皐月の咲く庭

KaoLi

皐月の咲く庭

 私がと会ったのは、確か小学五年生の、五月中旬頃のことだ。


 その頃、私はひどくすさんでいた。大好きだった母親代わりの祖母が、病気で亡くなってすぐだったから、気持ちの整理もつかない状況での、父の仕事の転勤というダブルパンチで都内から田舎へと引っ越した時期だった。

 引っ越した先のその田舎は祖母と父の生まれ故郷だという。正直、どうでもよかった、そんな情報。私はそれよりも、そんなことよりも、「おばあちゃんが死んだ」という事実が受け入れられなかったのだから。

 私はいわゆる『父子家庭』で育つことになった。まだ物心つく前に母親は亡くなっていて、以来祖母が私の面倒を見ていてくれたのだ。そんな祖母はもういない。私は周りの同学年の生徒よりも早いうちから父に対して反抗期に入ってしまった。

 その日の私は小さな反抗として転校先の学校の授業をのだった。


 その日は、雨が降っていた。


 二軒先に、古いお屋敷がある。

 ふと、本当にふと、脳裏に浮かんだ言葉だった。

 この間、新しく転入したクラスの生徒が噂していたのを盗み聞きした。なんでもそこは、だそうで、五月にだけ現れる美しい女性が庭先にいて、屋敷の中へ招かれた者は神隠しにうという……そんな噂だった。

 私はその幽霊屋敷に興味本位で行ってみた。田舎ということもあって二軒先とてかなり距離があるのだけれど、その噂の古いお屋敷にはそれはそれは大きくて見事な庭があった。門前からは見えない場所が見たくて少しだけ歩くと、そこに私でもよじ登れそうな高さの塀が現れた。

 当時の私は庭のある家にとても憧れていて、その時何を思ったのか私は、気づけばそのお屋敷の庭をこっそりと塀に手を掛けて中を覗いてみた。

 庭を覗くと、たくさんのツツジが咲き誇っていた。とても綺麗な紫色の花びらたちが雨に濡れて甘い香りを放っていた。

 少しして、何かがおかしいと思った。どこからか”バツバツ”と、傘に雨が当たる音が庭の方から聞こえてきたのだ。このお屋敷にはひとはいないと聞いていたのに。私は急に怖くなって、その庭を覗くことを

 そう、止めようとしたのだ。

 の存在を見つけるまでは。


 ❀


 彼女は、なんだか時代錯誤の恰好をしていた。いや、時代錯誤と言ってしまうと少し表現が違うような気がするけれど、当時の私は「どうしてあのひとは着物を着ているのだろう?」と素直に思ったのだ。

 庭に咲き誇る、淡い紫色のツツジと同じ花の柄が刺繍された着物を着た、番傘を差す儚げな女性。そのひとは一点にツツジを見つめ続けていた。

 今日のところは帰ろう。私はまだツツジを見ていたかったけれど、あの女性が悲しげにしているのを見てしまうとその空間を邪魔してはいけないのではないかと思ってしまい、帰宅を決めた。

 帰宅後、きちんと父親に絞られたのは言わずもがなだ。むかつく。


 ❀


 その日は土曜日で、あの時に見た美しいツツジを忘れられなくて、もう一度見に行こうと思い外に出た。

 二軒先のお屋敷は、あの日には感じなかったけれど、やはり古いお屋敷ということもあってか、おもむきや威厳を感じて、なんだか怖いような気がした。

 そうして、あの日と同じように塀に手を掛けて庭を覗いてみればそこにはあの日にも見たあの女性が悲しげにツツジを見つめていた。目前で咲いている一輪のツツジはしおれているように見えた。


「そのツツジ元気ないの?」


 私は思わずそんなことを口走っていた。すると私の声が聞こえたのか、女性が私の方に視線を向けたのだ。数秒の沈黙、なぜだかその時間だけ私の周りの空気が重く感じた。その空気を壊したのは私――ではなく、例の女性だった。


「……ツツジではなく、これはというの」


 そのひとは、そう言った。

 凛としたたたずまいにピンと張った綺麗な声。時代劇に出てくるような、お姫様のような容姿をしたそのひとは悲しげに私に微笑んだ。私は無意識にこくりと喉を鳴らして、先ほど彼女が答えた”サツキ”という聞き慣れない言葉について聞いてみる。


「サツキってなに?」


 私が質問をすると、そのひとはゆっくりと目を見開いた。とても深い、まるで深海のような黒い瞳の色に吸い込まれそうになる。怖いとも思ったけれど、どこか優しさも感じるのは、彼女の纏う優しい空気のお陰だろうか。


「サツキは……ツツジの親戚のようなもの、でしょうか? ツツジよりも一ヶ月ほど遅く咲く花で……旧暦の五月頃に一斉に咲くことから、皐月サツキと呼ばれているのだと昔に聞いたことがありますけれど……」

「む、むずかしい! 急にむずかしいよ! えと、とにかくその花は、蜜の甘いツツジじゃなくて、サツキっていう別の花ってこと?」

「…………はい」


 しまった、と思った頃にはもう遅い。なんだか、心の壁を張られた気がする。

 少しだけ心を開いてくれたのだと嬉しい気持ちになったのに、これではまた振り出しだ。なんとも微妙な感情になった私がどんな顔をしていたのかは分からないけれど、その空気を察してか、そのひとがぽつりと呟いた。


「……わたくしの旦那様がお好きだった花なの……」


 消え入りそうなくらいに悲しげな声だった。彼女の旦那様は、多分さっき言っていただろう。私は、塀に登っていてあまり彼女の表情を見ることができなかったけれど、きっと彼女は泣いていると思った。


「……ねぇ!」

「……はい……?」

「お姉さん、お名前は?」


 私は彼女の名前を聞こうと声を張った。彼女は驚いた表情をして私を数秒間見つめた後、警戒心を解いたのか表情を緩めて私に名乗った。


「わたくしは……雨音初あまねはつ。……お初と申します」


 ❀


 どうやら着物のお姉さんは「お初」さんと言うらしい。

 今どき変な名前だと思ったけれど、こんな古くて立派なお屋敷にいるし、着物を着ている彼女はいかにも「お初」さんといった感じがして、きっとこのお屋敷に住むお嬢様なのだと聞いても驚かないくらいには美人さんだった。あの庭に咲く花がツツジではなくサツキだと教わった日の帰り、そういえばと思って門前にある表札を読んだ。そこにはお初さんの名字である「雨音」という漢字が書かれていた。


(すごいお金持ちのお嬢様なんだなあ……お初さんって)


 帰り際、羨ましいと思った反面、こんな大きなお屋敷にひとり暮らしている彼女のことを思うとどこか寂しいなと感じたのが私の率直な感想だった。


 それから会える日は毎日のようにお初さんに会いに行った。もちろん中に入るのは気が引けるから塀から話しかけるようにして。そうして彼女の話を聞くのが私の日課になっていた。お初さんはどうして私のような子供が自分の相手をしてくれているのだろうと思っていたらしいけれど、そんなことはどうだって構わない。私はただ、お初さんとお友達になりたかったのだから。理由なんてそんなもんで十分だ。


 今日は雨が降っていた。

 梅雨入り前ということもあってかこの時期はじめじめとしていて纏わりつく空気が重い。自然と気分も落ち込んでしまう。

 今日はお初さんが家の中に招いてくれた。少しだけ『幽霊屋敷』の噂を思い出して怖くなったけれど、私はお初さんともっと話がしたい一心で、その日お屋敷の中に入ってしまった。


 ❀


 お初さんの周りの空気は澄んでいて、そばにいるととても心地がいい。涼しくて心地いい不思議な感覚にいつも微睡まどろんでしまう。

 でも眠ってはいけない! 眠ってしまっては、帰りが遅くなってそれこそまた父に絞られてしまう。私は分かり易く頭を抱えた。それだけは勘弁だ。


「……? ……どうかされたのですか?」

「ううん。なんでもない。ただちょっと眠いなと思って」

「眠ってもいいのですよ?」

「そうしたいのは山々なんだけどね~。帰る時間が遅くなるとお父さんに怒られちゃうの」

「……時間になりましたら起こしますが……?」

「今寝たら起きれる自信無い」

「そう、ですか」


 お初さんは少し困った表情をしていた。それもそうだ。眠ってもいいと言っているのに、私がそれを拒絶しているのだから。

 それでも眠気はやってきて、私は強烈なその睡魔についに負けてしまった。

 うとうとと舟を漕いでいると、優しい手がそっと私の肩に触れた。ぽんぽんと叩くリズムが更に心地いい。でもどうしてだろう。その体温がじめっとしたこの気温を爽やかにしてくれているはずなのに、お初さんのてのひらは、なんだか冷たいような気がした。

 この掌を私は知っているような気がした。けれど、すぐにその答えが分かるはずもなく、私は深い海に意識を沈ませた。


 ❀


 ふ……と自然と目が開く。気がつけば周りは夕日が傾き始めていた。私は「わっ!」と驚いて勢いよく体を起こした。今何時だろう。私は焦って時計を探す。その瞬間、眠っていた場所が縁側だったこともあって私はバランスを崩しそのまま地面に転んでしまった。


「痛った~!」


 割と大声で叫んでしまった。これじゃあ近所迷惑じゃないか。思ったよりも声が出てしまって焦りよりも恥ずかしさの方が勝った。うぅ、痛い。盛大にをついてしまった。今日は雨は幸いにも降っていなかったので地面は濡れていなかったけれど、それでも若干服が汚れてしまった。これはこれでお父さんに怒られてしまうのだけれど……。

 そこでふと気づく。お初さんの姿がなかったのだ。起こしてくれると言っていたのに! と内心思いつつ、どこへ消えてしまったのか急激に不安になる。とにかく今は時間だ。腕時計をしていたのを思い出して、時間を確認する。時刻は夕方の四時半を回ったところだった。門限は五時なので、ギリギリセーフだ。私は安堵してほっと一息いた。


 お初さんを見つけるのにそう時間は要さなかった。


 お初さんは例のサツキの咲く庭に立っていた。オレンジと淡い紫のコントラスト。夕日が彼女を照らしており、その姿はまるで恋する女性のように美しかった。そういえばお初さんには旦那さんがいると言っていた。きっとそのひとのことを想っているのだろう。

 お初さんはとても旦那さんのことが好きなのだと私は思っていた。お初さんの口から話題が出る度に、彼女の頬は淡く赤らんでとても幸せそうな表情をしていたからだ。私もつられて嬉しくなって同じように笑った。でも、ふとした瞬間にお初さんの表情は曇ってしまう。それはいつだって同じとき――あのサツキの花たちを眺めたときだった。

 悲しくなるなら、見なければいいのに。

 私は素直にそう思っていた。けれど、その言葉をお初さんに伝えたらダメな気がした。

 あのサツキはきっと、お初さんと、お初さんの旦那さんを繋ぐ唯一の『糸』なのだ。その『糸』が切れてしまえば、お初さんは壊れてしまうかもしれない。そう思うと、怖かった。


(……まるで私みたいだ……)


 はたと気づく。

 私はきっと心のどこかで、お初さんのことをに重ねていたのかもしれない。大人の女性が近くにいなかったのも理由だと思う。けれどそれ以上にお母さんに焦がれていたのだ。どことなく記憶の片隅にあるお母さんの面影を、お初さんに重ねていたのだ。

 夕日が燃えている。そろそろ帰らなければ、門限がきてしまう。


「……そう……。、こんな、夕日が空を燃やしていた……」

「お初さん……?」


 お初さんは心ここにあらずであった。深海にも似た瞳に夕日が映っていても、その夕日はちっとも綺麗に見えない。夕日すらも凌駕うわがきするお初さんの瞳に、私は恐怖した。

 すべてを吞み込んでしまうほどの、悲しみ。

 背筋が自然と張る。寒気が足元から顔にまで一気に走る。初めての感覚に、私はいまにも泣き出しそうになった。けれどそれを我慢したのは、お初さんの心がきしきしと小さな音を立てて「痛い」と叫んでいたからだ。私が泣いてしまえば、お初さんが泣けない。そう思うと余計に我慢をしなければいけないと、私は口の端をぐっと噛み締める。

 まだ小学生、その「まだ」は、ただの逃げだ。


「あの日、陸軍少尉と名乗る男がこの家にやって来て、旦那様のことをお話に来たのだと仰っていたのに、それはすべて嘘でした……。最初から旦那様のことなど教えてくださるつもりがなかったのです。わたくしをするための口実だったのです。いくら旦那様をお呼びしても、嫌だと叫んでも、助けなど来るはずもなかったのです。ああ、どうしよう。たくさん、たくさん、悩みました。死のうとも、考えました。けれども、いざ包丁を手首にかけたときに、思いとどまるのです。わたくしの腹部ここには、のだと……」


 お初さんは、優しい掌でお腹部分をゆっくりとさする。きっと、その当時は子供がいたのだろう。

 望まない妊娠だ。大好きな旦那様と結ばれたはずなのに、その間には子供を成せなかった。不幸にも、彼女は知りもしない男との間に子供を授かってしまったのだ。まだ小学生であった私にはその苦しみや重圧がどれほどのものか理解できなかった(というか理解することは失礼になるとさえ思った)。


「お初さ…………っ!」


 私はお初さんに近づこうとして手を伸ばした。けれどそれは届かなかった。なぜなら、お初さんの足元をどこから湧いたのか火が揺らめき始めたからだ。熱い! 夢ではないことは理解できた。でもどこか夢のような感覚が抜けずに私は驚いてその場にをついた。


「わっ!?」


 痛みよりも驚きの方が強かった。この揺らめく赤紫色の炎は、まるでお初さんの悲しみを表しているような気がして、私は思わず息を呑み込んだ。


「なのに、わたくしは、わたくしは……あぁあぁぁぁああ……っ」


 お初さんの、泣き声が、悲鳴が、炎の中から鮮明に聞こえてくる。

 どれほどの心労だっただろう。

 どれほどの重圧を抱えていたのだろう。

 まだ子供だった私には皆目見当もつかなくて、彼女を癒すこともできなかった。そんな自分が歯痒くて情けなくて、私は悔しくて泣いた。

 炎は収まる気配が無い、むしろ、勢いは増すばかりだ。


「……ごめん、なさい。ごめんなさい……っ。……。わたくしは、わたくしだけが、死んで楽になろうと……! ……けれどそれは、逃げなのよ……旦那様に、なんとお詫びすれば……」


 この時、私はお初さんの言葉に違和感を感じた。彼女は今『皐月』という名前を呟いた。その名前に、心当たりがあったのだ。思い出せ。そうだ。ここは父親の故郷だ。父の名前も、確か『』という。


「……皐月って、お父さんのこと……?」


 私は独りごちる。その声が届いたのかは分からないけれど、炎に包まれつつあったお初さんと視線が合った。お初さんの目は、悲しみと驚きに支配されていた。

 父は、自分の名前があまり好きじゃなかった。女のようだと揶揄からかわれた時代があったからだという。しかし、完全に嫌いという訳でもなかったらしい。それは父のだと、どこかで聞いたことがあった。

 私はハッとした。すべての点が線となった。そんな気がした。

 炎は舞い上がる。辺りのサツキを巻き込んで、轟々と燃え上がる。熱いのは夢じゃない。でも、やっぱりどこか現実味がない。

 そうだ、この炎は、お初さんの憤りなのだ。お初さんの、当時の感情が心の奥深くで渦巻き続けて、それが暴発したのだ。

 止めなければ。彼女を、彼女の心を少しでも、救いたい。

 私は気がつけばお初さんに向かって走り出していた。熱いけれど、服が燃えるほどじゃない。これはだ。行ける! 私は「せーのっ!」と勢いつけて炎の渦の中心に向かって飛び込んだ。作戦は無事に成功し、私はお初さんに抱きついた。お初さんは泣き止んで私をただ見つめた。


「さ、皐月さん、は! そんなこと、思ってないよ!」

「……?」

「お初さんが、逃げただなんて、そんなこと思ってないよ!」


 そう。思っていない。思っていたとは……聞いていないから、うん、大丈夫。嘘は言ってない。私は必死になってお初さんを説得する。

 少しして、私の説得が効いたのか、炎が鎮火していった。お初さんは私を優しく包み込むようにして抱き締めた。ふわりとサツキが香る。とても落ち着く香りだった。まるでお母さんのようだったけれど、どこかぎこちない。その温もりに今度は私が泣きそうになったけれど今は、我慢、我慢。


「……ありがとう、もう、大丈夫よ……。……伝えてくださいますか……? ――――って」


 お初さんが何かを言っている。そんな気がしたけれど、私は微睡んできてしまってその言葉を最後まで聞くことができなかった。待って、待ってよ。その言葉、私じゃなくて、直接言ってあげてよ。


 私の言葉は――届くことは、なかった。


 ❀


 ハッと視界が広くなって、ああ、私は起きたんだとやっと気づく。外は暗くなっていた。時間を確認すると思っていたよりも過ぎていて、現在夜中の二時。こんな時間まで外にいたことなんてないし、家に帰らなかったこともない。流石にやばい。私は顔色を真っ青にして(たぶんなっていたと思う)、勢いよく起き上がった。


「……めい? 大丈夫か?」


 ふと、目の前から男性の柔らかい声が聞こえた。この声には聞き覚えがあった。


「お父……さん」


 父は私のことをぎこちなく抱き締める。不器用なひとだ。こういう風にしか感情表現をしない。でも、私は知っている。お父さんはこういうひとだ。

 不意に、お初さんのことを思い出した。彼女の抱き締め方は、柔らかくて優しかったけれど、どこかぎこちなかった。


「大丈夫そうだな。家に帰ってないから、心配した。学校に問い合わせてもいないというし……。こんなところで寝てるなんて思わなかったが」

?」


 父が私の背後を指差した。私はつられて後ろを振り返ってみると、そこは自分の家の小さな庭先だった。……嘘だ。さっきまで、私は、あの美しいサツキの咲く庭にいたはずなのに。すべてが幻だったというのか。


(あの熱さも、温もりも? 全部?)


 私はなんだかやるせない気持ちになって、ついに涙腺が崩壊した。反抗期なんて関係ない。私はお父さんの胸元に顔をうずめて泣いた。お父さんは最初手の行き場がなかったのだけれど、ゆっくりとその手は私の頭に移動した。その大きな掌の温かさに安心して、もっと泣いた。

 こんな時間まで、探してくれたのだ。心配してくれたのだ。

 不器用な父と娘で何が悪い。


 ――「戻ったら伝えてくださいますか……?」


 ふと、お初さんの言葉が私の脳内に浮かんだ。鼻水を垂らしながら私は顔を上げる。私は今どんな表情をしているのだろう。分からないけれど、お父さんは涙を親指の腹で拭ってくれたから、それでいいと思った。


「……お父さん、あのね」

「ん?」

「たぶんね、私ね、お父さんのお母さんに逢ったよ。……逢ったんだよ……っ」

「めい?」


 お初さん、言ってたよ。

『皐月、愛してます、何よりも』って。

 言ってたんだよ。


 うわああん。私は我慢できなくてまた泣き始めた。それでもお父さんに、お初さんの気持ちを伝えることができたから、もうそれでいいと思った。

 望まない妊娠だったのかもしれない。不安で圧し潰される毎日だったのかもしれない。何度も、何度も、逃げたかった。

 それでも。

 逃げようとして逃げなかったお初さんは、最強だ。

 お父さんは小さく「そうか」と独りごちた。その声は少しだけ震えていて、私を抱き締める力がぐっと強くなった、気がした。


 ❀


 あとで知ったことだけれど、お父さんの旧姓は『雨音皐月』だった。これで確定だ。お父さんはお初さんの子供だった。私が夢に見ていたあの場所は昔、お父さんがお初さんと暮らしていた、お初さんの実家跡地だったらしい。

 後日確認しに行くとお屋敷はすでに更地になっていた(もともと更地だったのだろうけど)。『二軒先の古いお屋敷事件』はこれで終息を迎えたに違いない。

 おばあちゃんの昔の写真を見たくてお父さんにわがままを初めて言った。お父さんは財布から一枚の写真を取りだして私に見せてくれた、それはお初さんと写っている写真だった。この写真を撮影したころ、が好きだったという『サツキ』の花の名前をつけてもらったんだと、お父さんは話してくれた。


 もうあの場所に噂のお屋敷はないけれど、サツキが咲くころに彼女に逢いに行こう。

 彼女と、彼女の大好きなひとが大好きなサツキの花を供えるために。

 彼女の心が少しでも、浮かばれるように。

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