第33話 熱中症にはご注意を⑤

 姿見で帯の位置を調整する。


「……よし」

 浴衣を着るのは初めてだったが、母さんの着付けの経験と動画のおかげでなんとか着ることができた。


「着たよ」

 襖の向こうのリビングで待っている日照雨そばえさんに声をかける。

「はーい、意外と早かったね」

 声が返ってくる。僕たちを隔てているからか少し声がこもって聞こえる。


「開けていい?」

「あぁ、いいよ」

「楽しみだなー」

「過度に期待されるのは困るな」

「開けまーす!」


 日照雨さんの掛け声とともに3枚ある襖の1つがゆっくりとまるで摩擦がないと勘違いしてしまうほど滑らかに横に流れる。


 日照雨さんの視線が僕に注がれるのを感じる。

「……」

 まるで何かの審査員のように頭から爪先つまさきまで見ていないところを潰すように彼女の目線が上下に行き来する。


 満を持して彼女は口を開く。


「……いい」

「え?」


「かっこいい!! すごい!! ひぇーーどうしよう!?」

 日照雨さんは手をバタバタと動かしてその場で足を動かして右往左往している。


「ちょ、ちょっと落ち着いてよ」

「こんなの落ち着いてられないって! すごい、すごいよ!? 天空くん!」

「語彙が大変なことになってるよ……」


 かっこいい。

 かっこいいね……


 姿見でもう一度全身を確認する。

 自分でも似合っているとは思う。


 青みががった薄い灰色の浴衣。

 まるで僕のために作られたのではと錯覚してしまいそうになるほどサイズもピッタリで着心地も悪くない。


 鏡越しにシャッターが次々切られる音が和室に響く。

「何、してるの……?」

 僕は恐る恐る振り向く。


「え、見てわからない? 写真撮ってるの」

「いや、うん……。それは知ってる。僕が聞きたいのはなんで撮っているのかだ」

「なんでってそんなに天空くんの浴衣姿を私の秘蔵コレクションに納めるためだよ!」

 食い気味に言葉を被せてくる。それにさも当たり前かのように言われても困る。


「秘蔵なのに本人に言っちゃっていいのか……」

 僕の言葉は彼女に届くことはなく、ぶつぶつ何かをつぶやきながら写真を撮っていく。


「うんうん。いいよー! かっこいい! 今度は目線をちょっと外して撮っていい?」

「もう好きにしてくれ……」

 浴衣を貸してくれた手前この撮影会を中断するのも少し憚れる。

 そして、興が乗ってきた自分がいるの確かだった。


 人に褒められるというのは――うん。気分がいいものだ。

 カメラマンが写真撮影のときに被写体のモデルを言葉巧みに褒め称えている意味が今ならわかる。


 自然とポーズを取りたくなるし、表情も作りたくなる。


 僕は頭のなかにある浴衣姿のモデルのように体を側面をカメラに向けて、目線を意味ありげに下げてみたりする。

「そのかっこつけてる感じいいよ!」

「馬鹿にしてないか?」

「してないしてない! ほらもっとポーズ取って!」

 まだ撮るのか……。


 写真は撮られ慣れてないからポーズと言われても困る。

 だが、浴衣を着たときにやってみたかったことはある。

 それをやってみるか。


 正面を向き直す。

 大きく空間が空いている浴衣の両袖に腕を通す。

「お、おぉ……こ、これは……ぐふぅ……」

 スマートフォンの向こう側にいる彼女は言葉にならない言葉を発している。

 今まで以上にシャッター音が切られている気がする。

 てか、連写してるだろ。


「天空くん、そのまま下向いてみて」

 指示に従い、下を向く。

「そこからゆっくり目線上げて! あ、腕は袖に通したままね!」

 怒涛のシャッター音が鳴り響く。


 急に冷静になってきた。

 ダメだ。このままだと羞恥心で僕がつぶれる。

 ここは耐えろ。

 日照雨さんだってもう人様には見せられない醜態を晒しているんだ。


 死なばもろともだ。この事実は墓場まで持っていて、一緒に燃やしてもらおう。



「あぁ~! かっごいい……」

 日照雨さんの目が今にも落ちてしまいそうなほどとろりと溶けており、頬はゆるみまくっている。

 スマートフォンをスクロールする手は止まる気配がない。

 一体何枚撮ったんだ……。


「随分と僕の浴衣姿がお気に召したようだな」

「べ、別にそんなことないけどっ!」

「それは流石に無理があるって……」

 今更ツンツンしてもデレが出すぎて相殺できないぞ。


「日照雨さんは浴衣、着ないの?」

 スクロールする手を止めて僕をフィルターなしで見る。

「今日はね」

「ふ~ん」

「そんなに私の浴衣姿見たいの~?」

「まぁそれもあるけど、痛み分けってやつだよ。僕だけ不公平だろ」

「七夕当日は着てくるからさ、その時にいっぱい写真撮ってよ。同級生の浴衣姿――いや、こんな可愛い同級生の浴衣姿がアルバムに残るなんて天空くんは幸せ者だね!」

「相変わらず自己肯定感が高いことで」


 僕は意外と自分の気持ちを伝える。

 それがポジティブなものなら。


 "力"を自分に作用させることはできない。

 僕は自分の感情を天気のように浮かび上がらせることはできない。


 僕の感情は僕が決める。


 言葉にして初めて自分の感情や思っていることが本当に明らかになる気がする。


 だから僕は言葉にする。


「どうせ写真を撮るなら――僕は2人で撮りたい」


 彼女のスマートフォンを操作する手がピタリと止まる。


 写真を撮りたいなんて思ったことがこれまであっただろうか。


 僕の日常に切り取りたい瞬間も残したい景色なんてなかった。


 でも、今は違う。

 君の感情がわからないくせにパラパラとページをめくるようにころころ変わる表情も。

 君のその暖かい眼差しも。


 その瞬間で終わらすなんてもったいない。

 その瞬間を僕は永遠にしたい。


「……うん。私も天空くんと2人で撮りたい」


 日照雨瑞陽の顔は彼岸花のようの赤く染まっていた。

 それと同時に頭上の太陽が彼女を飲み込まんとするほどに膨れ上がり、陰を落としていた。


 今はその事実からは目を逸らしたい。


 日照雨さんはえへへと笑ってからスマートフォンへ目線を移して、色々な操作を行っている。


「元気そうで安心した」


 僕の言葉が弛緩した空間を切り裂くように流れる。


 彼女の手が止まる。

「え、天空くん急にどうしたの? 元気そうでって私のこと? もーやだなぁ! 私はいつも元気いっぱいだよ!」


 誤魔化すように笑顔を浮かべ、腕に力を込めて、力こぶを作って見せる。


 やめてくれよ。

 そんな風に誤魔化すのは。


 僕にはわかるんだ。

 彼女の頭上に一瞬だけ雨が浮かび上がったことが。

 そして、君が虚を突かれたような顔をしていたことが。


「君が僕に言ったんだろ。観察力がすごいって」

 日照雨さんは答えない。

「この前の3連休」

 その言葉に彼女の体が一瞬だけ動いた。


「はぁ……やっぱり天空くんの眼は騙せない、か……」

 観念したような表情で息を漏らす。


 僕は声を張り上げて彼女に問いかける。

「やっぱり君は――」

「ごめん」

 僕の声を制するように声を被せる。


 彼女の声はこれから僕が繋がうとする言葉を拒絶する明確な意志を持っていた。


「ごめん。天空くんには話せないんだ」

 力の抜けたしなびた向日葵のような笑顔。

「……」


 壁。


 目には映らない壁が僕と日照雨さんの間には確かに存在している。


 僕はこれ以上踏み込めない。

 喉が急速に引き締まって声が出ない。


 あまりにも長く感じる静寂。


 クーラーは問題なく動いているはずなのに汗が噴き出て不快感が全身を駆け巡る。


「天空くんの言う通りさ、正直元気はなかったよ」


 日照雨さんの声が静寂を引き裂く。


「でも、天空くんと一緒にいて話したら元気出てきた! だからさ――安心してよ」


 まただ。

 向日葵は決して上を向くことはない。

 まるで太陽に熱せられすぎたかのように力のない笑顔。

 太陽がすぐそばにいるのにどうしてそんなに萎れているんだ。


 日照雨さんは踏み込まれたくない領域があるときにはこの表情をする。


 それでも。

 嘘を――ついているようには見えない。


 ――そっか。なら良かったよ。

 ありきたりな何の慰めにもならない言葉が口から出かかる。

 そんな自分に嫌気がさす。


 どうして君は僕を最後まで頼ってくれないんだ。

 僕には話してくれよ。


「どうして」

「え?」


 心の奥底に芽生えた黒い感情がふつふつと沸きあがり、形となる。


「どうして君は僕を頼ってくれないんだ。僕と日照雨さんは協力関係じゃないのかよ!!」


 さっきまでの弛緩した甘ったるい空気が流れていた部屋が夏の爽やかな青色の空に灰色の雲が覆うように一変する。


「違う。違うの天空くん……」

 左胸を強く握りしめて日照雨さんは声を絞り出す。

 眉間に少ししわを寄せながら目に涙を浮かべるその苦しそうな表情。


 それが僕を刺激する。


 無力な僕を浮き彫りするんだよ。


 そして、空を覆った雲はやがて雨を降らす。


「何も違わないんだよ……」


 水を含んだ雑巾がきつく絞られて水が抜けていくように喉が締め付けられて、乾ききって、言葉が突き刺さる。


 それでも一度決壊した堤防は修復することはない。

 溢れてしまった言葉はとどまることを知らずに勝手に流れ出ていく。


「僕は……僕は!! 全然君の力になれてやしない! 君の太陽は今も君を喰らうい尽くす勢いで膨れ上がっているのに! 僕はただそれを眺めているだけで……」


 空虚な叫びがただただ反響する。

 僕は日照雨さんがどんな表情をしているかわからない。


 自分の言いたいことを言ったとき、それを相手がどう受け止めるのかまでの責任を言い手は負うべきだ。


 でも、今の僕にはそれができない。

 自分に失望する――無責任な奴だと。


 日照雨さんから言葉が返ってくることはない。


「はぁはぁ……まだ……だめ。もうちょっと……だけ……」


 ただ僕の鼓膜を揺らしたのは荒く苦しく今にも途切れそうな呼吸音。


 そこでやっと気づいた。


 顔を真っ赤にしながら左胸を抑え潰すように強く握りしめる彼女に。

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君の太陽を恋心で燃やしてしまいたい モレリア @EnEn-morelia

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