縁側のあなたと

 県外の大学に進学して二年目の秋に、母から朝早く電話があった。父方の祖父が、半年の闘病の末に亡くなったという知らせだった。

 幼い頃に祖父と話したことはあまりなかった。けれど葬儀で親戚が集まる度、何かと動き回っていた人だとは覚えていた。孫として可愛がられた記憶は薄いものの、会えばお小遣いをくれる人だった。両親にも私の進学の時、お金のことは大丈夫かと訊ねていたらしい。


 私は夏休みの帰省の時に数回、両親と共にお見舞いに行っていた。痩せた顔にはとても驚いたが、病気の人を見るのはそれが初めてで、具合が悪くなっているのか、快方に向かっているのかも分からなかった。


 祖父は私の顔を見ると微笑んだ。孫が国立の大学に行った、というのが祖父の自慢だったらしい。私よりよほど勉強しているだろう看護師さんたちにまで、誇らしげにそう紹介した。

 難関校でもない田舎の大学なのだから、と私は内心で思っていたけれど、お金の心配をしていた祖父からすれば、多少なりとも学費の安い国立に行けたというのは大きかったようだ。


 そんな祖父が、大学に戻って一週間後にあっけなく亡くなったと聞いて、私は初めて呆然とした。

 今まで親戚の葬儀に何度も参加していたのに、私には人が死んだという実感がまるで無かったのだ。言葉を交わした事もない、棺の中で穏やかに眠っているような遺体に、周囲が涙を流す理由がうまく理解できなかった。けれどその時初めて、私は電話口で声が震えそうになるほど、悲しいと感じた。


 すぐに身支度をして、友人に忌引きの連絡を頼んで、実家に取って返した。そこからいつものように、車で二時間掛けて祖父の家に向かった。


 呼び鈴を鳴らすなり現れたのは、明晴あきはる叔父だった。以前会った時より更に髭を濃くし、頬が少しこけてやつれた顔になっていた。

 他の兄弟はみな家を出ていて、祖父の闘病生活を支えていたのは明晴叔父と祖母だけだったそうだ。何度も病院には行ったけれど、家には寄らず帰っていたので、その事は初めて知った。親戚は時々見舞いに来ていたが、遠くに住んでいては直接手助けできることは少ない。父は何も言わなかったが、葬儀で集まった親戚たちの会話を聞くと、祖父の病状について自分勝手な口出しをした人もいたようだ。


 喪主となった祖母は、しかしぐったりと落ち込んでいる様子だった。遺影を抱えて泣く祖母を周囲が慰めている中、明晴叔父は一人で葬儀のあれこれに走り回っていた。

 私はわけが分からないなりに葬儀の経験はあるので、母と共に出来る限りの手伝いをした。父も最初は祖母の側についていたが、やがて私と母に合流して、明晴叔父に少し休むように言った。


 この歳になれば、親戚が全て仲良くしているわけではない事は何となく察せられた。中でも明晴叔父は、祖母の家族と極端に仲が良くなかったらしい。それと言うのも、私が初めて葬儀に参加したあの時、亡くなったのは祖母の母親、つまりは明晴叔父にとっての祖母だったからだ。


 あの日、自分の祖母の葬儀であるにも関わらず、明晴叔父は火葬にも骨上こつあげにも参加せず、家に残ってお酒を飲んでいた。その上私を連れて花見に行った、という事まで知られていて、かなり反感を買っていたらしい。

 そもそもがこの家は父方の曾祖母の家だったのだ、という事さえ、私は初めて知った。


 明晴叔父は曾祖母とそりが合わず、しかも家での発言権は曾祖母が握っていて、幼い頃からかなり嫌な思いをしたらしい。兄弟である父や、他のおじやおばが執り成し、あるいは助けていたものの、ついに亡くなるまで関係は修復できなかったそうだ。


 話を聞いた私は、葬儀の日、お酒を飲みながら目を細めて外を見ていた叔父の横顔を思い浮かべた。

 悲しむでもないのにどこか寂しげで、でも人に声を掛けられるのを拒んでいたような、あの日の叔父。私が黙って隣に座っても、追い払うこともせず自分の思いに沈んでいた叔父。

 そして、戯れに私にお酒を勧めて、素直に受け取ろうとした私を、慌てた顔で止めた叔父。

 きっと叔父は、ほんの少し誰かに甘えたかったのだろう。


 葬儀がようやく終わり、親戚が次々と帰っていった後、私の家族は残る事にした。祖母と明晴叔父に休むように言い、一晩じゅう線香を焚く役を引き受けたのだ。


美祢みねも寝ていいよ。あなたは明日には帰らないといけないしね」

 母はそう言って私の背を押した。

「そうだな、美祢は学業優先だ。明日には駅まで送るから、朝一で戻りなさい」

 父もそう言うので、私は布団が用意されている一階の和室に向かった。


 古くて広い家は、親戚たちで埋め尽くされていた昼間の喧騒が嘘のように、暗く静かになっていた。私は何となく庭を見たくなって、広縁の方へと足を向けた。

 そしてそこで思わぬものを見てしまった。


 月明かりに白く照らされた広縁の真ん中に、明晴叔父がぽつんと座っていた。眼鏡を外し、庭を見るともなく眺めるその両目が、月光を受けてきらきらと光っている。よく見ると傍らには酒器が置いてあり、叔父はお猪口を持ったまま、疲れたように背中を丸めていた。

 その目の光が、ただ暗がりに煌々と浮かぶ満月のせいではなく、叔父が涙をこぼしているからなのだと気付いて、私ははたと歩みを止めた。


 近寄っていいのか、遠ざかるべきなのかも分からない。隠れて泣いているのに、私に見られたと気付いたら、叔父は取り繕って無理に笑ったりしないだろうか。

 そう思いながらも、私はそのまま放っておくことが出来なかった。

 なるべく音を立てないように静かに歩み寄り、叔父のすぐ隣に腰を下ろす。叔父は私に気付かなかったとは思えないけれど、視線をこちらに向けることなくそのまま泣いていた。


 私は何も言わなかった。言葉を掛ければ、叔父は返事をせざるを得ない。自分の思いを整理するのに必要な時間を、そんな風に邪魔するのは本意ではない。ただ、思いを全て分かち合う事は出来なくても、寄り添う人間はいるのだと伝えたかった。


 叔父はしばらく静かに涙を流し続けた後、ふうと息を吐いて、目元に残った涙をぬぐった。

 脇に置いていたらしい眼鏡を拾い上げ、掛け直すと私の方を向き、少しだけ笑った。


「こういう時、いつも側に居てくれるのは美祢ちゃんだね」

 そう言うと、叔父は私に手を伸ばし、床についていた私の右手を軽く握って持ち上げた。何をするのかと思ったら、叔父はその手にお猪口を握らせた。


「一杯だけでいい。ちょっと付き合って欲しいな」

 そう言って徳利を掲げる叔父に、私は軽く微笑み返した。

「いただきます」

「美祢ちゃん、もう二十歳になったんだっけ?」

 自分で言っておきながら、叔父はまた少し腰が引けたような顔になった。

「そうですよ。もう飲んでもいいんです」

「そうか。……嬉しいな」


 ふ、と本当に嬉しそうに笑うと、叔父は遠慮なくお猪口にたっぷりお酒を注いだ。

 一口飲んでみると、花のような香りと同時に、甘くて少ししょっぱいような味が口いっぱいに広がった。お酒を飲むのは初めてではなかったけれど、学生同士のコンパで飲むようなお酒とはまるで違っていた。少し温めてあるらしいお酒の、濃厚で華やかなその味に、爪の先まで熱が回るような感覚があった。


「美味しいですね」

「うん。美味しいんだ」

 眼鏡の向こうで、叔父はすうっと目を細めた。その目は幼い日にお酒を勧めて来た時と少し似ていて、けれどあの悪戯を企むような目とは違っていた。それはきっと、同じ時間を共有できる者を見つけた喜びと、私を見守ってきた叔父の思いが混じり合ったものなのだという気がした。


 私はお猪口を叔父に返すと、お返しに一杯お酒を注いだ。

 叔父は少し驚いた顔をしながらも、また嬉しそうにふっと微笑んだ。そして月を見上げながら満足そうにお猪口を傾けた。

 秋の夜は、そのまま誰にも、何にも掻き乱されることなく、静かに更けていった。

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