「私」という私(7)


 午後中ずっと無心で仕事を片付け、重い体をひきずり「ただいま」と言うことも出来ず、真っ暗な我が家に帰宅した。

 靴を脱いでそのまま北の部屋に入り、クローゼットの奥のあまねの荷物をしまいこんだ段ボール箱を引きずり出す。

 去年の手帳も入れておいたその箱の中身は、唯子も見た筈だ。

 中に入っているあまねの残していった衣類や雑貨の数々は、確かに唯子にとっては「前に付き合っていた人のもの」だろう。

 あまねと付き合うまで、一人も女を知らずにいたわけじゃない。

 ただ、一緒に暮らすほど深いひとはいなかった。

 「だから」が言い訳にはならないことぐらいわかってる。

 片付けておくことに思い至らなかった事に後悔のため息を一つつき、立ち上がってリビングの続きになっている台所に向かった。

 あまねの私物を処分すべく、シンクの下に常備してあるはずのごみ袋を探すために、真っ暗で風の通っていない、蒸し暑い台所に入って明かりをつける。

 照明が一、二回瞬きしてからパッと明るくなった。

 光に暴かれた台所の中で、電子レンジが真っ先に目についた。

 いつもと同じ電子レンジだ。特別おかしいものではない。

 なのに、いやに目についた。

 何故かなんてすぐわかった。

 電子レンジの操作パネルにどぎついピンクのメモが貼ってある。

 その蛍光ピンクのメモに「温めるときは①→②」と書かれている。

 炊飯器にも、トースターにも、冷蔵庫にも貼ってある。

 慌ててリビングの電気をつけて見渡せば、エアコンのリモコンにも、テレビのリモコンにも同じように貼ってある。

 洗面所でも、洗濯機にも、ふろ場の乾燥機にも蛍光ピンクのメモが貼ってある。

 気が付けば、食いしばった歯の隙間からうなり声が漏れていた。

 日常と化して気にも留めなかったこれらは、あまねのために俺が書いて貼ったものだ。

 機械オンチのあまねのために、愛する女と一緒に生きていくために。

「ゆいこ」

 唯子があまねの存在に気づいたきっかけは、去年の俺の手帳だ。

 その中には当然、あまねのために家電の取り扱いを貼ったことだって書いてある。

 この家中の家電に貼られたメモの意味を知って、唯子はどんな気持ちでいただろう。

 他の女への気持ちをそのまま持ち続ける男の、何を信じられるというのだろう。

 自分の馬鹿さ加減にほとほとあきれ果てた俺は悪態一つで立ち上がり、緩めていたネクタイを投げ捨て、洗濯機にかじりついてメモを剥がしにかかった。

 ふろ場の乾燥機、エアコンのリモコン、テレビのリモコン、炊飯器、トースター、冷蔵庫。

 テープの劣化でうまく剥がれないことにイラつきながら、爪で削って、こすり上げて。

 大汗かきながら家中のメモを剥がし終えた俺は、上着をひっつかんで家を飛び出した。


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