7.急展開

 私はホテルユーカリの315号室の浴室でシャワーを浴びた。男に抱かれたのは数カ月ぶりだった。久しぶりのセックスに、シャワーを浴びながら思わず私の口から鼻歌が出ていた。先ほどの余韻を受けて、私の下半身の内部がまだ火照っていた。心地よい疲労が身体に残っていた。


 私は石鹸で身体を何度もこすった。長い時間をかけて汗と男の体液をシャワーですっかり洗い流すと、私は身体にバスタオルを巻いて浴室を出た。288番の男は先に帰ると言っていたが、まだ部屋にいた。私に背を向けてベッド脇の椅子に座ってテレビを見ている。


 テレビでは女性下着の通販番組をやっていた。私がよく見ている番組だった。売られている下着が安い割にはしっかりしているというので主婦に評判なのだ。


 288番の男は椅子に座って、ちょっと首を傾けて身動きもせずにテレビを見ている。私は疑問を感じた。男性が見る番組ではないのだ。それに、さっきから全く身動きをしないのも気になる。寝ているのだろうか?


 私は288番の男の肩を軽く揺すった。


 「ちょっと、あなた・・」


 男の身体が床に崩れ落ちた。


 私の口から声にならない悲鳴が上がった。私の身体からバスタオルが音もなく床に落ちた。床に倒れた男は息をしていない様子だった。私は急いで男の身体を触った。


 私は学生のときに看護実習を受けたことがあった。そのときの講義がよみがえった。手首を取って脈を診た。脈はなかった。男の鼻と口に手を当てた。息はしていなかった。男のワイシャツをはだけて、心臓に耳を当てた。鼓動がなかった。これって・・ひょっとして・・私の鼓動が速くなった。


 288番の男は死んでいた。


 さっきまで、元気で・・私と・・していたのに? いったい、どうして? 


 私の頭は混乱した。

 

 男がどうして死んでいるのかよりも、この事態にどう対処すべきかということが私の頭を支配した。


 どうしよう・・


 私は途方に暮れた。ホテルユーカリの従業員に知らせて、警察を呼んでもらうのが一番いいことは分かっていた。私の脳裏にホテルユーカリの入り口で、315号室のキーを渡してくれた女性の手がよみがえった。


 しかし、警察に事情を聞かれたときに私は何と言えばいいのだろう。


 男を買いました。そして、初めて会ったこの男に、このホテルのこの部屋で、お金を5万円渡しました。それで、このベッドの上で男とセックスをしました。終わった後で、私が浴室から出たら男は死んでいました。なぜ男が死んだのか、私にはまるで分かりません。


 警察はそれを信じてくれるかもしれない。しかし、恭一は? 私の頭に恭一の顔が浮かんだ。恭一は許してくれないだろう。おそらく、私を成城のマンションから追い出して、離婚を言い出すだろう。恭一の両親は二人とも教師だった。二人とも厳格な性格だ。彼らも私を許さないに違いない。私は男を買って夫から離婚された元妻として、これからの長い人生を日陰の身で暮らすことになる・・


 年を取って・・生活に困窮し・・行く当てもなく・・一人で街をさすらう・・そんな私の姿が脳裏に浮かんだ。私は首を振った。そんなの嫌よ。


 そうだ。成城マダムと言われる今の生活を捨てるわけにはいかない。何としてでも、今の生活を守らなければいけない。私はホテルユーカリに入ってからのことを思い起こした。幸い、私は誰にも顔を見られていない。


 そうだ。早くここから逃げよう。


 私は急いで服を着た。簡単に化粧をした。化粧をするときに手が震えた。


 315号室を出ようとして、私は鍵をどうしようかと迷った。死体の発見は少しでも遅い方がいい。そう思った私は部屋の中に戻って、鍵を取ってきた。そして、315号室に外から施錠すると、鍵をバッグの中にしまった。私は急いで階段を降りた。誰にも会わなかった。入り口にある受付の四角い窓にはカーテンが掛かっていた。窓の向こうに人がいるのかは分からなかった。私は音を立てないようにして、その前をすばやく通り過ぎた。


 私はホテルユーカリを出た。


 ホテルの外には夕闇が迫っていた。街灯が灯り始めている。そんな中を多くの男女が忙しそうに行きかっていた。そこには日常があった。私はその日常の中を池袋の駅に向かって急いで歩いた。288番の男がいまにも私の跡を追いかけてくるような気がして、私は何度も後ろを振り返った。

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