風吹く前に羽を毟る

目々

折られた釘の腹いせ

 赤黒い擦り傷に覆われた掌が開けたばかりのレモンサワーの缶を払い倒した。


 机の上に盛大にぶちまけられたサワーは一口も飲まれなかった不平を訴えるようにぶつぶつと泡を弾けさせている。


「炭酸ってこぼすとうるさいんだな」


 兄は呑気なことを言いながら、缶を払ったのと同じ掌で布巾を掴み、平然と机を拭っている。

 兄が突飛なことをするのには慣れている。昼食用に作っていたカップ焼きそばを突然に引っ繰り返したり、写生大会のためにと研いで揃えていた鉛筆の芯を筆箱に詰める直前で丁寧にへし折ったり、盆の墓参りで供えた花を花立ごと放り投げたり──前科はいくらでも挙げられる。

 当人に聞いても理由は判然としない。謝罪の意らしきものは毎度律義に口にするし、他人に対して怪我をさせるような真似はしないのだから尚更不思議だ。それでも不注意は自身にも相応に牙を剥くようで、体の端々には細かな傷痕や生傷が刻まれている。目立つ掌の傷についても、最近ブロック塀にぶつかったと言っていたような記憶がある。

 積極的に、意識的に害を為すような人間ではない。それでもやはり突発的に理解不能な行動を起こす人間と親しく付き合おうとする他人は皆無だ。当然のように友人はいないが、本人にそれを苦にする様子はない。衝動的に起こる奇行以外は至って平凡──それどころか勉強と仕事はよくできる方だ──なのだから、存外に生活に破綻をきたしてはいない。自分の食い扶持を稼げているうちは世間というのは個人に対して無関心でいてくれるものだ。

 飲もうと思っていた缶チューハイを引っ繰り返された身としては、いつもの奇行と見逃すわけにもいかない。


「何でこんなことしたの。いつも同じこと聞いてるけど」

「俺がこの酒を引っ繰り返さなかったらだ、お前飲んだろ、これ」

「……そりゃあね、飲むために開けたものプルタブ」

「レモンサワーを飲んで、ご機嫌になって、じゃあ寝るぞってふらふら登った階段転げ落ちてお陀仏」


 低い声で述べられた言葉は台本でも用意されているかのように滑らかだった。


「え? 何今の」

「レモンサワー飲んだらどうなるかって話。お前が」


 それ以上の説明をする気はないらしく、兄は黙ってつまみ代わりの唐揚げを齧っている。俺はと言えば唐突に投げつけられたうわごとの処理に戸惑って、無事だったりんごサワーの缶を握ったまま兄を見つめていた。


「俺が落ちるの? 階段をさ、ドラマみたいに」

「飲むと落ちる。俺はそれを知っていたから飲ませなかった。だから落ちない」


 覇気のない、気怠くすらある口調。それなのに妄想と一蹴するには躊躇われるような確信が滲む、断言に近い気配を感じて俺はたじろいだ。


「……予知能力とかあんの?」

「分からん」


 コップに注がれたまま放置されていたのだろう、泡の消えたビールを飲みながら兄は答えた。


「たまにそういうのが分かる。だから、その場面に繋がりそうなものを欠落させる──そうすると、そこには行き着かずに終わる」


 ふらりと黒目の焦点が一瞬ずれて、顔色の変わらない兄にも酔いが回っているのが分かる。ならば先程の一言も含めて、この語りは酔いに任せてのでたらめなのだろうと、俺は常識的まともな理由を得て安堵する。

 妄言に真っ当に付き合うことはない。これまでの突飛なあれこれと同じことだ。適当に相手をして、冗談にしてしまえばいい──少なくとも俺はそうやって兄と暮らしてきて、それなりに上手くやってきたのだ。


 どうにもそのうわごとが描いた情景が鮮やかに脳裏に浮かんで、俺は兄の目を見つめる。


「頭がおかしいと思っているだろう」

「そりゃあ……身内じゃなかったら何とか逃げようと考えるとこだよ。怖えし」

「正しい反応だ。俺もそう思う」


 兄がこちらを見る目を細くする。その表情が妙に穏やかなのは、理解を求める気が端からないからだろう。理解してもらう必要がないから説明をしないのか、説明ができないから理解されることを諦めたのかは分からないが、どちらにしても俺には兄の考えていることを知るすべがないのだ。


「起きなかったことを証明する手段はないからな……そうだな、これくらいか」


 長い指先が首筋を叩く。蠢くさまにどことなく蜘蛛を連想して、俺は一瞬目を逸らした。


「俺はお前にレモンサワーを飲ませなかった。結果、お前は階段からは落ちない。そうだな?」

「まだ分かんねえけどね。俺起きてるし、階段登ってないから落ちてない……いやまあ、気を付けようとは思うよ」


 兄は真顔で深々と頷いてから、囁くような声で続けた。


「回避された──実現さえらばれなかった事象は傷を残す。存在できずに消えていくことへの抗議のようにな」


 人を過去帳扱いしやがると、兄の指先は見慣れた白い傷痕を撫でる。日にも灼けずに攣れたような首元の傷は、俺が中学に入った頃にはもうついていた筈だと記憶を探る。

 学校指定の制服、その夏服の白シャツ。衿の陰から覗いていたのを見たのだと──


「この傷はな、お前が部活の先輩に刺され損なったときのだな……回り回って、俺が草刈りをしくじった」


 あの時は靴紐を抜いたんだっけと懐かしそうに語る兄から、俺は視線を逸らす。


「……どういう仕組みなの、それ」

「知らん。そうなってるんだから仕方ない。俺には理屈も意味も分からん」


 とりあえずお前が無事だからそれでいいんだと言い切って、兄はうっすらと笑みを浮かべた。

 正気とは思えない。どう聞いても妄想狂の戯言だ。実際起こっていないことを防いだなんていうものは証明できないのだから、そう切って捨てられても仕方がないと、兄自身が言っている。

 悪趣味な冗談だと笑い飛ばせばそれで終わりになるはずだと、俺も兄さえも分かっているのだ。


 微笑みの形に歪む上唇、そこにくっきりと浮かぶ傷痕は果たしていつからあったのかを俺は必死で思い出そうとしている。

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