真夜中を飲みこんで

三木冬親

真夜中を飲みこんで

 二十三時十五分。お隣さんの安眠妨害にならないように静かに、単身アパートの玄関を開けた。


 仕事終わりの解放感なんてない。

 今日必ずやるべきことはこなしたが、日毎に迫ってくる納期や、払っても払っても積もってゆく塵みたいなタスクを思いやれば、脱力感が体を満たすだけ。


 どう考えたってブラック企業、労基に訴えれば即座に立ち入り調査が入るだろう。ストックホルム症候群って言うんだって。死んだ目の先輩がぼやいていたのを思い出す。元々は、銀行強盗の人質たちが、犯人たちに奇妙な絆を感じてしまい、被害者であるにも関わらず、犯人たちを庇うような言動をとってしまう心理状態のことを言うらしい。


 なるほど確かに、私たちは会社の人質だと納得したものだ。

 会社に身を捧げることに、いっそ連帯感を感じてしまっているのかもしれない。


 しかし、魂を会社に握られている私でも、死に体の先輩を置き去りにしてでも、日付が変わるまでには帰宅するようにしていた。


 小さな丸テーブルの上でタブレットのスリープを解除する。お気に入りにしている動画投稿者のページをチェックする。


“まよなかオカメちゃんねる〜日付変更までおしゃべり〜“23:30〜配信予定


 今日もあった。これを試聴することが自分に許している、毎日のささやかな楽しみだった。

 まだ配信開始までは十分以上ある。動画を試聴待機にしておき、キッチンへ向かう。

 ケトルでお湯を沸かす間に、牛乳をレンジで軽く温めておく。コーヒードリッパーに、フィルターをかさこそとセットする。

 レギュラーコーヒーをスプーン一杯入れて、沸いたばかりのお湯を丁寧に注ぎ入れると、たちまち香ばしい香りが広がった。鼻からすうっと香りを吸い込み、ふっと吐く。呼吸をする。ようやく息継ぎができた金魚のようだ。私は、コーヒーを飲むよりも、コーヒーを淹れる時間の方が好きかもしれない。仕事を辞めたら、バリスタ目指そうかな、なんて冗談みたいに考える。


 ドリップし終えて、温めた牛乳を注いで丸テーブルまで戻った。

 二十三時二十九分。三十分。

『みなさん、こんばんは、お疲れ様。オカメです。今日も日付変更までおしゃべりにお付き合いくださいねー』


 −こんばんは

 −今夜も聴きにきました

 −十二連勤でしにそうです。今日もオカメボイスで癒してください


 動画配信者のオカメさんの第一声とともに、チャット欄にコメントが流れていく。今の視聴者数は私を含めて八人。多くても三十人くらいの視聴者数だが、固定客ばかりで、知る人ぞ知る隠れた名店的な雰囲気だ。ものすごく面白い話とか、役に立つ話をする訳ではないのだが、柔らかいハスキーボイスと、嫌味のないトークが彼女、オカメさんの売りだと思う。


 私は、ささっと画面をタップしてコメントを打ち込んだ。


 −今夜もカフェオレ飲みながら聴いてます。オカメさんの声癒されます


『あっ、かへおれさん、またこんな時間にカフェインですか?眠れなくなっちゃいますよ』


 −熟睡しちゃうと明日仕事起きれないんでちょうどいいんですよ

 −さすがかへおれさん社畜の鑑

 −ハイボール片手に見てます〜

 −エナジードリンク飲みながら会社で見てます!


 オカメさんがコメントを拾い、他の視聴者が茶々を入れたり、平和に時が流れていく。私は積極的にコメントをする方ではないのだが、たまに何か喋ると、オカメさんもちゃんと覚えていてくれたり、居心地がいいのだ。


 それから、視聴者がオカメさんに質問をしたりして別の話題に移っていき、オカメさんの声を聞きながらぼんやりと画面を眺める。


 今はいつなのだろう。今日と明日のあわい。


 −オカメさん、私もペット飼いたくて、オカメインコかセキセイインコでまよってるんですよね

『チーかまさん、いいですね! 私はもちろんオカメ派ですけど、セキセイもいいですよ』

 −ペットいいな。でも一人暮らしで日中構えないからなぁ

『オカメちゃんは繊細なので、飼いやすさで選ぶならセキセイインコがおすすめですかねー』


 息ができるようになってくると、日中は慌ただしさで沈んでいた靄が、底からぷくぷくと浮き上がってくる。

 こんな日がいつまで続くんだろう。何か、間違っているんじゃないのか。

 大事なものをぽろぽろと落とし続けている気がする。だけど、落としたものを、失い続けていることを後ろを振り返って確かめる勇気はない。


 オカメさんの動画を見にきている人たちは、私と似ている気がする。

 私だけじゃない。日常のわずかな隙間に身を寄せ合って、その場凌ぎの安心感を得たいと思うのは。


 −あ、そろそろ24時きますね。

『ほんとだ。いつも言いますがみなさんとお話ししているとあっという間です』

 −このチャンネル見ないと眠れない体になっちゃったぜ

 −明日も仕事か…もう数分後には明日なんて絶望


『みなさん、今日もお疲れですね〜。毎日一生懸命頑張っている人たちは、本当にすごいです。その頑張りは、必ず誰かがみてくれていますよ〜』

 −うんうん、みんなエライ!


『ちょっと失敗したな〜って思っても大丈夫!今日は今日、明日は明日の風が吹く!ですよ』


 二十三時五九分。

 明日、同じ時間に同じパンプスで、同じようなメイクで会社の門をくぐるのだとしても。

 昨日と今日、そして明日を越えていく実感を得るための、儀式みたいなルーティーン。

 甘くぬるいカフェオレに混じった苦みを飲みくだしながら、祈るように心の中で呟く。


 今日は今日、明日は明日。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

真夜中を飲みこんで 三木冬親 @avonlea

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ