10.喫茶『パンプキン』
私が七海に電話を入れようとした、そのときだ。当の七海から電話が掛かってきた。私のスマホから七海の明るい声が流れてきた。
「鮎美? 私。おはよう」
私は勢い込んで言った。
「七海ね。ちょうど良かった。お話があるの」
七海は私の言葉を聞いていなかった。
「鮎美。今日ね。大倉さんと会うことになったのよ」
「大倉さん?」
「そう、大倉健太さん。ほら、昨日電話で言ったでしょ。昨日私が買った男性。A商事に勤めている・・」
私は思い出した。七海が昨日電話で私に話した男性だ。一流商社のA商事に勤めながら高田馬場会に所属して女性にお金で買われている。ホントにそんな人がいるのだろうかと私は疑問に思っていたのだ。
「それでね。今日、彼と会うことにしたんだけど、大倉さんがね、私の友だちにも会いたいって言うのよ。それで、鮎美にぜひ出てきてもらいたいんだ」
その男が私と会いたい? どんな用事で?
しかし、七海がそう言うのならちょうど都合がいい。八代浩二のことは電話で済む話ではない。大倉の話の後で七海に相談しよう。
「いいわよ。私が行ってあげるわ。それでね、七海。私もあなたに相談があるのよ。大倉さんと会った後で、あなた、時間を取ってくれない?」
「相談? また、セックスレスの?・・いいよ。他ならぬ鮎美のためだからね。私の貴重な時間を親友の鮎美のために取ってあげましょう。あっ、それでね、大倉さんのことだけど、池袋駅東口を出たところに『パンプキン』っていう喫茶店があるのよ。そこに今日11時に来て頂戴。じゃあね」
そう言って七海は一方的に電話を切ってしまった。
池袋駅東口? あのホテルユーカリのあるところだ。池袋駅東口には行きたくない。私はそう思ったが、再び電話して七海にそう言ったら、七海が不審に思うだろう。それに、池袋駅東口の周辺はいつもすごい人だ。昨日の私のことを覚えている人なんて誰もいないだろう。
七海は八代浩二の事件のことを知らない様子だ。もっとも、事件がホテルユーカリで起こったことは報道されていないので、七海が八代浩二の事件をニュースで見たり聞いたりしても、私に結びつけることはないはずだ。ホテルユーカリの名前が報道されていないのは警察が報道規制を行っているからに違いない。そして、警察は私が持ち帰った315号室の鍵のことも秘密にしている。警察は315号室の鍵を探しているはずだ。あの鍵は誰にも見せることはできない。
私は11時前に喫茶『パンプキン』に着いた。重厚な焦げ茶色のドアを開けると、七海はもう来ていて、一番奥の席から私に手を振った。
喫茶『パンプキン』の中は客でごった返していた。私にとっては混んでいる方が都合がいい。私はウエイトレスや客たちを避けながら七海のテーブルに向かった。
七海のテーブルに近づくと、七海の横に男が座っているのが見えた。あのマンションで、七海がタブレットで私に見せた153番の男だ。紺のスーツに水色のネクタイを締めている。髪をきれいに整髪料でセットしていた。清潔感があった。年は35か6というところだろうか。どこにでもいる営業マンという感じだった。ハンサムというわけでもない。むしろ、どこにでもいる顔だった。
七海と男の前には紅茶のカップが置いてあって、紅茶が少なくなっていた。私が来る前から二人で待ち合わせて何かを話していたという感じだった。
私が七海と男の前に座ると、七海が男を紹介した。
「鮎美。こちらが電話で言ったA商事の大倉さん」
大倉は如才なく笑って名刺を差し出した。
「大倉です。よろしくお願いします」
私が名刺を見ると『A商事東京本社調査部 大倉健太』とあった。調査部?
七海の声がした。
「鮎美。それでね、大倉さんは調査部で、いろいろなことを調べていてね、私たち主婦の将来設計についていろいろ話を聞きたいんですって」
「将来設計?」
大倉が七海の後をついで話し始めた。
「ええ、実は富裕層の若い主婦の方を対象とした、ある商品の販売がA商事で計画されていまして。その商品のことはまだ秘密なので、お話できないんですが、その商品の販売の参考にするために、ぜひ富裕層の若い主婦の皆様が将来設計をどのようにお考えなのかという調査をさせていただきたいんです」
いかにも慣れた口調だった。大倉は口の端に笑みを浮かべていた。
「・・・」
「将来設計といっても、難しい話ではありません。子どもさんは欲しいか、何人欲しいか、男がいいか女がいいか、将来の貯蓄をどう考えていらっしゃるか、今後どんな保険に入ることを考えていらっしゃるか・・そういった雑談に少々お付き合いいただくだけでいいんです」
それから1時間ばかり大倉の主導で私と七海は『将来設計』についてとりとめのない話をした。大倉は私たちの会話をレコーダーに記録しながら、手元の手帳に一生懸命にメモしていた。
一通り話が終わったときだ。
七海が「私、ちょっとお手洗い」と言って席を立った。私は大倉と二人でテーブルに残された。すると、大倉が手帳から折りたたんだ一枚の紙を取り出した。そして、その紙を広げると、何も言わずに私の眼の前に差し出した。
私はその紙を覗いた。手書きで『ホテルユーカリ 315号室』と書かれていた。
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