「私」という私(8)
同じ沿線のいつもと違う駅で降り、夜の暗さに沈む町並みの路地を足早に一つ入り二つ入ると目的地の平屋建てが現れる。
古い日本家屋の古びた玄関前には名も知らぬ白い花が咲き、甘い香りを漂わせていた。
4月のあの日よりも緊張している自分を自覚して、大騒ぎしている心臓を鎮めるためにその花の香りを胸いっぱいに吸い込んでから、古い呼び鈴のボタンを押す。
家の奥から「はーい」と声が聞こえてパタパタと足音がし、随分間をおいてから重いガラス扉が開かれた。
「……好平さん?」
髪を一つにしばって、洗いざらしのシャツにズボンに前掛け姿の唯子が驚きを隠さずに顔を出した。
「あ……」
そう話かけた俺に、唯子は瞬時に口をへの字に結んだ。
「あまねさんは居ません」
「わかってる……そうじゃない、違うんだ」
握りしめた左手を飴でもあげるかのように突き出すと、唯子はきょとんとした顔をしている。
「ほら」と促すと、小首をかしげながら俺の手の下に両手をそろえる。
その小さな手のひらに、握りつぶした蛍光ピンクのメモの塊を落とす。
唯子の目が見開かれた。
「唯子の気持ちも考えずにひどいことをしていた。ごめん」
玄関先で頭を下げる俺にご近所の目を気にしたらしい唯子は、一歩下がって俺を玄関内に入れてくれた。
狭い三和土に向かい合うと空気が静かに冷えて、甘い香りがほの暗い夜の色をまとってくる。
距離の近さに耐えかねたのかサンダルを脱いで上がり框に立ち、身を翻そうとするその手を取って引き止めると、唯子は唇を食いしばって額を手で押さえた。
そこには、あの事故の時の傷がある。
4月のあの日、傷を見上げる俺の顔はきっと自責の念に駆られてひどい顔をしていたに違いない。
逃げたそうに後ろを向く唯子の手は絶対に離さず、その細い背中に向かって話しかける。
「唯子にとってあまねは他人だと思うけど、俺には唯子もあまねも同じ人だ。俺の中ではひと続きの時間が流れてる。だから、あまねが居なくなっても君が生きていてくれてよかったと心から思ったし、また一緒に居られてうれしかった」
「やだ!」
俺の言葉を聞いて唯子は叫んだ。
叫んで、握りしめる俺の手を振りほどこうと、自分の手をブンブン振った。
「私はあまねさんじゃありません。そんなこと聞かせないでっ。こんなの、いや!」
俺はその手を引き寄せ、嫌がる唯子を抱きしめた。
「きっかけがあまねで、ごめん」
汗臭いだろうとかそんなことは、もう考えていられなかった。
「あまねが好きだった俺もなかったことにできない、ごめん」
身じろぎをして耳をふさごうとする唯子の体にしがみついて、必死に言った。
「唯子の作るご飯が好きだ」
「唯子の居る家が好きだ」
「お帰りなさいって言ってもらえるのがうれしい」
「俺のことを考えて、俺のためにしてくれることが全部うれしい」
「唯子がベッドとかソファを換えたいって……やきもちやいてくれたの、すごくうれしかった」
俺の腕を押しのけようとした唯子の手が袖をぎゅっとつかんだ。
「ねぇ、唯子。俺は、好きな人と生きて好きな人のところに帰りたいと思っているだけなんだ。一緒に生きていきたいだけなんだ。それもだめか?」
こいねがうように、思いが届くようにと抱きしめ続けると、唯子の体の力が徐々に抜けて行く。そうして俺の腕にすがって静かに鼻をすする音が聞こえた。
そのぐずるような音を聞きながら唯子の背をゆっくり撫ぜていると、不機嫌そうな鼻声が腕の中から聞こえてきた。
「……わたし、きれいじゃありません」
「唯子は十分きれいだよ」
「それに、むらさきいろとかももいろの下着なんて、着ません」
「……っ、それは、好きなのを着ていい」
「今度『あまね』って呼ぼうとしたら、噛みます」
「わかった」
頭に口づけて撫でてやる。
「俺は偉そうにするけど迂闊なところがあるから、しっかりしつけてやってくれ」
「猫の子みたい」と吹き出す唯子に合わせて、俺の腹の虫が空気を読まずに鳴きだした。
その悲痛なSOSを聞いて、涙で濡れた顔のまま唯子が慌てて見上げてくる。
「いけない、御飯は?」
「食べてない」
「すぐに晩御飯にしましょう」
涙をぬぐって、小さな手が俺の手を引いて家に上がる。
そして突然「あっ」と声を出して、唯子が振り返った。
「おかえりなさい、好平さん」
「ただいま、唯子」
花咲くように微笑む恋女房と帰宅の挨拶をかわす。
それでようやく俺たちは「なんてことない普通の夫婦」の第一歩を踏み出すことができた。
なんてことない夫婦の話 キノキリヲ @knk_oowashi
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