいたのか、そいつは海岸に向かって歩いた。その地域の海岸沿いには灯台がある。真っ昼間だから、俺が見たい灯台ではない。でも、妙に懐かしい予感がした。灯台のすぐ近くに、懐かしい誰かが立っている気がする。見えない。まだ見えない。でももう少しで見える気がする。
まぁ、今更言うまでもないことだろうが、俺は眼が悪い。今どきの眼鏡と比べたら、ぼやぼやにぼやけているといっても過言ではない。それがわかっていてこいつは、俺と一緒に外に出たんだ。だから、すぐ傍に寄るまで、気づくことができなかった。その灯台の下に立っていたのは、あの娘だった。いや、あの娘ではないはずだ。見た目もそれほど似ていない。なのに、あの娘だと俺は感じた。
ところで、俺がその娘を見ているということは、この男も娘を見ている。おい、あの不器用ボーイが突然色気づいたのか。色気づいていた。なんとそいつは携帯電話を見る振りをして、画面に映った自分の容姿をチェックしていた。無精髭の散切りだ、とても見られたものじゃない。にもかかわらず、俺は驚愕した。あの少年が、今ではこんな大人になったのか。そして、その少年は、確かにあの船乗りに似ている……。
真っ昼間、灯台の下でたまたま居合わせた男女。何となく水平線を眺めて、通りかかる船を見つけて、あ、船ですね、と言葉を交わした。男も女も同時に同じことを言ったものだから、二人してびっくりしていた。よくこの場所に来るんですか。いえ、たまたま、今日、なんとなく。僕もです……あの船からこちらは見えているのかな。見えるでしょうね。昼に灯台を見るのかな。見たくなることはあるかもしれませんね。僕は、夕暮れの灯台を船上から眺めてみたいな。綺麗でしょうね。ええ、おそらく。
ところで。
はい。
その銀縁眼鏡、素敵ですね。
悪魔と呼ばれた眼鏡 だいなしキツネ @DAINASHI_KITUNE
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