大いなる自然の中で

湾多珠巳

大いなる自然の中で






「ありえません! このような矛盾がまかり通っていいものでしょうか!?」

 大アゴをがつがつぶつけながら、クロアリのチヨルはベドイにありったけの不満をぶつけた。若者の触角は逆立ち、腹部は天を突き上げている。あの親戚筋の針持ち羽つきの種族なら、自殺兵器をこれ見よがしに突き出していたことだろう。

 が、長老のベドイは、曖昧に笑みを浮かべているだけである。

「チヨルよ。何が矛盾か。いかなる点を持ってお主はわれらの決定に異を唱えるか」

「だってそうでしょう! 奴らは何にもしなかったんですよ! 快楽に身を任せ、まさにうつつを抜かしていたのです! それを……」

 すっと三対の足が動いて、チヨルが巣穴の大空間を指し示した。奥までぎっしりと冬越しのための食糧が積み上げてある。

「我らの蓄えを分け与えてまで迎え入れるとは! 我らの間でも、怠惰は厳に戒められております! 働かざる者食うべからず! なのに、よりによってキリギリスですと? あり得ません! なぜあのような精神の低い一族を救わねばならないのですか!?」

 ベドイに面と向かって抗議してくるのはさすがにチヨルだけだったが、他の若手達も集まってきて、同意の印に上アゴをかちかち、かちかちとぶつけあっている。一齢未満の成虫がほとんどだ。

 驚いたことに、ベドイは厳しく叱責したりはしなかった。いつになく優しげな触角の振りを見せ、「子供達よ」と呼びかけた。どこかしら感動のこもった声の響きである。

「お主らも明日には知るだろう。この世の定めというものを。神聖にして不可思議なる自然の掟というものを」

「明日?」

 何匹かが戸惑ったように、チヨルを振り返る。チヨルはもちろん何も言えなかった。明日何があるというのだろう?

「チヨルよ。お主はあのキリギリス達を精神の低い一族と呼んだな」

「違うというのですか!?」

「違うとは言わない。だが、真理でもない」

 長老らしく、禅問答みたいな受け答えを見せてから、ベドイは言葉を継いだ。

「……そのセリフ、明日の夜が終わってから今一度問うがよい。ただし、お主自身の胸にな……。他の者もだ。ふふふ。まあ、毎年この日には、一齢成虫がこぞって騒ぎ立てるもんじゃて。わしの時もそうじゃったよ……」

 どこか意地の悪い笑い声を残して、ベドイがゆったりと奥の間に姿を消した。半ば呆気にとられて見送っていた若手達は、ふとお互いを見交わし、急に居心地が悪くなってそそくさと散会した。がちがちと関節をいからせているのは一年前を知らない若手だけであることに、今更ながら気がついたからだ。他の成虫達は、むしろ微笑ましいものでも見る目で彼らを遠巻きにしている。

 単眼を心持ち伏せ目にしながら、チヨルももそもそと足を進めた。からかわれたような、あやされたような、変な気分だ。

(なんだい。ちゃんと教えてくれてもよさそうなものなのに……いったい明日何があるってんだ?)

 ふとふりかえると、今日巣穴に導き入れられたキリギリスの夫婦が、並べられたごちそうに恐縮しながらも片っ端から平らげているところだった。苦々しげに舌打ちして、チヨルはねぐらへと戻っていった。



 翌日の夜。

 晩餐が済むと、にわかに雰囲気が厳粛さを帯びてくるのにチヨルは気づいた。

 何かが始まる。ただ、今まで感じたこともない空気の重々しさだ。

 立ち働いているのは一部の世話係だけだ。ほとんどのクロアリは、ただそこにいるだけ。それでも、一齢未満を除くほとんどのアリが、これからのイベントへの興奮にわなないているものだから、巣穴全体がすでに息苦しいほどだった。

「女王陛下、御臨幸ーっ!」

 チヨルは仰天した。日頃巣穴の最奥に鎮座し、お目通りすらめったに許されない女王アリが、自ら玉体をお運びになる! これは、いったいどんなイベントなんだ!?

 ほどなく、一同の中央にベドイが現れた。キリギリスの夫婦も一緒だ。

「ついに、というか、いよいよ、というか、今年もこの日が巡ってきた。昨年を知る者は、何も言うことはあるまい。今年初めての者は、すべてを、しかと目に焼き付けておくがよい」

 チヨルにはよく分からない話だが、多くの成虫が感慨深げに頷いている。一つ一つの単眼は、喜びと感動に輝いているようで、どこか深い悲しみを湛えているようにも見えた。

 結局ろくな説明もないまま、ベドイが夫婦に向き直った。

「では……始めさせていただいてよろしいですかな?」

「ええ、もちろんです」

 芸人らしい、どこか軽い口調で夫のキリギリスが答えた。少なくとも、チヨルにはそう聞こえた。

「申し訳ない。できれば一週間ぐらいゆったりしてもらってからにしたかったのだが、今年は冬の訪れが早くて……」

「何をおっしゃいます。今日このステージを頂けただけで、もう何も申し上げることはない。この身がお役に立てて、キリギリスとしても本望です」

 ベドイは何を卑屈になっているんだ! 今度こそ、チヨルはアゴをおもいっきりガチガチ鳴らしたかったのだが、自制した。

 ステージがキリギリス夫婦だけになった。どうやら、二匹の舞台がこれから始まるらしい。

 巣穴、とは言っても、半分は古木の根本に出来た洞(ほら)である。わずかな隙間から、ちょうど昇りかけの月光が差し込んで、会場の中央にいい具合に月溜まりを作っている。 その青白い光を浴びながら、キリギリスの夫婦がきらきらっと羽を舞わせた。続けて、朗々とした響きが大空間が満たした。

 それはこの世ならざる音楽だった。ある時は絶妙のハーモニーで、ある時は強烈なリズムのぶつけ合いで、たった四対の羽から変幻自在な調べが、歌声が流れ出ていた。

 幻想的だ、とチヨルは思った。クロアリの一兵卒からそんな言葉が出てくるほど、そのステージは魅惑的だった。視覚的にも、もちろん聴覚的にも。

 今まで仕事の合間に遠くで鳴っている羽音を聞き流すぐらいだったが、残響豊かな洞の中でこうして一心に聞き入っていると、なるほど、精神性が低いなどと言い放ったのは軽率だったかも知れない。ほどなくチヨルも二匹のステージにすっかり夢中になっていた。

 あっという間に演目は最終曲となった。チヨルが異変に気づいたのは、夫婦の二重唱が切々とこの世の無常を訴えている時だった。


  いとしきわが世界よ。

  私が愛するほどに、お前が私を愛することはない……


 白装束(アルビノ)の特務アリが数匹、夫婦の横に現れると、神妙に頭(こうべ)を垂れて祈りを捧げた。歌いながら、キリギリス達は優しげに頷いた。

 チヨルはあやうく悲鳴を上げるところだった。特務アリ達は、いきなり二匹の気門末節にかぶりついたのだ。十分に気を遣っているつもりでも、ぴち、ぴち、と筋肉の弾ける音が出る。微かに歌声が揺らいだ。しかしそれは、むしろ哀しみのアリアに劇的な効果を加えていた。


  しかしわが命尽きる今、私は改めて叫ぼう。

  私の仲間達よ。家族よ、友人よ、幾多の敵(かたき)達よ。

  風よ、せせらぎよ、太陽よ。


 生殖管がちぎれ、気のうのいくつかが落ちた。遠慮深げに、しかし決然として、中足の二本が根本からちぎられる。少しずつ、二重唱が弱々しくなっていく。背中からマルピーギ管のほとんどが露呈し、腹部は半分がごっそりなくなっていた。


  私の全存在をかけて、君たちを愛すると。

  世界のすべてを愛すると。


 胸部の器官にも特務アリのアゴが食らいつきだした。唾液腺がはだけ、中腸が引き出される。キリギリス達は最後のフレーズを、最後の力で絞り出していた。


  私の愛を、今、この時間に刻もう。

  一瞬にして永遠の、この時間。

  無慈悲な世界よ、わが愛……永劫に忘れる事なかれ……


 すべてが終わった時、キリギリス達は食用にならない部分を残し、ほとんど肉団子になっていた。新鮮な肉。これからの冬を過ごすために、ありがたみすら感じられるほど大量の――。



 チヨルがその肉の塊を卓上に見たのは、三日後の夜だった。

「どうした? 食べないのか?」

 背後で声がした。ベドイである。黙礼すると、ひとかじり、塊にかぶりつく。

「毎年、彼らはやってくる。我々が最後のステージを提供する代わりに、彼らは肉を提供する……舞台の上で死にたいというのが彼らの本望だからのう。まあ、我々としても、死体からよりは、生きているうちに切り取った肉の方が持ちがよいものだしな」

 努めてあっけらかんと語るベドイ。

 塊を見つめながら、チヨルは考えていた。いずれ自分も死んで肉になる。仲間か、あるいはどこかの敵がこの体を血肉に変えるだろう。けれども、それまでに一度でも、世界に向けて愛を訴えるような機会が持てるものだろうか?

 生涯のほとんどを歌に生き、最後は大いなる感動と、そしてしっかり我が身をも差し出したキリギリス達。なんと豊かな一生だったことか。それにひきかえ――。

「アリに生まれたことを後悔しておるのか?」

 ベドイの言葉で、ふっとチヨルは我に返った。

「キリギリスとして生まれたかったか?」

「え? いえ、そんなことは……」

 笑んでみせたチヨルに、生真面目な顔で頷くベドイ。

「堅実な社会を作り、堅実な生活サイクルを維持していても、アリはアリじゃて。キリギリスではない。歌声を残すでもなく、所詮貪るだけの一生かも知れんのう」

 長老の口から自嘲的な言葉が飛び出して、チヨルは驚いた。

「が、歌にしろ肉にしろ、貪る者がいて、初めて意味がある。一方的に芸を楽しみ、食い尽くす役回りも、それはそれで大事なものではないか?」

「…………」

「得られた恵みを大いに味わうことこそ我らの使命。そうは思わんか?」

「そうですね……ええ、そう思います」

「ならば」

 ようやくまったりと笑いかけて、ベドイが諭した。

「まずはこの冬を乗り切ることだ。しっかり食え。そして、巣穴を維持せよ。来年もまた、キリギリス達を迎えられるようにな」

 去り際に、「その皿の彼らもそれを望んでおろう」と一言付け加えて、ベドイは姿を消した。

 チヨルはアゴを大きく開いて、むしゃっとキリギリスの恵みものにかぶりついた。たくましい筋肉繊維が口の中でぴちぱち音を立てる。

 あの歌と自分の体が一つになったみたいな気がして、チヨルは思わずにこっとした。


<了>

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大いなる自然の中で 湾多珠巳 @wonder_tamami

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