男を買う女たち
永嶋良一
1.喫茶『ユトリロ』
「ねえ、だったら男を買わない?」
思いもかけない七海の言葉に私はどう反応していいのか分からなかった。
「お、男を買うですって? 七海、あなた、一体何を言ってるの?」
七海は私の顔を見て首を傾けた。
「やっぱり
「もう!・・成城マダムって言わないでって、あれだけ言ったでしょ」
私がふくれっ面を見せると、七海が肩をすくめて笑った。
「分かった、分かった、鮎美。もう言わないから、そんなに怒んないの」
初夏の明るい日差しが、壁に大きく開いた窓から店内にあふれんばかりに差し込んでいる。窓の外の木が風でそよぐと、私たちのテーブルに掛けてある白いテーブルクロスの上に明るい緑の影が揺れた。
小田急電鉄の成城学園前駅から歩いて五、六分のところにある喫茶『ユトリロ』だ。七海と会うときに、私がいつも使う喫茶店だった。茶色を基調として広々とした開放感があふれる店内にはテーブル席が10席ほどある。平日の午前中ということもあって店内には客の姿はまばらだった。
七海はレモネードをストローで一口吸い込むと、両肘をテーブルにおいて顔の前で手を組んだ。組んだ手の上に形のいい整ったあごを乗せると、顔を少し右に傾けて、いたずらっ
「鮎美。セックスレスなんて・・そんなに深刻に考えなくてもいいんじゃない。いまは女性でもお金で男が買える時代なのよ・・鮎美、あなたも男を買えばいいのよ」
もう、七海ったら・・喫茶店で「男を買う」なんて、声に出して言わないでよ。
私はあわてて周囲を見わたした。店内のお客は女性ばかりだった。幸い、みんな自分たちのおしゃべりに夢中で誰も私たちに注意を払っている様子はなかった。
今日の七海は、白地にパイナップルのイラストがプリントされたブラウスに、明るい水色のロングのフレアースカートという出で立ちだ。長い黒髪を無造作に後ろで束ねて、ピンクのシュシュで留めている。傍らの椅子に置いた大きな麻のトートバックと頭の上に乗せた茶色のサングラスがアクセントになって、七海に活動的な印象を与えていた。黒のシックなワンピース姿の私と違って、まだ女子大生と言っても通用するだろう。
私と七海はどちらも今年で26歳になる。私は七海と都内のS女子大で1年生のときに知り合った。何事にも物怖じする私と違って、七海は積極的な性格だった。正反対の性格が幸いして、私たちは最初から意気投合した。何でも一緒にする仲だった。
七海には学生時代から付き合っている、2歳上の戸田隆司という彼氏がいた。戸田君は都内にあるK大を卒業した後、横浜の外資系の会社に勤めていた。七海は大学を卒業すると1年ほど丸の内にある大手商社のOLをしていたが、3年前に商社を辞めて戸田君と結婚した。
戸田君の実家は浅草にある有名な老舗の佃煮屋さんだ。しかし、去年、戸田君の実家のお父さんが病気で倒れてしまった。お父さんが倒れたのを機会に、戸田君は家業を継ぐために会社を辞めて、七海と一緒に浅草の実家に戻ってきた。こういう訳で、七海は今は浅草の佃煮屋さんの若女将に収まっている。子どもはまだいなかった。
私は大学を卒業すると、池袋に本社がある商社に勤めていたが、2年前に当時の上司だった鈴木恭一にプロポーズされて結婚した。恭一は私より18歳も年上だった。恭一は都内に何千坪という土地を持つ大金持ちの一人息子だ。私は結婚後も仕事を続けたかったが、恭一の教師をしている両親が反対したので結婚と同時に会社を辞めて鈴木の家に入った。義理の両親が私たちの結婚祝いに成城のマンションを買ってくれたので、私と恭一はいま成城に住んでいる。私たちには、七海と同様に子どもはまだいない。
恭一は都内のT大を卒業した、いわゆるエリートだった。会社では同期で一番最初に部長に抜擢された。仕事一筋の男で、結婚後も毎日、深夜近くまで仕事をして、土曜も日曜も出勤というありさまだった。特に去年、新規プロジェクトのリーダーを兼務してからは、仕事は多忙を極めていた。恭一が新規プロジェクトのリーダーに抜擢されてからは、私は何カ月も恭一と身体を合わせていない。
私は子どもを作りたかったし、恭一の両親も事あるごとに孫の顔を見たいと迫るのだが、恭一は「親は早く孫の顔を見たいものなんだよ。気にすることはないよ」と言って取り合わなかった。私の気持ちも知らないで・・
「鮎美」
私は七海の声で我に返った。外の風向きが変わったらしく、今まで白いテーブルクロスの上で揺れていた緑の影が、七海の顔の上で揺れていた。
「セックスレスだったら、やっぱりお金で男を買うのが一番よ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます