君の薬指は蜜の味
樒キョウカ
第1話
「
陽も落ちかけた放課後の、誰も使うことの無い空き教室の片隅にて、二人の男女が向かい合う。
床に座り込む冷めた目の少年に対し、長い黒髪を垂らした少女は上気した表情で四つん這いになりながら少年へと近寄った。
「俺に断る選択肢は残ってるのか……?」
「断った場合は……そうね、私と貴方の社会的地位の差を利用させて貰うことにするわ」
それは暗に『社会的に殺されたくなければ言うことを聞け』という脅迫に他ならなかった。
その言葉を聞いた少年も、じゃあ最初から聞くなよと呆れた顔を浮かべて溜息を吐く。
「ほら、好きにしろよ」
少年は当初より数段冷めた目で左手を少女へと差し出し、男にしては少し細いその指を、少女はうっとりとした目で眺める。
「失礼……しま、す」
少しばかり緊張した面持ちで、少女はその左手を割れ物を扱うように両手で包み込んだ。
掌、手の甲、指の一本、関節の一つ一つを愛おしそうに撫で回した後に今度は頬擦りをし始める。
「……」
「はぁ……ふふっ」
随分と前戯をしっかりやるタイプなんだなコイツ、等と一周回って落ち着いた状況分析をして現実逃避をしている少年を尻目に、少女の興奮は更に高まり、艶かしい吐息を混じらせながら遂にその蕾のような口を開く。
「いただきますっ」
少しばかり弾んだ声を出しながら少女は少年の薬指に狙いを定めて、その指をゆっくりと咥える。
「うわぁ……」
「かぷっ、ん……んあっ」
爪の先から第一関節、第二関節と奥まで咥えた少女は時折、淫靡な喘ぎ声を漏らしながらうっとりとした顔で更にその指を堪能していく。
完全にドン引きした少年の反応すら無視し、その舌は指の腹から関節の小さな皺の一つ一つを確かめるように舐め回し堪能する。
そして一頻り弄んだ後、ちゅぱっと湿りを帯びた音を立ててその指から口を離した。
「んっ……ふぅ、ご馳走様でした」
「お粗末様……で合ってるのかコレ」
満足気に微笑む少女に対し、少年は直ぐにポケットからハンカチを取り出して少女の唾液で染まった指を拭った。
その迅速な行動に少女は可笑しそうに笑う。
「そこまで冷めた行動をされると、流石の私でも少し傷付くのよ?」
「どの口が言ってんだ」
「この口よ。さっきまで貴方の指を咥えていた学年一の美少女の口」
そう言って指で妖艶に唇をなぞる様は同級生からすれば垂涎の光景なのだろうが、そんな事は少年にとって関心の外、どうでもいい事だった。
「じゃ、用も済んだし帰る」
「私も青天目君と一緒に帰ろうかしら?」
「絶対にやめろ」
少年、
この女と共に帰っている様を同級生から見られた場合、次の日から自分の始まったばかりの高校生活は針の
「あら、残念」
少女、
「ねぇ青天目君」
「何だよ」
用事は済んだはず、なのに急に呼び止められた事に空路は怪訝な顔をして、教室の出入口に向けていた足を止めて振り返る。
「信じてるから」
「……はぁ?」
掴み所の無い言葉を発する彼女に空路は疑問符を返したが、彼女はただ微笑むのみ。
紅く染まった夕日に背後から照らされた咲夜はスっとその虚の様に光のない瞳を空路に向ける。
それはまるで、彼自身の映し鏡のようであった。
空路がそっと目を背けると、咲夜は薄く微笑んで一歩彼へと近づいた。
「またね、青天目君」
それだけ言って咲夜はそのまま空路の横を通り過ぎて教室の出入口から出ていった。
「また、が有るのか……」
空路は彼女が出ていった引き戸をぼんやりと眺めながら、何故こんな事になったのかと後悔も程々に、そもそもの事の発端である春のある日へと、その思考を回した。
◇
四月某日。
まだ硬い制服に違和感を感じながら玄関で真新しい靴を履いた空路は、手荷物に忘れ物がないことを確認してから後ろを向く。
「行ってきまーす」
「いってらー」
外出をする旨の言葉に対し、リビングの方から返ってきた妹の気の無い返答に彼は溜息を吐いた。
空路の家は普段から彼と血の繋がらぬ妹の二人暮しであり、両親は海外で働いている。
ここの特殊な家庭事情については今は割愛するとして、要は彼が学校へ出ていくとこの家は今日から中学生になる妹一人になる訳であり、そこが彼の目下の懸念事項であった。
「おーい、新しい学校は行かないのかー。今日から中学校だろー?」
「中学校に対して発動!聖なるバリア、ミラー○ォース!」
「えぇ……」
いや学校を破壊すんなよ。
妹の不登校は小学校から続き、今年で三年目。
当初は何かと彼女を外に出そうと彼なりに試行錯誤をしたものだが、「迷惑かけてないし問題ないでしょ」と言われればそれまでであり、彼は一年も経たず諦めた。……完全にという訳ではないが。
空路は今回も説得を早々に諦め、戸締りと火の扱いだけは気をつけろとだけ言い残して家を出た。
彼が一駅分程を自転車で移動して辿り着いたのは、私立
多くの同じ様に登校してきた同級生に混じり、彼も自転車を駐輪場に停めて校内へと入る。
彼は早々に自身の名前を張り出された名簿から見つけ出すと、人混みを縫うように進んで教室へとたどり着き、そして早々に机に突っ伏して寝た。
そんな彼を他所に、クラスメイト達は教室に入るやいなや、互いに交流を始める。
「おはよー!」
「おはよっ、今日からよろしく!」
「俺サッカー得意なんだよね」
「俺も俺も!どこ中だった?」
わざとらしく張られた声、矢継ぎ早に交わされる会話、些細な表情、立ち振る舞い。
彼等彼女等は登校して直ぐに、上に陣取る者は見た目や仕草から取り巻きを選別して集め、下に付く者はそのリーダーの方針を瞬時に見抜いて自身のコミュニティを選別した。
そこから脱落した者、そういった輪に馴染めぬものは輪から弾き出され、中位、下位カーストと新たな序列を作り出す。
「……うわぁ」
幸い、空路の漏れ出た声が周囲に気づかれることは無かったが、聞こえていたら彼は一瞬でこのクラスでの地位を底辺から始めていたかもしれない。
それ程に彼は今のクラスメイト達にドン引きし、腕の隙間から冷めた目を向けていた。
そして早々にクラスメイトの観察を切り上げた為に、彼は自身に一瞬だけ向いた視線と、クラス内の空気の変化に気付かない。
静かに入口を開けて教室に入ってきたのにも関わらず、その一人の少女にクラスメイトたちの関心が集まった。
艶やかな長い黒髪、スタイルも良く、所作は上品、顔立ちは眉目秀麗。
先日に先んじて行われた入学式では、首席合格者として壇上に立って居たのはクラスメイトたちの記憶に新しい。
幸か不幸か、このクラスには不変の頂点が居た。
雪城 咲夜。高嶺の花という言葉が彼女ほど似合うものはこの学校にはいないだろう。
彼女はチラリとクラスメイト達を一瞥すると、自身の席へと静かに座り、鞄から本を取りだした。
「うわ、めっちゃ綺麗……」
「私、話しかけてみようかな」
「止めときなって」
「俺告ってみようかな」
「お前が釣り合うわけねーだろ」
ザワザワと教室が先程までとは違った騒音を出す中、咲夜は特に気にすることも無く、そして誰にも話しかけさせることも無く時間は過ぎる。
そのままその空気を壊せる者は現れず、無情にもホームルームの時間を告げるチャイムが鳴る。そしてホームルームの時間丁度に教室に入って来たのはスーツ姿の女性であった。
「お前ら席につけー。ホームルーム始めんぞ」
明るめの茶髪を少し長めのウルフカットにし、耳にはピアス、掛けたメガネの奥の目付きは鋭く生徒たちを睨む。
その女性はチョークを持ち、強い筆圧で黒板に自身の名を書いた。
「私はこのクラスの担任の
「よろしくお願いしまーす!」
「ほう、威勢がいいなお前。名前は……
クラスのムードメーカー的立ち位置に収まりつつある男子がの元気のいい挨拶に先生がそう言うと、周囲も習って同調する。
挨拶するのはいい事だが、この先生への印象をよくして何を得るのか。
あって困るものでも無いだろうが、空路はあの輪に混ざるのはあとが大変そうだと遠慮した。
そこからは、担任の最初のインパクトは強かったとはいえ特に何か奇異な事を始める訳でもなく、授業や高校生活での説明等々を
「それでは最初のホームルームはこれで終わりだ……何時もならばもう一時間授業を行ってから昼食の時間になるが、プリントで説明した通り今日は今から昼食の時間だ。この後は部活動紹介が体育館で行われる。見学と体験もその後あるから興味のある奴は行くといい。以上だ」
真木先生がそこまで言ったところで丁度チャイムが鳴り、今日はもう終わりとばかりに持っていたファイルだけ持って早々に教室を出た。
「一緒に学食に行かないかい?」
「おぉ、行く行く!」
「私も行くー!」
「あ、私お弁当だから」
「私もー、一緒に食べよ?」
共に学食へ行く者や教室で机を突合せ食べる者がいる中、空路は鞄から弁当箱を取り出してひっそりと席を立った。
◇
外は春の暖かさに包まれ、満開の桜は春の風に揺れてその花弁を静かに散らす。
「ん、中々当たりの場所だったな」
空路が大きく平たい石の上に腰掛けながら弁当箱を広げるこの場所は、教室棟の隣の保健室と来賓室しかないような言わば辺境棟と呼ばれる所にある中庭の一角。
先日行われた入学式の日に、空路はこの学校の敷地を全てぐるりと回ってこの場所を見つけていた。
大体の生徒は態々こんな所に来なくても教室か学食か部室で食べる為に人気は少なく、空路的に一目惚れのような形で気に入った場所であった。
「我ながらナイス判断だな……早々にぼっち飯の場所を探そうなんて思わないもんな普通」
誰に聞かせる訳でもない独り言を呟きながらウキウキで弁当の卵焼きを口に運んだ空路だったが、その憩いの空間は初日にして早速破壊された。
「はぁ……やっと見つけた」
「うわっ」
完全に自身に向けられた見知った声に思わず拒絶的な声を返してしまい、相手の眉間に皺が寄る。
上がったテンションがジェットコースターの如く落ちて冷めていくのを卵焼きを咀嚼しながら頭の片隅で理解し、様々な呪詛を卵焼きと共に嚥下した後に幾分か低いトーンの声で言葉を発した。
「何の用だよ、花宮」
「幼馴染が一緒にご飯食べちゃダメな訳?」
目の前の彼女の黒のボブカットはインナーカラーをピンクに染めて、耳には十字のピアスが光る。
冷ややかな目でこちらを見下ろす幼馴染、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます