理不尽

ninjin

理不尽

 その日、残業を終え、駅のホームに立ったのは午後九時を少し回った頃だった。

 いつもならこの時間、まだまだホームは電車待ちの人で混雑しているのだが、今日はいつもとは反対の上り線のホームに居るお蔭で、人は疎らだ。

 そう、いつもなら自宅への帰途に就くために下り線のホームに並ぶのだが、明日休みの僕は池袋に住む友人に誘われ、これからそこまで飲みに行くことになっていたのだ。

 この時間の下り線はまだまだ帰宅の為に乗車する客は多く、滅多なことでは空シートに巡り合うことは無い。

 しかしその反面上り線はというと、まぁ、こんな時間から都心方面に向かう人間なんてそうそう居るはずもなく、電車を待っている時点で既に、シートに着席できることはほぼ確定だった。

 仕事終わりの電車で座っていられるなんて、まさに天国。しがないサラリーマンの、ほんの些細な喜びだったりする訳だ。

 出勤時にはまだ我慢も出来る。

 本気で座って通勤したいなら、早起きして、一時間早い電車に乗ればそれも可能だし、そもそも朝の通勤ラッシュはそんなものだ、と、そういった諦めにも似た認識が随分若い頃から刷り込まれていて、特にそれを不満だと思うことはなかったのだ。

 それに比べて、帰りの電車はというと、当たり前だが、空いた電車に乗るために仕事を早退することも出来なければ、疲れて早く帰りたいのに、わざわざ極端に乗客の減る十一時過ぎの電車まで待っていられる訳もない。

 今僕の立つ、電車十数車両が停まれる長いホームには恐らく、電車を待つ客は十数名しかいないであろうし、逆に向かいのホームには、少なく見積もっても百人を超える人々が、次にやって来るであろう電車を待っている。

 そんな状況に身を置く今、性格のねじ曲がっている僕は、向かいのホームを見やりながら、実に気分が良いのである。


 いやぁ、いい景色だ。


 そして、『ムスカ』の――人がゴミのようだ・・・を思い出し、右の口角を上げ、ひとり可笑しな笑みを浮かべる。


 そうこうしていると、先に下りの電車が到着し、若干の降車客をホームに残して、反対のホームもこちら側と同じように閑散とした状態になった。

 ラッシュ時間帯の五分に一本のダイヤとは違い、この時間以降は十五分~二十分間隔の電車運行に変わる。

 しかしそれが、この後少し困ったことになることを、僕はその時、まだ分かっていなかった。


 下り電車が行って間もなくして、今度はこちらのホームにも電車が滑り込んできて、ゆっくりと停車し、プシューという音と共に扉が開く。


 ん?何か様子がおかしい・・・?


 こんな時間の上り電車から、男女数人の客が、電車から飛び出すように慌てて降りてきて、それから今降りた車両を覗き込むように振り返っているのだ。


 なんだ?何かあるのか?


 すると、車両から悲鳴とも怒鳴り声とも判別の付かない声がして、僕も何事かと、その声の方に目を向けた。

 それは、悲鳴であり怒鳴り声であることを理解するのに、一、二秒を要したか。

 目に飛び込んできた光景に、一瞬何が起こっているのか分からなかった。

 ニュースなどでは見たり聞いたりしたことはある。電車内での客同士のトラブル。

 しかしまさか、こんな時間に、こんなところで遭遇するとは・・・。

 シートに座った中年(?)男性に、若い男が殴りかかっているではないか。

 いや、既に数発殴っているようで、中年男性は鼻から血を流している。


 普段、僕には正義感の欠片も無い。今もそうだ。

 人助けなんてものは、僕以外のやりたい人に任せるし、面倒なことには関わらない。関わりたくない。

 降りかかる火の粉は払うかもしれないが、そうは言っても、そもそも火の粉が降りかかりそうな危険なところには近付かなければ良いだけだ。

 僕はふと、今降りて来た乗客と、車両の中を見渡す。

 パッと見、降りて来たのは、女性二人と、どちらかというと大人しそうなサラリーマン風男性二人、学生風の若い男性一人。

 車両の中には殴る男と殴られるおっさん・・・。

 乗車待ちの客は、この車両の場所には僕ひとり。

 反対のホームにも人はほぼ皆無。


 はぁ・・・


 溜息しか出ない。

 それでも、何故だろう。溜息と同時に、勝手に僕の足はその問題の二人の方に小走りに向かうし、近付くなり直ぐに、その殴りかかっている男の襟首を掴んで、力任せにホームに引きずり出していた。

 言っておくが、僕は決してガタイが良い訳でもなければ、喧嘩自慢でもない。

 若干、日本人男性の平均身長より背は高いが、格闘技経験などは無く、喧嘩なんてものは中学生以来したことはない。

 男をホームに引きずり降ろし、羽交い絞めにしてから辺りを見渡す。

 先ほど見掛けた五人以外、周りに人は居ない。

 反対のホームに疎らに居る電車待ちの客たちも、残念ながらこの状況には気付いてくれては居なさそうだ。

 何やら『おいっ、離せッ』、『誰だっ、てめぇ』と、ジタバタと僕の腕の中で暴れて逃れようとする男を、さて、どうしたものかと考える。

 僕は思った以上に冷静だったし、予想以上(いや、以下だ)に、その男の力は弱かった。

 いや、男の力が弱かったというよりは、僕の方が知らず知らずのうちにアドレナリンがMAX状態に分泌されていて、普段では考えられないくらいの筋力が発揮されていたのかも知れない。

 それでも頭の中は、至って冷静だった。

 学生時代に柔道有段者だった友人に聞いたことを思い出せるくらいに、だ。


 ――羽交い絞めってのは、相手の方が力が強くても、案外抑え込むことが出来るもんなんだ。ただし、素人相手だった場合な。

 相手が格闘技経験者だった場合、気を付けることは二点。

 相手からの後頭部でのヘッドバッド、それから後ろ足でのキンテキ。

 それさえカバーできれば、相手の方が体力削られて、そのうちバテてくれるんだぜ。


 そんな言葉を思い出しながら、自らの顔を男の後頭部から左に少しずらし、後ろ足で蹴り上げられないように右の膝を男の股の間に差し込むような体制をとる。

 それから相手の体力を削る為(敢てもっとジタバタと暴れさせる為)、男の左耳に挑発の言葉を囁く。

『君さ、弱いんだからさ、諦めな。ほら、もっと暴れてみなよ。でも、俺からは逃げられないよ。ほら、ねぇ、ほら、逃げてごらんよ』


 おお、あいつの教えは本当だった。

 案外簡単に人って抑え込めるものなんだな・・・。


 だけどさ、おーい、そこの君たち、ぼんやり見てないで、誰か、応援呼んでくれない?


 僕は落ち着いた声で、目の合ったサラリーマン風男性の一人に言う。

「駅員さんか、或いは警備員さんたちを呼んで来てもらえますか?」

「あっ、は、はい」

 サラリーマン風の男性は、今スイッチが入ったみたいに、駅舎に向かう階段を慌てて駆け上がる。

 それから僕は、柱の傍に居た二人の女性に向かって、「すみませんが、そこの『非常停止ボタン』を押して頂きたいのですが、宜しいでしょうか」と、丁寧にお願いした。

 僕の言葉に女性二人は、今の駆けていった男性同様、ビクッと身体を震わせるような仕草をしてから、急いでその『非常停止ボタン』に手を伸ばす。


 ――ヴぅぅぅ


 かなり大きいが、何とも締まりのないブザー音がホームに響き渡ると、その音に反応するかのように、僕に羽交い絞めにされた男が再度暴れ始めるのだが、僕は右手の拳で軽く男の頭を小突き、『諦めろ』と、諭した。

 それから徐々に、何事かが起こっていることに気付いた別車両の乗客たちが、一度乗り込んだ電車から降りて来て、ザワザワと僕らの周りに集まり始める。

 そして、それとは反比例するように、とうとう観念したのか、それとも力尽きたのか、捕らわれた男は暴れるのを止めにしたらしい。僕の腕の中で徐々に動きが鈍くなり、とうとうジッと動かなくなった。

 動かない男に対して、僕は敢て両腕に力を込めて締め上げて、男が呼吸を整え体力の回復をさせないように、挑発の言葉を掛け続ける。

『もうすぐさ、お巡りさん来るからね。大人しくしておくんだよ。じゃないと、僕はもっときつく君を締め上げないといけないんだよ。僕はそれでも良いんだけど、君は苦しいだろ?』

 その言葉とは裏腹に、僕は更に強く男の首を抑え込む。


 実は僕も、やはりテンパっていたのか、そういえば、あの殴られていた中年男性はどうなったのだろうと、その時初めて気が付いて、その男性が殴られていた辺りに目を遣ると、そこには床に這いつくばるようにして、何かを探している様子の彼が居るのが見えた。

 少ないとはいえ、既に二~三十人の人だかりに囲まれていた僕は、その中から一番手前に居て目が合った男性に「あの人を」と、目と顎で合図を送ると、彼は即座に理解して、中年男性の元へ向かい、抱きかかえるようにして中年男性を電車から降ろしてくれた。

 そろそろ疲れて来たなぁ僕も、早く駅員かガードマンか来てくんないかなぁ、そんなことを思い始めた時、少し離れた階段の上の方から「こっちですっ」、そう叫ぶ声がして、先ほど駆けていったサラリーマン風の男性と、その後ろに駅警備員の制服を着たガタイの良いのが二人、こちらに向かって階段を駆け降りてくるのが見えた。


「どうなさいましたか?」


 なんなんだ?この恍けた質問は・・・

 見りゃ分かるだろ、この状況。

 説明しなけりゃ、分からんか?


「あのね、今、こういう状況。そこの人が、この男に殴られていたから、僕が今こうやってこの男を抑えてるんだけど、もういいかな?後は任せて」

 両手の利かない僕は、顎でそこに膝に手をつく中年男性を指し示すと、警備員の一人がそちらに近付いていった。

 最初に僕に質問をしてきた警備員は、ガタイは良い割りに、何となくではあるが頼りなさげに見えるのだが、そろそろ疲れてきた僕は、もう一度訊ねる。

「ねぇ、もう良いかい?離しても」

「あ、ええ。大丈夫です。ご苦労様です」


 本当に大丈夫かよ。

 しかし、もうここまでやってやったんだ。後はもう知らん。


 僕は羽交い絞めにした男に、最後に一言囁いた。

『逃げようとしても、無駄だぞ。これだけ囲まれてるんだし、俺も逃がすつもりは無いからね』

 そう言った後、僕が両腕の力を緩めると、さすがに観念したのか、男は脱力して、向こうの中年男性と同じように両手を膝について、はぁはぁと息を整え始めた。

 その男の風貌を改めてよく見ると、歳は二十歳前後くらいだろうか。イキがった大学生かチンピラか知らないけれど、何だかだらしない格好だ。

 今になって、無性に腹が立ってきた。


 俺に迷惑を掛けるんじゃねぇよっ


 そうこうしているうちに、また階段の上の方から声がして、今度はどうやら制服警官が三人、階段を駆け降りてきたようだ。

 周りの人だかりをかき分けるようにして僕に近付いてきた三人のうちの一人が、僕に向かって訝しげな表情で問い掛けてくる。しかもかなり威圧的に。

「あなたは?」


 はぁ?『あなたは?』じゃ、ねぇだろっ。

 腹立つわぁ。


 すると、先ほどの警備員が首を横に振りながら警官に合図を送った。

 警官もすぐにその意味が飲み込めたらしく、少し気不味きまずそうに小さく「あ、そうでしたか。すみません、あとでお話伺いますので」、そう言って当事者二人の方へ向き直った。


 ふざけるなよ。

 何が『あとで』、だ。

 こっちは急いでるんだよ、もう、口が生ビールを迎えに行こうとしてるんだわっ。

 面倒くせぇことには、これ以上かかわりたくねぇし。


 もう僕の中では全てが終わって、これから発車するであろう電車に乗り込み、――いざ、池袋、そんな状態だ。

 僕はもう何も関わる気もないし、この先どうなろうが知ったことではない。そもそも、何でまたあの二人が殴り殴られていたのか、理由なんて知らないし。

 何となく身体が勝手に動いて、殴っていた方を止めただけだ。

 何か聴かれても答えることは何もない。

 ・・・。

 とはいうものの、全く気にならないということも、ない。

 どうやら問題の車両から最初に飛び降りてきて、終始この状況を傍観していた乗客が、制服警官に事の推移を身振り手振りで説明しているようなのだが、時々こちらに視線を向けて、僕のことも話している様子が伺える。

 しかし、気になったのは実はそのことではなくて、警官たちの立ち位置だった。

 警官三人のうちの二人が、状況説明をする乗客の話に聞き入り、実際にいざこざを起こした二人には警官一人しか付いていないのだ。

 殴られていた方の中年男性は、警官が来たことで気が大きくなったのか、殴った相手を指差しながら『この人がっ・・・』と、声を荒げて、かなり興奮気味に自分が被害者であることを説明していた。

 それに対して殴っていた方の若いチンピラ風の男は、『んだとぉ。てめぇが先に絡んできたんだろうがぁ』と言葉では凄んで見せているものの、様子がちょっと変な気がした。

 男の視線が先ほどからチラッチラッと空いたホームの線路の方に向けられているように見えるのだ。


 あの警察官は、果たしてそれに気付いているのか?


 そう思った瞬間だった。

「おいっ‼」

 手を掛けようとした警察官の制止を振切り、男は線路に飛び降りた。

「待ちなさいっ‼」

 警察官が怒鳴ろうが、男が待つ訳がない。

 男はそのまま向かいのフェンスをよじ登り、そして向こう側に着地した。


 あーあぁ、何をやってんだか・・・。


 逃げた男は、イタチの最後っ屁よろしく、何か大声で悪態を吐いてから走り去ったが、何を言ったかは聞き取れなかった。

 しかし、もう僕には関係ない。

 警察官たちが慌てて無線連絡を始めたり、もう見えなくなってしまった男の走り去った方向を確認したりと、何とも間抜けに見えてしまう。

 そんな様子を横目に見ながら、僕はそろそろ発車するであろう、停まったままの電車に乗り込むべく一歩を踏み出そうとしたところで、不意に「おい、あんた」と呼び止められ、声の方向に顔を向けた。


 おや、さっき殴られていた中年男性ではないか。

 別にお礼なんて要らないのだけど・・・。


「はい?」

 僕が返事をしながら彼の表情を窺うと、何故だかその目はやけに攻撃的であることが分かった。

「おい、あんた、俺の眼鏡は?」


 ・・・。

 はぁ?


 ――大変お待たせいたしましたぁ。三番線の電車はぁ、間もなく発車いたしまぁす。お急ぎのところぉ、大変ご迷惑をぉお掛け致しましたぁ。間もなく発車いたしまぁす。ご乗車になり、おまちくださぁい。


「知らねぇよ」

 僕は吐き捨てるように答えると、中年男性を一瞥してから電車に乗り込んだ。

 ホームに発車ベルが鳴り響き、電車のドアが閉まる。

 先ほど僕に『あとで・・・』と声を掛けた警察官が、慌てて電車のドアに駆け寄ろうとしていたが、もう遅い。

 電車はゆっくりと走り始めた。

 離れていく警察官と中年男性をボンヤリ見遣りながら、僕は今度は小さく呟いた。

「知らねぇよ・・・。腹立つわぁ・・・」


 確かに、感謝されたり褒められたいからやった訳ではない。

 に、してもだ。

 何だったんだ?あのおっさんは・・・。

 ひょっとしたら、あの逃げた若い男、あっちが真面だったのかも知れない・・・。

 まぁ、人を殴るのは良くはないが・・・。


 やり場の無い怒りが込み上げてくる。

 やっぱり人助けなんて、するもんじゃない。いや、僕には向いてない。


 ・・・・・・・・・。

 いや、ちょっと待てよ。

 今日の飲み、今の話で、三十分は盛り上がれるな・・・。

 うん、そう思えば、いいネタが出来た。


 喉、渇いたな。早く生ビールが飲みたい。


 僕は池袋で待つ仲間たちに、何処から話して笑いを取ろうか、そんなことを考えながら電車に揺られていた。



         おしまい

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理不尽 ninjin @airumika

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