4.高田馬場会
私は七海と高田馬場駅で電車を降りて、駅から続く山手線のガード下の通路に入った。昼でも蛍光灯を灯した薄暗い通路を抜けると、突然、明るい初夏の陽の光の中に出た。私の頭がくらくらした。
さっきから七海は押し黙ったままだ。私は七海についてきてしまったことを少なからず後悔していた。
今なら「私、やっぱり帰るわ」と言って、成城に帰ることができる。そう思ったが、成城には昨日の夜のような味気ない日常が待っているだけだった。その日常には改善される見込みは無いように思えた。私の前には永遠に『味気ない日常』が続いているようだった。そう思うと、「帰る」と口に出すこともためらわれた。
どうしよう・・どうしよう・・
迷いながらも私の足は、太陽の光の中をすたすたと歩き出した七海の後姿を追っていた。
眼の前に歯医者が見えた。七海は何も言わずに歯医者の前を右に曲がって歩いて行く。私も黙って七海の後ろをついて行った。少し歩くと質屋の看板が眼に入った。七海が看板の角を左に曲がった。そして、二、三分歩くと、私たちの前に何の変哲もない5階建てのくたびれたマンションが現われた。エントランスの横の壁に表札が掛けてある。銀色のプレートの上に『高田馬場ひまわりマンション』と書かれた黒い文字が浮き上がっていた。『高田馬場』の『高』の文字の左上が少し欠けていた。
七海はマンションの前で立ち止まった。
私はマンションを見上げた。昔はおそらく白壁の瀟洒な建物だったのだろうが、今は外壁がくすんだ灰色に変わっている。外壁のところどころに黒いシミのような汚れが浮いていた。いくつかの部屋のベランダに布団が干してあるのが見えた。すると、4階のベランダに主婦が顔を出した。そのベランダには洗濯物が干してあって、植木鉢がいくつか並んでいた。主婦が干した洗濯物を取り込みだした。主婦の疲れた顔が私の眼に入った。どこの階からか、テレビの声と赤ん坊の泣き声が重なって聞こえていた。
物憂い初夏の明るい日差しの中に生活の匂いがした。
七海がちらりと私に目配せを送った。このマンションが目的地のようだ。七海の眼が「いいわね」と言っていた。どうしようかとあんなに迷っていたのに・・七海の無言の声を聞くと、条件反射のように私は七海にうなずいていた。
七海が少し私に笑ってみせたような気がした。そして、七海は私に背中を見せると、何のためらいもなくマンションの中に入っていった。私も七海の後に続いた。エントランスの床には宅配ピザのチラシが散乱していた。エントランスには施錠はなかった。誰でも直接マンションの中に入っていけるようだ。昔の構造だった。
私たちはガタガタと少し揺れる狭い旧式のエレベーターで4階に上がった。七海は4階の通路を歩いて、406号室の玄関の前で立ち止まった。私も七海の横に並んで立った。表札はない。七海が玄関のインターホンを1回鳴らした。
406号室からは誰も出てこない。しーんとしたままだ。
私は「留守なんじゃないの?」と言おうとした。私の心の中に、留守であることを期待する私がいた。すると、七海が今度はインターホンを続けて3回鳴らした。それらの一連の動作が合図だったようだ。少しすると、ドアの内側でガチャガチャとチェーンを外す音がして、ゆっくりとドアが奥に開かれた。
中年の男がドアから顔を出した。ぼさぼさの頭に、あごには無精ひげを生やしている。40過ぎと思えた。男は七海を見ると、黙って奥へ引っ込んだ。ドアは開けたままだ。
七海と私は406号室の中に入っていった。家の中には何もなかった。がらんとしたリビングダイニングに入ると、食卓と安物の木の椅子が4脚だけ並んでいた。
七海は勝手知ったる様子で、椅子の一つに腰かけた。眼で私に隣に座るように促した。私が七海の横に座ると、奥から先ほどの男が出てきた。手にスマホを少し大きくしたようなタブレットを2つ持っている。男はそれを1つずつ私と七海の前に置くと、黙ってリビングダイニングを出て行った。
すると、七海が小声で「ちょっとお手洗い」と言って、リビングダイニングを出ていった。私は椅子に座ったままで、リビングダイニングの中をゆっくりと見わたした。生活の色がまるでなかった。おそらく、この406号室を事務所のように使っているんだろう。
七海がトイレから戻ってくると、私に小声で言った。
「さっきの男の人がオーナーの岩本さん」
「オーナー?」
「うん。『
「コウバカイ?・・コウバカイって?」
「『高田馬場会』を縮めて『高場会』。『高田馬場会』はね、男性を買う会社の名前なの。あっ、会社から見ると男性を売るか」
「それって、合法的な会社なの?」
「一応はちゃんとした会社組織になってるの。表向きは結婚紹介所だけどね・・・それより、鮎美、これでお相手を選ぶのよ」
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