8.日常
成城のマンションに戻ると、私はすぐにテレビをつけた。パソコンを立ち上げて、インターネットのニュースを調べた。ホテルユーカリや288番の男のことはまったく報道されていない。さすがに新聞の夕刊に記事が載っていることはないと思ったが、夕刊も隅から隅まで眼を通した。288番の男の事は出ていなかった。
私はやっと落ち着いた。
私は自分に言い聞かせた。大丈夫。私はホテルユーカリでは誰にも会わなかった。私がホテルユーカリで288番の男を買ったことは誰も知らないはずだ。
そう思ったときに、私の頭がそれを打ち消した。そうじゃない。私がホテルユーカリで288番の男を買ったことを知っている人物が2人いる。七海とあの高田馬場会の岩本というオーナーだ。
七海は私の味方なので大丈夫だ。では、あのオーナーは大丈夫だろうか? まてよ・・あの『高田馬場ひまわりマンション』では、七海は私の名前を言わなかった。オーナーは私の名前は知らないはずだ。ということは、七海が今後私のことを誰にも言わなければ、私が288番の男を買ったことは誰も知らないわけだ。私が男を買ったことは永遠に闇の中になる。
これで、私のことが恭一に知られることはない。義理の両親も、私が男を買ったことを知ることはないのだ。
それでも、私は買い物に外に出るのが怖かった。自分の夕食は丼物の出前で済ませた。問題は恭一の夕食だが・・恭一には悪かったが、私はピザを出前した。恭一が帰って来たら、ピザを温めて済ませてもらおう。それに、おそらく今夜も恭一は食事を済ませて帰宅するだろう。
一気に疲れが出た。いつの間にか、私はリビングのソファで眠っていた。
スマホの電話が鳴っているので目が覚めた。時計を見ると、もう夜の9時半になっている。電話は七海からだった。私は急いでスマホの電話マークをタップした。七海の明るい声が流れてきた。
「あっ、鮎美? 私」
「七海ね」
七海は電話の向こうで笑った。
「鮎美。今日はどうだった?」
私はドギマギした。七海に何て言ったらいいのだろう。私は当たりさわりのないことを口にした。
「どうって? まあまあだったよ」
「まあまあ? すると、良かったんだ」
私はあわてて話題を七海に振った。私の話題は避けなければ。
「私のことはいいよ。私より、七海、あなたはどうだったの?」
「うん。良かったよ」
「良かったって、どんな風に?」
「彼ねえ、A商事の社員なんだって。私も商社でOLをしてたじゃない。だからね、彼としたあとでね、話が弾んじゃって・・彼と夕食も一緒にして・・いま帰ったとこなのよ」
A商事は日本を代表する一流の商社だ。そんなところの社員が、高田馬場会に登録して、お金目当てに女に買われるだろうか?
「ちょっと、七海。A商事って一流の会社でしょ。その話は本当なの? あなた、騙されているんじゃないの?」
「ううん。ホントの話。彼ね、私に名刺とか、A商事の社員証を見せてくれたよ。独身でね、女性経験が少ないから、こうして女性に買われていろいろ体験を積んでるんだって言ってたわ」
七海は私のことよりも、今日の彼のことを自慢したくて、私に電話してきたのだ。私は安堵した。でも、夫の戸田君は大丈夫なのだろうか?
「七海。あなたね、男を買うのは後腐れが無いからだって言ってたでしょ。そんなことをして、戸田君は大丈夫なの?」
「平気。平気。戸田はね、昨日から組合の会合で熱海に行ってるのよ。会合っていってもゴルフが目的なんだけどね。それで、帰りは明日になるわ」
「そういうことじゃなくてね。その・・後々・・そのA商事の人と面倒なことにならないの?」
七海は笑った。
「大丈夫よ。彼とまた会う約束をしたのよ。それでね・・」
そのとき、七海の声の後ろから「女将さん」と七海を呼ぶ声が聞こえた。
「あっ、源さん・・ええ・・分かった。すぐ行くわ。鮎美、またね」
源さんは佃煮屋の番頭さんだ。そこで、七海の電話は切れた。
恭一が帰ってきたのは夜11時半だった。私の予想通り、夕食は済ませていた。いつもだったら私はふくれるのだが、今日ばかりは夕食を済ませてくれているのがありがたかった。
恭一の後で、私は風呂に入った。ホテルユーカリでシャワーを浴びているが、いつもと同じように行動することが大切だ。風呂上がりに恭一の寝室を覗くと、恭一は穏やかな寝息を立てていた。
すると、急に288番の男の身体が思い出された。今日は本当に良かった・・・私は日常に安堵した。
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